梅川忠兵衛 冥途の飛脚 ゆかりの地

文楽 歌舞伎の 梅川忠兵衛 冥途の飛脚 ゆかりの地を紹介します。

梅川忠兵衛ゆかりの淡路町

梅川忠兵衛ゆかりの淡路町は、大阪市中央区淡路町3丁目の吉野寿司前にある。
近松門左衛門の「梅川忠兵衛 冥途の飛脚」は、正徳元年(1711)に竹本座で初演された人形浄瑠璃で、実話をもとに書かれたものである。→ 冥途の飛脚 「梅川 忠兵衛」記念碑 梅川忠兵衛供養墓
槌屋の遊女(傾城) 梅川に入れあげる亀屋忠兵衛の店が、淡路町の当地にあった飛脚問屋の亀屋だったことから、昭和54年11月吉日に石碑が建立された。

梅川忠兵衛 冥途の飛脚 上之巻 淡路町亀屋の段は、次の語り出しで始まる。(出典 日本古典文学全集44 近松門左衛門集(2))
みをづくし 難波に咲くやこの花の 里は三筋(みずぢ)に町の名も 佐渡と越後の合の手を 通ふ千鳥の淡路町
亀屋の世継忠兵衛 今年二十(はたち)の上はまだ 四年以前に大和より 敷銀(しきがね)持って養子分 (以下略)



梅川忠兵衛供養墓

梅川忠兵衛供養墓は、大阪市天王寺区城南寺町にある。
南端には、「梅忠ノ牌」と書かれた石柱がある。
向かって左側の梅川の供養墓には、「梅室妙覚信女」、
向かって左側の忠兵衛の供養墓には。「妙法頓覚利達」と法名が刻されている。

近松門左衛門作の浄瑠璃「梅川忠兵衛 冥途の飛脚」は、正徳元年(1711)3月5日に竹本座で初演された。
実説は明らかでないが、正徳6年刊の「好色入子枕」によると、大百姓増田忠左衛門の長男 忠兵衛が、隣家の浪人の娘 お吉と通じる。
お吉の父は怒り、折檻しすぎて娘を殺してしまう。忠兵衛の父は、対面上勘当と称して忠兵衛を大坂の亀屋へ養子にやる。
忠兵衛は身を慎んでいたが、ある日槌屋の屋根に落ちた凧を取りに行って梅川と知り合い、ついには公金を使って梅川を請け出し、大和へ逃げる途中捕らえられて処刑された。
(出典 日本古典文学全集44 近松門左衛門集(2))

忠兵衛の出身地は、奈良県新口村で、橿原市新口町善福寺には、忠兵衛の供養碑がある。→ 新ノ口駅前記念碑 梅川忠兵衛ゆかりの淡路町




善福寺 「冥途の飛脚」 忠兵衛 供養碑

善福寺 「冥途の飛脚」 忠兵衛 供養碑は、奈良県橿原市新口町にある。
近松門左衛門作の浄瑠璃「梅川忠兵衛 冥途の飛脚」のモデルとなった忠兵衛の出身地が新口村である。→ 新ノ口駅前記念碑 梅川忠兵衛ゆかりの淡路町

梅川忠兵衛 冥途の飛脚は、正徳元年(1711)3月5日に初演された。
実説は明らかでないが、正徳6年刊の「好色入子枕」によると、大百姓増田忠左衛門の長男 忠兵衛が、隣家の浪人の娘 お吉と通じる。
お吉の父は怒り、折檻しすぎて娘を殺してしまう。忠兵衛の父は、対面上勘当と称して忠兵衛を亀屋へ養子にやる。
忠兵衛は身を慎んでいたが、ある日槌屋の屋根に落ちた凧を取りに行って梅川と知り合い、ついには公金を使って梅川を請け出し、大和へ逃げる途中捕らえられて処刑された。
(出典 日本古典文学全集44 近松門左衛門集(2))

冥途の飛脚では、忠兵衛が三百両の封印切の大罪を犯して梅川とともに駆け落ちし、郷里を訪れる場面が描かれている。
新口村の段 「忠三郎内の場」では、次のように浄瑠璃が語られる。
無慚(むざん)やな忠兵衛、我さへ浮世忍ぶ身に 梅川が風俗の人の目立つを包みかね 借駕籠に日を送り、
奈良の旅籠屋、三輪の茶屋 五日、三日、夜を明し、二十日あまりに、四十両 使ひ果たして二分残る
かねもかすむや初瀬山 余所(よそ)に見捨てて親里の、新口村に 着きけるが これ、お梅 こゝは我が生まれ在所(以下略)

