近松門左衛門墓

国指定史跡 近松門左衛門墓は、大阪市中央区谷町8丁目にある。
近松門左衛門(1653-1724)は、江戸時代前期の浄瑠璃、歌舞伎作者で、「日本のシェークスピア」とも呼ばれる。
承応2年(1653)越前吉江藩士 杉森信義(のぶよし)の次男 信盛(のぶもり)として、福井で生まれた。
父が浪人となったため京都に移り、一時近江国の三井寺高観音(みいでらたかかんのん)の近松寺(ごんしょうじ)に遊学したしたことから、筆名の「近松門左衛門」はその縁でつけたともいわれる。
延宝5年(1677)25歳ごろまでには、京都の宇治加賀掾(かがのじょう)のもとで浄瑠璃作者となり、天和3年(1683)には、古浄瑠璃「世継曽我(よつぎそが)」を発表している。
貞享2年(1685)に作った「出世景清(しゅっせかげきよ)」は、浄瑠璃の歴史を新旧に二分する画期的な作品で、それ以降「新浄瑠璃」と称するようになった。
その後、竹本義太夫と組んで浄瑠璃の作品を次々と世に出し、元禄16年(1703)に「曽根崎心中」が大ヒットし、劇作家としての地位を固めた。
「世話物」と呼ばれる市井の事件をもとにしたドラマを得意とし、竹本座の座付作者として、「冥途の飛脚」「心中天網島」「夕霧阿波鳴渡(あわのなると)」「女殺油地獄」など、庶民の心情を巧みに織り交ぜた名作を世に送り出した。
享保9年(1724)11月22日、大坂天満の仮寓で、妻子に看取られながら72歳の生涯を終えた。墓所は兵庫県尼崎市久々知の日蓮宗 広済寺(こうさいじ)にある。
妻の実家の菩提寺である大阪市中央区の日蓮宗法妙寺の境内にも墓が設けられた。近松の碑銘(法名)は、「阿耨院穆矣日一具足居士(あのくいんぼくいにちいちぐそくこじ)」である。
昭和42年(1967)の谷町筋拡張の際、同寺は大東市に移転することになったが、国史跡の近松門左衛門墓は、現地保存が義務付けられていたため、墓はその場に残される形となった。
その後しばらく放置されたが、住吉名勝保存会などの協力で整備、移転され、説明版が設置されている。
また、移転先である大東市の法妙寺境内にも、同型の供養墓が建立されている。
近松門左衛門は、同時代の井原西鶴、松尾芭蕉と並んで「元禄の三文人」と称されている。 → 近松門左衛門ゆかりの地
当地から約500m東南側には、井原西鶴墓がある。
大阪メトロ谷町9丁目駅下車、徒歩6分。





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