近松門左衛門ゆかりの地

近松門左衛門ゆかりの地を紹介します。

高観音近松寺

高観音(たかかんのん)近松寺(ごんしょうじ)は、滋賀県大津市にある。
平安時代に、安然開基の天台寺門派の寺院で、三井寺(園城寺)の別所の一つである。
近松門左衛門(1653-1724)は、江戸時代前期の浄瑠璃、歌舞伎作者で、「日本のシェークスピア」とも呼ばれる。
承応2年(1653)越前吉江藩士 杉森信義(のぶよし)の次男 信盛(のぶもり)として、福井で生まれた。
父が浪人となったため京都に移り、一時近江国の三井寺高観音近松寺に遊学したしたことから、筆名の「近松門左衛門」はその縁でつけたともいわれる。
京阪電鉄京津線上栄町駅下車徒歩5分。



近松門左衛門文学碑

近松門左衛門文学碑は、大阪市中央区高津2丁目にある。
昭和59年(1984)の国立文楽劇場完成を記念して、松屋町筋沿いに建立された。
近松門左衛門作の人形浄瑠璃 心中重井筒(しんじゅうかさねいづつ)下之巻「道行 血潮の朧染(おぼろぞめ)」の次の一節が刻まれている。(Yahoo知恵袋 参照)
ここは竹田か夜は何時ぞ。五ツ六ツ四ツ千日寺の鐘も八ツか七ツの芝居。
二人が噂世話狂言の仕組の種となるならば、我を紺屋の片岡に、何とか思ひ染川は台詞に泣いてくれよかし。
包む袂の飛騨掾。二つ番(つがひ)の手妻(てづま)にも、かかるなりふりうつすとも、この思をばよも知らじ。

心中重井筒は、宝永4年(1707)末に大坂竹本座で初演されている。
1704年に大坂万年町の紺屋徳兵衛と六軒町重井筒屋の遊女が心中した事件に取材した3巻の世話物で、近松門左衛門が55歳の時に書き上げた。
大坂万年町の紺屋の入婿 徳兵衛は、実家の色茶屋 重井筒屋の抱え女郎 お房と馴染みを重ねていた。
そのお房の危難を救う金を工面するため、計略を考え養家を担保に銀を借りたが、妻のお辰の貞節に心打たれ、事実を明かして銀を返した。
お房は約束の時刻に徳兵衛が姿を見せないため自害しようとしたが、家人に発見された。
お房の身を案じて重井筒屋を訪れた徳兵衛は、夜半、屋根伝いに忍んできたお房と心中の決意を語り合い、重井筒屋を脱出する。
上記の「道行 血潮の朧染」は、徳兵衛とお房が樽屋町から道頓堀へ抜け、高津の大仏勧進所を最期の場所に定めて行く場面で語られる。




近松門左衛門墓

国指定史跡 近松門左衛門墓は、大阪市中央区谷町8丁目にある。
近松門左衛門(1653-1724)は、江戸時代前期の浄瑠璃、歌舞伎作者で、「日本のシェークスピア」とも呼ばれる。
承応2年(1653)越前吉江藩士 杉森信義(のぶよし)の次男 信盛(のぶもり)として、福井で生まれた。
父が浪人となったため京都に移り、一時近江国の三井寺高観音(みいでらたかかんのん)の近松寺(ごんしょうじ)に遊学したしたことから、筆名の「近松門左衛門」はその縁でつけたともいわれる。
延宝5年(1677)25歳ごろまでには、京都の宇治加賀掾(かがのじょう)のもとで浄瑠璃作者となり、天和3年(1683)には、古浄瑠璃「世継曽我(よつぎそが)」を発表している。
貞享2年(1685)に作った「出世景清(しゅっせかげきよ)」は、浄瑠璃の歴史を新旧に二分する画期的な作品で、それ以降「新浄瑠璃」と称するようになった。
その後、竹本義太夫と組んで浄瑠璃の作品を次々と世に出し、元禄16年(1703)に「曽根崎心中」が大ヒットし、劇作家としての地位を固めた。
「世話物」と呼ばれる市井の事件をもとにしたドラマを得意とし、竹本座の座付作者として、「冥途の飛脚」「心中天網島」「夕霧阿波鳴渡(あわのなると)」「女殺油地獄」など、庶民の心情を巧みに織り交ぜた名作を世に送り出した。
享保9年(1724)11月22日、大坂天満の仮寓で、妻子に看取られながら72歳の生涯を終えた。墓所は兵庫県尼崎市久々知の日蓮宗 広済寺(こうさいじ)にある。
妻の実家の菩提寺である大阪市中央区の日蓮宗法妙寺の境内にも墓が設けられた。近松の碑銘(法名)は、「阿耨院穆矣日一具足居士(あのくいんぼくいにちいちぐそくこじ)」である。
昭和42年(1967)の谷町筋拡張の際、同寺は大東市に移転することになったが、国史跡の近松門左衛門墓は、現地保存が義務付けられていたため、墓はその場に残される形となった。
その後しばらく放置されたが、住吉名勝保存会などの協力で整備、移転され、説明版が設置されている。
また、移転先である大東市の法妙寺境内にも、同型の供養墓が建立されている。
近松門左衛門は、同時代の井原西鶴、松尾芭蕉と並んで「元禄の三文人」と称されている。
当地から約500m東南側には、井原西鶴墓がある。
大阪メトロ谷町9丁目駅下車、徒歩6分。





