芭蕉庵

芭蕉庵は、京都市左京区の金福寺境内にある。
元禄年間(1688-1703)、松尾芭蕉は山城の東西を吟行した際、草庵で自適していた金福寺の住職 鉄舟和尚を訪ね、禅や風雅の道について語り合い親交を深めた。
後に和尚はそれまで無名であった庵を「芭蕉庵」と名づけ蕉翁の高風を偲んでいた。
その後、85年ほどして与謝蕪村が金福寺を訪ねてきた。
その頃すでに庵は荒廃していたが、芭蕉に私淑していた蕪村は、その荒廃を大変惜しみ、樋口道立(どうりゅう)の発起により、安永5年(1776)庵を再興し、天明元年(1781) 俳文「洛東芭蕉庵再興記」をしたため、当寺に納めた。
これは、蕪村の代表作の一つで、含蓄のある格調の高い名文として知られ、芭蕉庵の横にその文章が掲出されている。
蕪村は庵が落成したとき、次の句を詠んだ。
  耳目肺腸(じもくはいちょう)ここに玉巻く芭蕉庵 蕪村
耳目肺腸は、司馬温公の「独楽園記」中の成語で、耳目は身体、肺腸は心の意味で、心身を示している。
この句には芭蕉の俳諧精神復興をめざす蕪村の強い決意が込められている。
蕪村は晩年金福寺に於いて「写経社」という俳句結社をむすび、4月と9月に一門の句会を催した。



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