次世代育成事業 ウォーク 慈尊院 六本杉 丹生都比売神社

能光尊之史跡  御座石

能光尊之史跡は、和歌山県九度山町入郷にある。
能光尊は、備前美作郡の出身で、永治元年(1141)高野山中門の多聞天と持国天の二天王を彫った仏師である。

和歌山県伊都郡誌の第十篇人物誌に、佛師能光が次のように紹介されている。
佛師能光
鳥羽天皇の御代の人にして慈尊院の人なり。
高野山中門の二天の像を造れる佛師なり。
信心集に
「多聞持国二像ノ佛師能光ハ、政所ノ住人也。
或ハ木ヲ以テ木馬ヲ造リ、之ニ乗リ上洛、
或ハ鳥羽院ノ御時、御前袖ニ於テ下口シ笛ノ爲、之ヲ献ズ」
とあり。
入郷の三座屋敷といふ所に、能光塚とて五輪塔存す。

紀伊続風土記の入郷村の項には、次のように記されている。
〇御座石
村の西にありて地中に埋れたり
傳へいふ 古丹生明神 弘法大師 佛師能光と此石に 腰を掛けて休み給ひし所といふ (後略)

当地の由来紹介によると、古来首から上を病む人に霊験あらたかであると伝えられ、毎年4月5日の命日(現在は4月第一日曜日)に御供養が行われる。
また、下記の能光尊御詠歌が紹介されている。
人の身の首より上の病をば たすけ給ふとみほとけのつげ

南海高野線九度山駅下車、徒歩15分。



慈尊院

慈尊院は、和歌山県伊都郡九度山町にある高野山真言宗の寺院である。
空海(弘法大師)が816年に高野山を開山した際、金剛峯寺の建設と運営の便を図るため、慈尊院が山麓の拠点として開かれた。
以来高野山領の発展と共に整備され、高野山の玄関口として「高野政所」と呼ばれていた。
空海の母玉依御前は、この地で亡くなったと伝承されており、その廟所に弥勒菩薩を安置したところとして知られている。
弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。
後世「女人高野」といわれ、女人禁制の高野山に対して、女性の参拝客も多い。
有吉佐和子の小説「紀ノ川」にも、親子二代続けて安産祈願の乳形を奉納する寺として描かれており、現在も信仰は続いている。
本尊の木造弥勒仏坐像は国宝である。
参詣道「高野山町石道」の登り口にあり、参詣者が一時滞在するところともなっている。
境内には、高野山案内犬ゴンの石碑が建てられている。
ゴンは、昭和時代の紀州犬と柴犬の雑種で、いつしか慈尊院をねぐらとして、高野山町石道の約20㎞の道のりを、高野山上の大門まで参詣者を道案内し、慈尊院まで戻っていた。
2002年6月5日にゴンは亡くなったが、境内の弘法大師像の横に石碑が建てられた。
本堂弥勒堂は世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。
南海電鉄高野線九度山駅から徒歩25分。
山門前と東側100メートルのところに駐車場がある。




町石道

町石道は、和歌山県かつらぎ町の慈尊院から高野山に通じる総距離24キロメートルの参道である。
金剛峯寺への参詣道は、「高野七口」 (大門口、不動坂口、黒河口、大峰口、大滝口、相浦口、龍神口)といわれるようにいくつかのルートが開かれていたが、このうち最も早く開かれ、その後も主要参詣道として利用されたのが「高野山町石道」である。
町石が建立されたのは、根本大塔から奥の院までの36町と根本大塔から慈尊院までの180町の間である。
1町(約109メートル)ごとに、高さ約3メートル、幅30センチメートル、重量約750kgの五輪卒塔婆形式の石柱がある。
当初木製の卒塔婆であったが、老朽化したため、貴族や御家人などの寄進で1265年から1285年に町石として建立された。
町石の側面には、壇上伽藍からの距離(町数)のほか、密教の金剛界36尊及び胎蔵界180尊の梵字、寄進者の名前、設立の年月日及び目的などが彫り込まれている。
現在は、ハイキングの道として親しまれており、紀ノ川の眺めなどを楽しめる。
第1町石は、高野山根本大塔の道路横にあり、第180町石は、慈尊院内にある。
南海電鉄高野線九度山駅、紀伊細川駅等下車。



町石道 180町石

町石道 180町石は、和歌山県九度山町慈尊院南側の階段踊り場西側にある。
町石道は、高野山へ通じる参詣道の一つで、一町(109m)毎に石造の五輪卒塔婆が建てられている。
慈尊院から高野山伽藍までの町石道の山麓部最初の町石が、180町石である。
五輪卒塔婆の地輪部には、次のように刻されている。
正面   (梵字)百八十町 権僧正勝信
左側面  為先師前僧正聖基
右側面  文永9年(1272)十二月 日