橿原市葛本町の安楽寺には、忠兵衛の阿弥陀石仏碑がある。
大阪市天王寺区には、梅川忠兵衛供養墓がある。




冥途の飛脚「梅川 忠兵衛」記念碑

冥途の飛脚「梅川 忠兵衛」記念碑は、奈良県橿原市新ノ口駅前にある。
近松門左衛門作の浄瑠璃「梅川忠兵衛 冥途の飛脚」新ノ口村の段では、当地が舞台となっている。→ 善福寺 忠兵衛供養碑 梅川忠兵衛ゆかりの淡路町

梅川忠兵衛 冥途の飛脚は、正徳元年(1711)3月5日初演された。
実説は明らかでないが、正徳6年刊の「好色入子枕」によると、大百姓増田忠左衛門の長男 忠兵衛が、隣家の浪人の娘 お吉と通じる。
お吉の父は怒り、折檻しすぎて娘を殺してしまう。忠兵衛の父は、対面上勘当と称して忠兵衛を亀屋へ養子にやる。
忠兵衛は身を慎んでいたが、ある日槌屋の屋根に落ちた凧を取りに行って梅川と知り合い、ついには公金を使って梅川を請け出し、大和へ逃げる途中捕らえられて処刑された。
(出典 日本古典文学全集44 近松門左衛門集(2))

冥途の飛脚 新ノ口の村の段では、忠兵衛が梅川とともに郷里を訪れ、父と別れる場面が描かれている。
国立文楽劇場の令和5年(2023)1月公演では、「傾城恋飛脚」新口村の段で、次のように浄瑠璃が語られる。
落人のためか今は冬枯れて、薄尾花はなけれども 世を忍ぶ身の後や先、人目を包む頬かぶり、隠せど色香梅川が 馴れぬ旅路を忠兵衛が、労(いたわ)る身さへ雪風に、
凍える手先懐に、暖められつつ暖めつ、石原道を足曳(あしびき)の 大和はこゝぞ故郷の、新口村に着きけるが 「コレこゝはわしが生まれ在所。(以下略)




安楽寺(忠兵衛の阿弥陀石仏碑)

安楽寺(忠兵衛の阿弥陀石仏碑)は、奈良県橿原市葛本町にある浄土宗の寺院である。
近松門左衛門作の浄瑠璃「梅川忠兵衛 冥途の飛脚」や、菅専助・若竹笛躬合作の「傾城恋飛脚」のモデルとなった忠兵衛の出身地が新口村である。→ 新ノ口駅前記念碑 梅川忠兵衛ゆかりの淡路町

梅川忠兵衛 冥途の飛脚は、正徳元年(1711)3月5日に初演された。
実説は明らかでないが、正徳6年刊の「好色入子枕」によると、大百姓増田忠左衛門の長男 忠兵衛が、隣家の浪人の娘 お吉と通じる。
お吉の父は怒り、折檻しすぎて娘を殺してしまう。忠兵衛の父は、対面上勘当と称して忠兵衛を亀屋へ養子にやる。
忠兵衛は身を慎んでいたが、ある日槌屋の屋根に落ちた凧を取りに行って梅川と知り合い、ついには公金を使って梅川を請け出し、大和へ逃げる途中捕らえられて処刑された。
(出典 日本古典文学全集44 近松門左衛門集(2))

冥途の飛脚では、忠兵衛が三百両の封印切の大罪を犯して梅川とともに駆け落ちし、郷里を訪れる場面が描かれている。
新口村の段 「忠三郎内の場」では、次のように浄瑠璃が語られる。
無慚(むざん)やな忠兵衛、我さへ浮世忍ぶ身に 梅川が風俗の人の目立つを包みかね 借駕籠に日を送り、
奈良の旅籠屋、三輪の茶屋 五日、三日、夜を明し、二十日あまりに、四十両 使ひ果たして二分残る
かねもかすむや初瀬山 余所(よそ)に見捨てて親里の、新口村に 着きけるが これ、お梅 こゝは我が生まれ在所(以下略)

至心山願生院安楽寺の山門を入った東側に、阿弥陀仏の石碑がある。
阿弥陀仏に向かって右側には、忠兵衛の戒名「休安禅定門忠兵衛」、左側には梅川の戒名「香薫禅定尼梅かわ」が刻まれている。

橿原市新口町の善福寺には、「冥途の飛脚」忠兵衛供養碑がある。
大阪市天王寺区には、梅川忠兵衛供養墓がある。





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