会津墓地(会津藩殉難者墓地)は、京都市左京区黒谷町の金戒光明寺にある。
金戒光明寺は、御所や粟田口に近く、4万坪の広い境内を持つため、文久2年(1862)には、京都守護職がここに置かれた。
京都守護職は、徳川幕府末期の京都守衛を任務とする幕府の官職である。
彦根藩主 井伊直弼を京都守護の名目で上京させたのが先例であるが、万延元年(1860)桜田門の変で直弼が暗殺されると、彦根藩の地位が低下した。
その後、守護職に任命された会津藩主 松平容保(かたもり)は、京都所司代、京都見廻組、新撰組を指揮して尊王攘夷派の取り締まりに当たる一方、幕府の公武合体政策の責任者として、朝廷と幕府間の橋渡しの役割を果たした。
当時は、約1000人の藩士が止宿し、新撰組も出入りしていた。
境内三重塔の北にある墓地入口には、会津藩殉難者墓地と石柱が建てられ、文久2年から鳥羽伏見の戦いまでに戦死した藩士約250名の墓がある。
また京都守護職 松平容保の像も建立されている。
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