寄進者の「権僧正勝信」について、木下浩良氏は、著書の中で次のように記している。
高野山町石の完成式(開眼法要)
 高野山町石の完成式というべき法要は、弘安八年(1285)10月21日に町石の開眼法要という形で行われました。
開眼法要とは、新しくできた仏像に仏の魂を迎え入れる法要のことです。
 その法要の導師を務めたのが、このときに高野山の座主(一寺の事務を統括する寺院の代表者)であった、京都東寺の長者(首長のこと)の勝信(しょうしん)でした。
古い時代の高野山の座主は東寺長者が兼務していました。勝信は関白九条道家の子供です。京都勧修寺長吏(首長のこと)、奈良東大寺の別当(寺の事務を統括する寺院の代表者)なども歴任しています。
 勝信はこの当時の宗教界の大物でした。高野山の町石の180町石の造立もしています。
 開眼法要は、150人もの僧侶が集まって行われました。(後略)

南海電鉄高野線九度山駅下車、徒歩25分。


丹生官省符神社

丹生官省符神社は、和歌山県伊都郡九度山町にある神社である。
この神社は、金剛峯寺の荘園であった官省符荘の鎮守として、丹生明神と高野明神の二神をまつり、当初は紀ノ川の河畔に鎮座した。
その後、現在の地に移され、神々を合祀し、明治に入って三殿となった。
現在の神社名は第二次世界大戦後のもので、荘園時代には、「神通寺七社明神」とよび、近代には単に丹生神社と呼ばれていた。
社殿は何れも一間社春日造り、檜皮葺で、丹塗りと極彩色が施された華麗な社殿が、金剛峰寺の方角を意識して東西一列に北面して並んでいる。
三棟の社殿は、丹生、高野両明神を祀る第一殿と気比明神を祀る第二殿が永正14年(1517年)、厳島明神を祀る第三殿が天文10年(1541年)に再建されたものである。
本殿は、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。
南海電鉄高野線九度山駅から徒歩25分。



勝利寺 紙遊苑

勝利寺は、和歌山県九度山町にある高野山真言宗の寺院である。
万年山慈尊院と号し、本尊の十一面観音は弘法大師が42歳の時、厄除けのため彫刻したものと伝えられる。
「紀伊續風土記」には、「当寺は、大師以前既にありしといふ、境内塔屋敷あり、高野山より三石を寄付す」と書かれている。
本尊の脇仏として観音像二体があり、紀州領主 湯浅権守(ゆあさごんのかみ)が悪疾を病んだ時に、本尊観音に平癒を祈願して、病が癒えたので寄進したものといわれている。
仁王門は、安永2年(1773年)に完成した装飾性に富んだ二層の楼門で、本堂とともに九度山町の文化財に指定されている。
庭園は、小堀流の借景の庭園として知られ、近年復元整備されたものである。
長屋門や庫裏は、「紙遊苑」として改修され、高野紙の資料館と手漉き和紙技術の体験伝承施設となっている。
南海電車高野線九度山駅下車、徒歩30分。仁王門階段下に町営駐車場がある。



おしょぶ池

おしょぶ池は、和歌山県九度山町の勝利寺東側にある。
この池については、次のような伝説が残されている。
江戸時代、慈尊院村におしょぶという手先の器用な優しい娘が住んでいた。
おしょぶは、毎日お針の稽古に通って、着物や帯などを縫うのを楽しみにしていたが、家が貧しく他の娘のようにきれいな布を買ってもらうことができなかった。
そのようなある日、彼女は勝利寺へお針の稽古に行く途中、この池の中にぴかぴかと光る美しい布があるのを見つけ、それが欲しくてたまらなくなり池に入っていった。
すると、突然その布は恐ろしい大蛇に変わって、おしょぶを咥えて池の中に消えたという。
その後、「おしょぶ恋しや勝利寺の池に 帯が欲しさに身を投げた」というわらべうたが歌われるようになった。
また、村人たちは、霊を慰めるため、針供養をしたという。
今でも、この池に針を投げると、裁縫が上手になると言い伝えられている。