本覚山 法妙寺

本覚山 法妙寺は、大阪府大東市にある日蓮宗の寺院である。
寺伝によると、永禄5年(1562)創建で、元は大坂城東辺にあったが、大坂の陣後の復興整理のため、谷町筋に移転し、昭和42年(1967)谷町筋拡張のため、現在地に移転した。
境内には、近松門左衛門の墓がある。
供養墓前には、次の説明石碑がある。
  近松門左衛門の墓
大阪市内から当寺が移転したことにより もとの地に遺された史跡 近松門左衛門の墓を住吉名勝保存会等の協力でそのまま写して安置する。
 昭和五十五年十一月
  大阪市教育委員会

近松門左衛門(1653-1724)は、江戸時代前期の浄瑠璃、歌舞伎作者で、「日本のシェークスピア」とも呼ばれる。
承応2年(1653)越前吉江藩士 杉森信義(のぶよし)の次男 信盛(のぶもり)として、福井で生まれた。
父が浪人となったため京都に移り、一時近江国の三井寺高観音(みいでらたかかんのん)の近松寺(ごんしょうじ)に遊学したしたことから、筆名の「近松門左衛門」はその縁でつけたともいわれる。
延宝5年(1677)25歳ごろまでには、京都の宇治加賀掾(かがのじょう)のもとで浄瑠璃作者となり、天和3年(1683)には、古浄瑠璃「世継曽我(よつぎそが)」を発表している。
貞享2年(1685)に作った「出世景清(しゅっせかげきよ)」は、浄瑠璃の歴史を新旧に二分する画期的な作品で、それ以降「新浄瑠璃」と称するようになった。
その後、竹本義太夫と組んで浄瑠璃の作品を次々と世に出し、元禄16年(1703)に「曽根崎心中」が大ヒットし、劇作家としての地位を固めた。
「世話物」と呼ばれる市井の事件をもとにしたドラマを得意とし、竹本座の座付作者として、「冥途の飛脚」「心中天網島」「夕霧阿波鳴渡(あわのなると)」「女殺油地獄」など、庶民の心情を巧みに織り交ぜた名作を世に送り出した。
享保9年(1724)11月22日、大坂天満の仮寓で、妻子に看取られながら72歳の生涯を終えた。墓所は兵庫県尼崎市久々知の日蓮宗 広済寺(こうさいじ)にある。
妻の実家の菩提寺である大阪市中央区の日蓮宗法妙寺の境内にも墓が設けられた。近松の碑銘(法名)は、「阿耨院穆矣日一具足居士(あのくいんぼくいにちいちぐそくこじ)」である。
昭和42年(1967)の谷町筋拡張の際、同寺は大東市に移転することになったが、国史跡の近松門左衛門墓は、現地保存が義務付けられていたため、墓はその場に残される形となった。
また、移転先である当地の法妙寺境内にも、同型の供養墓が建立されている。
近松門左衛門は、同時代の井原西鶴、松尾芭蕉と並んで「元禄の三文人」と称されている。




広済寺 近松門左衛門墓所

広済寺、近松門左衛門墓所は、兵庫県尼崎市久々知にある。
広済寺は、もと禅寺であったが、荒廃していたところを 正徳4年(1714)に日昌上人が法華経の道場として再興した。
近松門左衛門(1653-1724)は、江戸時代前期に活躍した浄瑠璃、歌舞伎作者である。
日昌上人の父 尾崎吉左衛門が営んでいた大坂松島の船問屋で、近松が諸国往来の話を聞き、浄瑠璃の脚本を書いていた関係から、広済寺再興の本願人となって尽力したという。
そして、近松翁は広済寺本堂裏に「近松座敷」(八畳三間)を造り、数々の名作を書き残した。
享保9年(1724)11月22日、近松は大坂天満の仮寓で、妻子に看取られながら72歳の生涯を終えた。
近松の遺言により、日昌上人は、遺骨を持ち帰り当山に葬った。
墓石には、近松の法名「阿耨院穆矣日一具足居士(あのくいんぼくいにちいちぐそくこじ)」と妻の法名「一珠院妙中月事信女」が刻されている。
近松門左衛門墓所は、昭和41年に国の史跡に指定された。
毎年11月22日の命日にあわせて、近松祭が催される。
なお、妻の実家の菩提寺である大阪市中央区の日蓮宗法妙寺の境内にも墓が設けられた。
一帯は近松の里と呼ばれ、広済寺東側には、「近松記念館」があり、近松の像も建立されている。
JR福知山線塚口駅下車、徒歩13分。




近松記念館

近松記念館は、兵庫県尼崎市久々知にある。
地域の人々により設立された「財団法人近松記念館」によって、昭和50年(1975)11月22日に開館したもので、平成20年6月にリニューアルオープンした。
資料室には、近松門左衛門の過去帳、愛用の文机、手紙などゆかりの資料約100点が展示されている。
園田学園女子学園近松研究室の協力により、近松の出生から菩提寺である廣濟寺とのゆかりなどが展示されている。
入口北側には、近松門左衛門像があり、JR尼崎駅前には代表作「冥途の飛脚」の梅川の像が設置されている。
阪急塚口駅、阪神尼崎、JR尼崎駅からバスで近松公園下車、徒歩3分。





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