近松門左衛門文学碑

近松門左衛門文学碑は、福井県鯖江市立待公民館の近松記念碑庭園にある。
正面の近松門左衛門翁記念碑(昭和53年建立)には、次のように刻されている。
   近松辞世文
代々甲冑の家に生まれながら武林を離れ 三槐九卿につかへ咫尺
し奉りて寸爵なく 市井に漂て商買知らず 隠に以って隠に
あらず 賢に似て賢ならず ものしりに似て何も知らず 世の
まがひもの からの大和の数ある道々 妓能 雑芸 滑稽の類
までしらぬ事なげに口にまかせ 筆にはしらせ 一生を囀(さえず)り
ちらし 今ハの際にいふべく おもふべき真の一大事は一字半
言もなき倒惑 こころに心の恥をおほひて 七十あまりの
光陰 おもへばおぼつかなき 我世経畢
   もし辞世はと問人あらば
それぞ辞世 去ほどに 扠(さて)もそののちに
残る桜が 花しにほはば
享保九年中冬上旬
入寂名 阿耨院穆矣日一具足居士
       不俟終焉期予自記春秋七十二歳
    のこれとは おもふもおろか うづミ火の
    けぬま あだなる くち木かきして

広済寺のホームページには、画像辞世文の複製画像が掲載されている。→ 富田康之氏 近松門左衛門の「画像辞世文」

北側の脇碑には、次のように刻されている。
   近松門左衛門と吉江
 近松門左衛門は、公卿三條實次を祖とする武士 杉森信義の次男として生まれた。
杉森信義は越前宰相 松平忠昌に仕え、忠昌の没後はその子 吉品に仕え、
承応二年(一六五三)福井に在住中に近松門左衛門が生まれたのである。
二年後の明暦元年、近松は父母と共に、吉品の封地吉江におもむき、その地に定住する事になった。
その期間は十年余、たまたま父が吉江藩士を辞し、京都へ出るのに従い、近松も吉江を後にしたのであった。
かくて近松の吉江在住は十五歳ころまでの事と考えられる。
その間、吉江藩扶持高三百石の武士 杉森信義の次男として、近松は恵まれた幼少年時代を送り、藩内に催される幸若舞などを観賞して、後の浄瑠璃、歌舞伎作者として大成する素地がつくられたのである。
吉江は近松にとって第一の故郷であった。
   大阪市立大学教授 森 修

近松門左衛門の出生地については、江戸時代以来、長門(山口県)、肥前(佐賀・長崎県)、山城(京都府)などの諸説があり、
それぞれに伝承が残されたりもしていたが、現在では越前(福井県)であることが確実なものとされている。
( 「近松門左衛門三百五十年」所収 原道生氏「Ⅰ肖像・出自」参照)
昭和33年大阪市立大学の森修氏が、近松の本家筋に当たる杉森家に現存する(宗門方へ提出した)親類書の写しや系譜(鯖江市まなべの館所蔵)に基づいて、越前福井(幼少期は鯖江市吉江町)説を発表した。
平成15年3月には、大阪府箕面市の龍安寺で近松門左衛門直筆の写経が発見された。
この大般若経の写経は、元禄5年9月に、亡き父の杉森信義と兄の智義の七回忌に際して奉納されたもので、そこに記されていた二人の戒名は杉森家の系図に残されていたものと一致していた。
他の出生地説には、この戒名は登場しないため、直筆の戒名の記載が数多くの出生地論争に終止符を打つ証拠となり、越前出生説は学界での定説となった。→ 近松門左衛門ゆかりの地



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