榧蒔石

榧蒔石は、和歌山県九度山町の町石道近くにある。
157町石に沿って、左の道を少し登ったところにある。
弘法大師が、町石道を通り高野山まで登る途中、当時の山崎の集落の貧しさを見かね、この石の上から榧(かや)の種をまいた。
榧の木はアクが強く、虫に食われることもなく、成長に大変時間がかかることから、歪みも少なく木材として大変優れており、現在でも碁盤の材料や住宅の柱材に使われている。
また、実は油分を多く含み、食用としても、搾って燃料としても使える。
山崎の地は、この榧のおかげで大いに栄えたと伝えられている。
弘法大師が榧の実を必要とした理由は、灯明に使う油に菜種油を使うと、高野山では凍ることがあり、榧の実から搾った油を使うと、厳しい冬でも凍ることなく灯火を保つことが出来るからだといわれている。
元来、榧蒔石は現在より大きなものであったが、昭和の初めごろ作業道を作るために一部が取り除かれた。



銭壺石

銭壺石(ぜんつぼいし)は、和歌山県九度山町の町石道沿い(156町石)にある。
鎌倉時代の文永2年(1265年)覚斅(かくきょう)上人の発願により、20年という年月をかけて町石道が整備された。
整備作業の際、北条時宗の外戚である安達泰盛が、この石の上に置いた壺に給金を入れ、作業員につかみどりをさせて与えたという伝承がある。
銭壺は上部がくびれているため、欲を出してたくさん銭をつかんでも、手が引っかかって取り出すことは出来ない。
そのため、大きな手の者でも小さな手の者でもつかめる銭の量は、大差なかったと言われている。
南海高野線九度山駅下車、徒歩75分。



教良寺地区 接待場

教良寺地区 接待場は、和歌山県かつらぎ町の高野山参詣道町石道沿いにある。
真言宗の開祖、空海(弘法大師)は承和2年(835)3月21日に入定した。
毎年、この入定の日に高野山で行われる法会を「御影供(みえく)」といい、大正時代の末期まで、人々は歩いて高野山を目指していた。
当時、御影供の日に教良寺(きょうらじ)村の有志が、当地で握り飯や湯茶の接待をして、参詣者をもてなしたことから、「接待場(せったいば)」と言い伝えられている。
ここには、弘法大師の石像があり、この石像を拝むと「遠く高野山奥の院の御廟を拝む」と言われている。
令和元年(2019)には、高野七口再生保存会が、木製のベンチを設置した。



町石道 一里石

町石道 一里石は、和歌山県かつらぎ町の町石道144町石北側にある。
高野山の町石道には、町石の他に「里石」と呼ばれる石造五輪卒塔婆が建立されている。
里は、町と同じで、距離をあらわす単位で、6町が1里、50町を1里などと定められたこともあったが、当地の里石は36町が1里(3927.3m)となっている。
町石が、壇上伽藍からの距離を示すのに対し、里石は慈尊院からの距離を示している。
里石は、慈尊院から壇上伽藍まで、36町毎に一基、町石と並列して建立されている。
36町石に一基ずつ、里石を建立するため、180町石から1町石まで、五基の里石が建てられることになるが、現在は、1里石から4里石までの四基が残っている。
明和8年(1771)の「町石見分覚」によると、壇上伽藍の1町石の横に5里石があり、それには「弘安3年(1280)」の銘が彫られていた。

鎌倉時代に造立されたとされる当地の一里石には、次のように刻されている。
(正面)  (梵字) 一里  沙弥覺仏 沙弥覺慈
(右側面) 為忠矛出離得脱
(左側面) 藤原高行

忠矛の成仏のため、覺仏と覺慈と藤原高行の3人が建立した。
木下浩良氏によると、藤原高行とは、鎌倉幕府の有力御家人 二階堂氏の一族の二階堂高行と推定され、高行の父は、貞衡といって従五位下で美作守であったという。

一里石と144町石の南側分岐には、「右ハぢそんいんみち 左はざいしやうみち」と彫られた道標石がある。


六本杉

六本杉は、和歌山県かつらぎ町町石道137町石東にある。
慈尊院から高野山大門に至る町石道沿いにあり、孝女お照の墓の進入路を経て丹生都比売神社へ通じる道の分岐点である。
六本杉の名前は古くから残っているが、六本の杉があったのではなく、ここに大杉のみごとな並木がつづいていたといわれている。

