備中松山藩 水谷(みずのや)家供養塔は、和歌山県高野山奥の院23町石南西にある。
上杉謙信霊屋前の平坦部に、8基の五輪塔があり、そのうち7基が一列に並んでいる。
7基並んだ北東端の五輪塔は、梶原政景供養塔である。
上杉謙信霊屋に近い南西端(参道側)から順に、下記の石塔が確認できる。
写真番号 | 供養者名 | 没年 | 法名 | 備考 |
① | (不詳) | 承応2年 (1653) |
心光院殿 | |
② | 備中松山藩 二代藩主 水谷 勝宗 |
元禄2年 (1689) |
榮興院殿 健岑全勇大居士 |
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③ | 備中松山藩 初代藩主 水谷 勝隆 |
寛文4年 (1664) |
大龍寺殿 鐡山全性居士 |
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④ | 備中松山藩 二代藩主 水谷 勝宗夫人 (青山幸成の娘) |
寛文〇年 | 曹渓院殿 | |
⑤ | 備中松山藩 三代藩主 水谷 勝美 |
元禄6年 (1693) |
隆昌寺殿 天山全長大居士 |
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⑥ | (不詳) | 本光院殿 | ||
⑦ | (梶原政景 逆修) | 元和元年 (1615) |
恱叟道喜居士 | 逆修塔のため 慶長15年 (1610)建立 |
水谷(みずのや)氏は、藤原北家秀郷流で、陸奥国磐城郡水谷(福島県)に住んで水谷氏を称したという。
代々常陸の大名結城氏の家臣として活躍し、豊臣秀吉の小田原攻め以降は結城氏から独立した大名として下館を領した。
慶長11年水谷勝隆(1597-1664)が父の跡を継いで常陸下館藩主となり、備中(岡山県)成羽(なりは)藩を経て、寛永19年(1642)備中松山藩水谷家初代藩主となった。
三代藩主 水谷勝美が無嗣子のまま死去し、3000石の旗本となったため、大名としての水谷家は断絶した。
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