姉川古戦場は、滋賀県長浜市にある。
元亀元年(1570)6月28日、長浜市野村町と三田町の南端、姉川の両岸一帯で、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍の姉川の戦いが繰り広げられた。
戦いのあった場所の地名をとって、野村合戦とも三田村合戦とも呼ばれている。
現在、野村町の野村橋北詰近くに「姉川戦死者之碑」が建てられ、三田町の血原公園南には「姉川古戦場趾」の石碑が建てられている。
姉川の戦いの発端となったのは、元亀元年(1570)4月、織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻めたとき、朝倉氏との旧誼によって、浅井長政がそれまで同盟を結んでいた信長に反旗を翻したことにある。
信長は妹婿である長政の謀反を怒り、元亀元年(1570)6月19日、岐阜から長比(たけくらべ)(美濃と近江の国境付近)に進出し、6月21日小谷城に対峙する虎御前山に入った。
その後、6月24日浅井軍のこもる横山城攻撃に戦略を変えて、横山に北接する龍ケ鼻(たつがはな)に陣を移した。そのため、浅井軍は小谷城を出て、朝倉軍と共に大依山に出陣した。
旧陸軍参謀本部が編集した「日本戦史」によると、浅井・朝倉軍が18,000人、織田・徳川軍が29,000人で6月28日早朝から壮絶な合戦が繰り広げられた。
初め、浅井・朝倉軍が優勢であったが、徳川軍の善戦により、織田徳川軍の勝利となった。朝倉軍は越前に敗走し、浅井軍も小谷城に逃げ込み、この合戦が浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となった。
戦死者は、浅井・朝倉軍が1700余人、織田徳川軍が800余人といわれ、今も「血原」という小字名が残っている。
JR北陸本線長浜駅からバスで野村橋下車、徒歩5分。三田町血原公園には、来訪者用駐車場がある。
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