丹生都比売神社

丹生都比売神社は、和歌山県伊都郡かつらぎ町天野の里にある神社である。
丹生都比売(にうつひめ)は天照大神の妹にあたり、雅日女命(わかひるめのみこと)ともいわれる。
全国にある丹生神社は88社、丹生都比売大神を祀る神社は108社で、当社はその総本社である。
日本書紀に、「天野の祝」として当神社の宮司の記載があり、創建は1700年以上前であると伝えられている。
弘法大師空海が、白黒2頭の犬を連れた狩人(高野御子大神)に高野山に案内され、丹生都比売の神領から高野山の地を譲られたとする高野創建伝説が残されている。
祭神は、丹生都比売大神、高野御子大神(たかのみこのおおかみ)、大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ)、市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)の「高野四所明神」で、第一殿から第四殿にまつられている。
現在の本殿は、室町時代に復興されたもので、第一殿は一間社春日造りでは日本一の規模で、楼門とともに重要文化財に指定されている。
本殿の四棟は金剛峰寺の方角を意識して北西に面して建っている。
社宝として、銀銅蛭巻太刀拵(国宝)、木造狛犬(重要文化財)、木造渡金装神輿(もくぞうときんそうしんよ)(重要文化財)などがある。
木造渡金装神輿は、鎌倉時代からの「浜降り(はまくだり)神事」に用いられたもので、現在の神輿は室町時代に作られたものである。
浜降り神事は、当社から和歌浦にある玉津島神社まで、船に神輿を載せて紀ノ川を下るもので、初代の神輿は道中に波に流され失われた。
「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして、2004年に世界文化遺産に登録されている。
JR和歌山線笠田駅から、かつらぎ町コミュニティバスで「丹生都比売神社」バス停下車すぐ。
京奈和自動車道紀北かつらぎインターチェンジから、国道480号線を車で約20分。参拝者用の駐車場がある。(Y.N) 関連項目石造五輪卒塔婆群



石造五輪卒塔婆群

石造五輪卒塔婆群は、和歌山県かつらぎ町の丹生都比売神社東隅にある史跡である。
和歌山県の文化財に指定されている。
鎌倉時代末期(1293年)から南北朝時代(1336年)に、大峰修験者(山伏)がこの地で修法して建てたもので、神仏習合を示すものである。
元は神社輪橋を渡った所に建っていたが、明治維新の神仏分離により現在地に移された。
その東には、光明真言曼荼羅碑が建っている。
寛文2年(1662年)建立で、正面の円形部分に下から時計の針回りに梵字で光明真言が刻まれている。
この頃から光明真言講が形成され、この形の碑が建てられるようになった。
脇の宿石厨子は、内部に葛城修験の本尊「役の行者」の石像が安置されている。
葛城修験は、毎年4月7日に丹生明神の神体を山伏の笈に移し、脇の宿にこもり、5月4日かつらぎ町天野を出発して、加太から大和二上山まで28宿49院を巡って、6月18日に神体を神社に還す神選祭まで修行を行うものである。
JR和歌山線笠田駅からコミュニティバスで丹生都比売神社下車。



貧女の一燈 お照の墓

貧女の一燈お照の墓は、和歌山県かつらぎ町天野の里にある。
高野山奥の院の弘法大師御廟の拝殿は、燈籠堂と呼ばれている。
燈籠堂には、千年近くも燈明が輝いている「貧女の一燈」がある。
お照という少女が、自分の黒髪を売って養父母の菩提を弔うために献じた燈籠で、お照はその後、かつらぎ町天野に庵を結び、生涯を終えた。
天和2年(1682年)妙春尼によって供養塔が建てられ、貞受5年(1688年)天野の僧 浄意が女人の苦しみを救うために代受苦の行を十年間勤め、碑が建立された。その上には、実父母の墓と伝えられる碑がある。
JR和歌山線笠田駅から、かつらぎ町コミュニティバスで「丹生都比売神社」バス停下車徒歩5分。
京奈和自動車道紀北かつらぎインターチェンジから、国道480号線を車で約20分。近くに丹生都比売神社の駐車場がある。→  opera 「お照の一灯」



 貧女の一燈 お照 

むかし、和泉(いずみ)の槇尾山(まきおさん)のふもと横山村坪井に、奥山源左衛門(おくやまげんざえもん)・お幸(こう)の夫婦が住んでいた。
子宝にめぐまれるように、いつも槇尾山の観音様にお参りした帰り道、辻堂の軒下に、浪人の編み笠の中に子どもが捨てられ、声をかぎりに泣いていた。
夢中でかけ寄った二人は、子どもを抱き上げると、りっぱな絹の小そでに美しいたんざくがそえてあった。
千代(ちよ)までも ゆくすえをもつ みどり子を
         今日しき捨(す)つる そでぞ悲しき

