汗かき地蔵 姿見の井戸

汗かき地蔵、姿見の井戸は、和歌山県高野山奥の院中の橋の北東にある。

汗かき地蔵について、日野西眞定氏は、「高野山民俗誌 奥の院編」で次のように記している。
  汗かき地蔵は、つねに衆生の苦を代わって受けて汗を流していると信じられている。
  これは、「十輪経」のなかに、地蔵尊は「諸地獄ニ遊戯(ゆうけ)シテ、決定(けつじょう)苦ヲ変リテ受ク」と信じられていることから生まれた信仰である。
  事実、現在の汗かき地蔵尊は、周囲が白い石に五輪が刻してあり、そのなかの黒色の石に地蔵尊が刻まれ、いつも汗をかいているように見える。

紀伊国名所図会では、流汗地蔵、薬井として次のように記されている。

〇流汗地蔵(あせかきじぞう)
 同上。毎朝遍身に汗を出(いだ)す。一切衆生の苦悩に代りて、地獄へ行き給う大悲代受苦なりといふ。
      水無月ばかり流汗地蔵のみまへにて
   焦熱にかはる佛もあるものを 夏なきやまと何思ひけん  易 興
     世をすくふ 汗ありがたき 誓かな             車 光

〇薬井(くすりい)
 同上。御影の井といふ。延喜帝の勅使 少納言平惟扶(これすけ)、曾て悪疾ありしに、大師霊告ありて曰く、
 若人専念遍照尊。一度参詣高野山 無始罪障道中滅。随願即得諸佛土と、因て 勅を奉じて登濟(とうせい)し、
 且此霊水を服せしに、重病忽に治せりといふ。

延喜帝とは、醍醐天皇を指し、「少納言平惟扶」(日本紀略)は、「平維助」とも表記され、平家物語では「少納言資澄(すけずみ)卿」、高野春秋編年輯録では「中納言扶閑(すけずみ)」とも書かれている。
江戸時代には、この井戸を覗き見て、自分の姿が水に映らなければ3年以内の命であるという説が広まり、「姿見の井戸」と呼ばれるようになった。



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