竹本座跡は、大阪市中央区道頓堀1丁目8番にある。
かに道楽の店を挟んで南側のビルの間に石碑があり、上と横に説明文が書かれている。
初代 竹本義太夫(1651-1714)(たけもとぎだゆう)が、貞享元年(1684) 人形浄瑠璃の小屋として当地 大坂道頓堀に竹本座を開いた。→ 元祖竹本義太夫誕生地
「世継曽我(よつぎそが)」を手始めに、「藍染川(あいぞめがわ)」「以呂波(いろは)物語」などが興行された。
元禄16年(1703)の世話物第一作「曽根崎心中」(近松門左衛門作)は大当たりとなり、積年の借財を一気に返済した。
竹本義太夫と近松門左衛門が没した後も、竹田出雲の努力で竹本座は繁栄したが、出雲の死後は人気が衰え、明和4年(1767)に八十余年の歴史に幕を閉じた。
元禄16年(1703)竹本義太夫の弟子であった豊竹若太夫(とよためわかたゆう)が、同じ道頓堀に豊竹座を開き、人気を集めた。→ 本経寺 豊竹若太夫墓所
豊竹座の人形遣いで、女形の所作で人気を博した辰松八郎兵衛(たつまつはちろべい)を共同経営者として、竹本座に対抗する一大勢力となった。
このように江戸時代に道頓堀は、地味で重厚な芸風の竹本座と、派手で技巧的な豊竹座が並び立ち、浄瑠璃の全盛期(「竹豊時代」)を迎えた。
その後の盛衰を経て、幕末には淡路の植村文楽軒が大阪で始めた一座が中心的な存在となり「文楽」が人形浄瑠璃の代名詞となり、
昭和38年(1963)の財団法人文楽協会設立、昭和59年の国立文楽劇場開場を経て、平成15年(2003)には、ユネスコの世界無形文化遺産に登録された。
このような歴史から、人形浄瑠璃文楽の歴史が始まった場所である当地に、石碑が建立された。
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