お染・久松の墓所

お染・久松の墓所は、大阪府羽曳野市の野中寺霊園内にある。
中央の墓石前面には、お染の法名「妙法信女」と久松の法名「宗昧信土」が刻まれている。
墓石裏面には、次のように刻されている。
享保七年一月七日建之
   久松
俗名
   お染
 大阪東堀天王寺屋権右衛(エ)門

お染の兄にあたる天王寺屋権右衛門が、二人の十三回忌(享保7年(1722))に建立したといわれている。

お染久松は、浄瑠璃、歌舞伎などの登場人物名として知られる。
「戯場年表」や「実事譚(じつじたん)」などでは、宝永7年(延宝7年とも)大坂東横堀瓦屋橋通りの搾り油屋の丁稚久松(13歳)が、主家の幼女お染(2歳)を誤って水死させ、申しわけに土蔵で首をつって自殺したのが実説とされる。
一方、黒木勘蔵氏「近世演劇考説」によると、宝永元年(1708)の心中事件であると推定している。
商家の娘と奉公人の身分違いの恋の悲劇として評判になり、歌祭文(うたざいもん)に歌われ、戯曲でも多くの「お染久松物」が創られた。
歌舞伎では、「心中鬼門角」(1710)が最初の作で、4世鶴屋南北の「於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)(1813)などがある。
浄瑠璃では、紀海音の「お染久松 袂の白しぼり」(1711)が最初で、菅専助作「染模様妹背門松」(1767)、近松半二作「新版歌祭文」(1780)が知られる。

近松半二作の新版歌祭文 蔵場の段では、お染久松の心中の場面で次のように語られる。
それと白雪白壁の 蔵と庭とに「南無阿弥陀仏」 あっと苦しむ一声に 驚くお勝 久三の小助
「久松めはくたばった」と呼ばわり出ずるを取って引き据え
「チエェ早まった御最期」と恨むに 甲斐も百八の鐘も打ち切り しらじら明け
可愛の声と諸共に 年の終りに明け渡る 春を重ねて久松が 名は大坂の東堀 今に伝えて残りけり
(日本古典文学大系52 浄瑠璃下 NHK人形浄瑠璃名演集 新版歌祭文) → 慈眼寺(野崎観音) お染久松の塚



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