国史跡赤穂城跡

国史跡赤穂城跡は、兵庫県赤穂市にある平城跡である。
千草川の河口に初めて城を築いたのは、赤松満祐(みつすけ)の一族の岡豊前守で、15世紀中ごろといわれる。
そして戦国時代末期に宇喜多氏が、江戸初期に池田輝政が当地を領有し、城を修復した。
その後、正保2年(1645)常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)から13年の歳月を費やして、寛文元年(1661)に赤穂城が完成した。
城郭の縄張りは近藤正純の指導のもと甲州流軍学によるもので、二之丸枡形虎口付近は山鹿素行が設計変更したと伝えられている。
本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式になっており、近世城郭としては非常に珍しい変形城郭式の海岸平城とされている。
浅野家が刃傷事件で断絶し、その後は永井家、森家の居城となった。
文久2年(1862)には、二の丸門付近で、赤穂藩国家老 森主税(もりちから)が藩改革を唱える藩士たちに暗殺された。
この事件は文久事件と呼ばれ、明治4年(1871)の日本最後の集団仇討「高野の復讐」の発端となった。
明治の廃藩置県後、赤穂城は払い下げられ、屋敷地は民有地となった。
城の主な建物は明治時代に廃棄されたが、三の丸にある大石家長屋門や近藤正純の子 源八の屋敷(源八長屋)や石垣に一部が当時の様子を伝えている。
毎年12月14日には「忠臣蔵」の赤穂藩四十七士に因んで義士祭が行われる。


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