井原西鶴墓は、大阪市中央区上本町西4丁目の誓願寺境内にある。
井原西鶴(1642-1693)は、江戸時代の俳諧師、浮世草子作者である。
大坂の富裕な商家に生まれ、本名は平山藤五(ひらやまとうご)と伝えられている。
西鶴は、談山(たんざん)派の西山宗因に師事して俳諧を学び、寛文2年(1662)俳諧師として独立した。
自由奔放な句風で知られ、延宝年間(1673-81)には、矢数俳諧(弓術の大矢数をまねて、1日の間につくった句数の多さを競う俳諧興行)を創始して、世間の注目を集めた。
観衆の前で、「盗人と思いながらもそら寝入り、親子の中へ足をさしこみ」と詠んで、泥棒と思ったら、娘に夜這いにきた男だった という市井の情景を生き生きと描き出している。
生国魂神社で一昼夜のうちに4000句を詠み、住吉大社では2万3500句の独吟興行を行ったと言われている。
天和2年(1682)、西鶴40歳の時に世に出した「好色一代男」が大ヒットし、浮世草子時代の開幕を告げる記念碑的作品となった。
源氏物語(54帖)の光源氏が7歳で文章を読みはじめる事になぞらえ、好色一代男(54章)の世之介が7歳から恋にめざめ、60歳で女護の島に船出するまでの全国女性との恋愛遍歴を描いた。
その後も「好色五人女」「日本永代蔵」「世間胸算用」などの作品を発表し、同時代の近松門左衛門、松尾芭蕉と並んで「元禄の三文人」と称されている。
私生活では、妻、子供を先に失くし、辞世の句「人間五十年の究(きはま)り、それさへ我にはあまりたるにましてや 浮世の月見過しにけり末二年」を残して、52歳で生涯を終えた。
「仙皓(せんこう)西鶴」の法名を刻んだ墓石は、明治20年(1887)頃に誓願寺境内で発見されたと言われており、発見者の一人は幸田露伴とも伝えられている。
墓の傍らに、「鯛ハ花ハ見ぬ里もあり今日の月」と西鶴自筆の句を刻した石碑がある。
山門左側には、武田麟太郎文学碑が建てられており、作品「井原西鶴」の誓願寺が描かれた一節が刻されている。
なお、誓願寺には懐徳堂の歴代学主であった中井一族の墓もある。
近鉄奈良線大阪上本町駅下車徒歩6分。
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