このとき、乳飲み子を捨てるせつない親心をさとった夫婦は、(きっと仏様が授けてくださったんよ)と喜んだ。
夫婦は、子どもに「お照(てる)」と名付けて大事に育てた。

月日のたつのは早いもので、小さかったお照はすくすくと美しく育ち、村いちばんのやさしい娘になったが、お照が十六歳になったとき、流行病でお幸が亡くなっってしまった。
お照の心のこもった手厚い介抱もむなしく、間もなく、父も後を追うようにこの世を去った。
父が息をひきとる前に、お照を枕元に呼んで、その生い立ちを話して聞かせ、実の親の形見を渡した。
あいついで両親を失ったお照は、一人ぼっちとなってしまったが、両親の墓参りを毎日欠かすことなく続けていた。
そしてお照は、旅人から高野山燈籠堂の話を聞き、両親のあの世の幸せを祈るため、冥土の道を照らすという灯を、「奥の院」にお供えしようと決心した。
けれども、奉公先で貧しいくらしのお照は、手元に燈籠供養料は用意できなかった。
お照はいろいろと考えたすえ、女の命とまでいわれる黒髪を切って、お金にかえることにした。
かもじ職人の家で髪を切り短髪となったお照は、小さな木製の灯ろうを買い求め、形見の品と両親の位牌とともに高野山へ向かった。
お照は、ささやかな一生のうちで、最初で最後の高価な買い物であったが、この燈籠で両親の魂が救われると思うと本当に嬉しかった。
しかし、ようやくたどり着いた神谷(かみや)の里で、高野山の女人禁制の掟てを聞かされた。
一心に思いつめてきたお照は驚いて途方に暮れ、旅の疲れで、その場にうずくまってしまった。
そのとき幸いなことに、高野山から足早に下りてきた若いお坊さんに助けられた。
夢のお告げで一人の娘のことを知らされて、急ぎかけつけて来たという。
お照はお坊さんとともに女人堂まで上り、うれし涙で頬を濡らしながら、燈籠を渡し、お照の燈籠も須弥壇に並べられた。
奇しくもその日は、薮坂の長者が一万基の燈籠を寄進した法会があり、奥の院で新しい一万個の燈籠に灯がともされ、おごそかなお経の声に包まれて、幻想的な光景となった。
長者は先祖の菩提を弔うという厚い信仰から寄進を申し出たが、羨望のまなざしを浴びるうちに、今までに誰もできなかったことを成し遂げたとの気持ちが強くなっていた。
長者は、ふと万灯に目をやったとき、見知らぬ一灯に気付き、
「あの小さな灯ろうは、だれのものか。」
と、僧に尋ねた。
「あれは貧しい娘がささげました。」
と、聞いたとたん、
「いやしい女の、明かりが何になろう。」
と、立ち上がろうとした。
するとにわかに風がふきこんで、数多の燈籠が吹き消され、お堂の中は真っ暗になった。
その暗やみの中に、一つの光明があった。両親の菩提を祈り、乙女の命の黒髪で納めた孝女お照の燈籠だった。
この不思議なできごとに、長者は自分の行いを心からはずかしく思い、両手を合わせたという。
それから、お照のともしびは「貧女の一灯」として、長い年月を一度も消えることなく、今もなお「奥の院」の燈籠堂で清い光を放っている。

その後、お照は長者の世話により、天野の里に庵をつくり、尼となった。
毎日まことのいのりをささげるお照は、いつしか天野の里人にも親しまれるようになっていった。
ある年の冬、粉雪がまう朝、お照は慈尊院への道すがら、行きだおれの老人を見つけた。
お照は、
「御仏(みほとけ)に仕える者です。どうぞ、庵においでください。」
と、抱き起こした。
すると老人は、
「かたじけない、どうかおかまいなく………。人の情(なさけ)にすがることのできない、罪深い男でござる。このたび高野山へ登り、お大師様のもとで一生を送りたいと、ここまで参った。どうか、ざんげ話をお聞きくだされ。」と
老人は長い旅の間に妻に先立たれ、困り果てたすえ槇尾山のふもとで、わが子を捨てたことを話した。じっと聞いていたお照は、源左衛門の話を思い出した。
(もしや、このお方がお父上様では………。)
と、はやる心をおさえながら、あのたんざくの和歌を静かに読んだ。
千代までも ゆくすえをもつ みどり子を…
「そ、その和歌を知っているあなたは、照女(てるじょ)………。」
「………お父上様………。」
両手をにぎる父親と娘は、この不思議なめぐり合わせをなみだを流して喜んだ。 
その後、老人は高野山で僧になり、お照は天野の里で穏やかな祈りの一生を送ったという。
かつらぎ町では、お照の墓・庵の跡・父母の墓石の伝説が、ゆかしく語りつがれている。
(参考資料:和歌山の民話、新高野百景)



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