心中天の網島ゆかりの地


近松門左衛門の浄瑠璃「心中天の網島」ゆかりの地を紹介します。

梅田橋跡

梅田橋跡は、大阪市北区堂島三丁目にある。
江戸時代には、現在の新地本通と堂島上通の間に蜆川(別名 曽根崎川)が流れていた。
蜆川と現在の田蓑橋の通りが交差するところ(現在の堂島3丁目交差点付近)に、梅田橋が架かっていた。
梅田橋は、梅田墓への通路となっていて、蜆川で一番最初に架けられたと言われる。

天保13年(1842)に公認の遊所となった北の新地(曽根崎新地)の中心地は梅田橋付近であった。
その後、蜆川は、明治42年(1909)の「北の大火」のあと埋立てられて梅田橋もなくなり、現在では「梅田橋ビル」がわずかにその名を残す形となっている。
おおさかあそ歩」の「恋風の身で、北新地蜆川跡を辿れば~この世の名残り、夜も名残り。死にに往く身をたとふれば~」まち歩きマップでは、梅田橋や蜆川の位置関係が分かりやすく示されている。

近松門左衛門の「曽根崎心中」(1703年初演)は、天満屋の遊女 お初と、醤油屋の手代 平野屋徳兵衛の悲恋を描いた物語で、次のように蜆川や梅田橋が登場する。
<天満屋の段>
「恋風の 身にしじみ川(蜆川) 流れては、そのうつせ(虚)貝(うつせがい)現(うつつ)なき、色の闇路(やみじ)を照らせとて、夜毎に灯す灯火(ともしび)は、
四季の蛍よ 雨夜の星か、夏も花見る梅田橋。旅の鄙人(ひなびと) 地(ぢ)の思ひ人、心々のわけの道、知るも迷へば 知らぬも通ひ 新色里と賑わゝし (後略)」
<お初徳兵衛 道行>
「此世のなごり夜もなごり 死にゝ行く身をたとふれば あだしが原の道の霜 一足づゝに消えてゆく 夢の夢こそ あはれなれ
あれ数ふれば 暁の 七つの時が六つなりて のこる一つが今生の、鐘の響(ひびき)の聞き納め 寂滅為楽(じゃくめついらく)と響くなり
鐘ばかりかは 草も木も 空もなごりと見上ぐれば 雲心なき水の音 北斗は冴えて影映る 星の妹背の天の川 梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りて
いつまでも 我とそなたは婦夫星(めおとぼし) かならずさうと 縋(すが)り寄り 二人がなかに降る涙 川の水嵩(みかさ)も増(まさ)るべし(後略)」 → 曽根崎心中ゆかりの地
(出典 日本古典文学全集43 近松門左衛門集1)

近松門左衛門の名作世話浄瑠璃「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」(1720年初演)で登場する大和屋は、梅田橋付近にあったといわれる。
曽根崎新地 紀の国屋の遊女 小春と天満の紙屋治兵衛が心中に向かう「道行名残りの橋づくし」では、天神 菅原道真の伝説になぞらえて語られ、次のように梅田橋が登場する。
「天神橋はその昔、菅丞相と申せし時、筑紫へ流され給ひしに、君を慕ひて大宰府へ、たった一飛び梅田橋。あと追ひ松の緑橋。別れを嘆き、悲しみて、後にこがるゝ、桜橋」 

阪神電鉄本線福島駅下車、徒歩5分。




元櫻橋南詰の碑(桜橋跡碑)

元櫻橋南詰の碑(桜橋跡碑)は、大阪市北区曽根崎新地1丁目の四ツ橋筋沿いにある。
江戸時代には、蜆川(曽根崎川)が、現在の堂島川の北に流れていた。→ 曽根崎川跡 蜆橋銅板標 史跡 蜆川跡 しじみはし(蜆橋)

当地の「元櫻橋南詰の碑」の側面には、「明治四十二年七月三十一日 北区大火にて焼失す」と記されている。
「北の大火」と呼ばれるこの火災は、北区を焼き尽くすほどの被害をもたらしたと伝えられている。
その瓦礫で蜆川の上流部が埋め立てられ、大正13年(1924)には、下流部も埋め立てられた。

おおさかあそ歩」の「恋風の身で、北新地蜆川跡を辿れば~この世の名残り、夜も名残り。死にに往く身をたとふれば~」まち歩きマップでは、蜆川跡や桜橋跡碑の位置関係が分かりやすく示されている。
近松門左衛門の名作世話浄瑠璃「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」では、「北新地河庄の段」や「大和屋の段」で蜆川が描かれている。
また、曽根崎新地 紀の国屋の遊女 小春と天満の紙屋治兵衛が心中に向かう「道行名残りの橋づくし」では、天神 菅原道真の伝説になぞらえて語られ、次のように桜橋が登場する。
「天神橋はその昔、菅丞相と申せし時、筑紫へ流され給ひしに、君を慕ひて大宰府へ、たった一飛び梅田橋。あと追ひ松の緑橋。別れを嘆き、悲しみて、後にこがるゝ、桜橋」 → 大長寺

大阪メトロ四つ橋線西梅田駅下車、徒歩3分。




曽根崎川跡 蜆橋銅板標

曽根崎川跡 蜆橋銅板標は、大阪市北区曽根崎新地にある。

北側にある曽根崎川跡の碑文には、次のように記されている。
曽根崎川はかつて堂島川から分かれてここから少し南寄りのところを東西には流れ、俗に蜆川(しじみがわ)ともいわれていた
元禄年間に河村瑞軒がこの川を改修してから堂島新地・曽根崎新地が開かれた。
そのころの新地の茶屋は蔵屋敷や商家の人々のつどうところとして親しまれ このあたりからは北野や中津の田畑越しに北摂の山々が遠望でき夏の夕べには涼み舟がこの川からこぎ出たという
近松門左衛門の作品には堂島新地・曽根崎新地を舞台にしたものがあり、なかでも「心中天網島」(一七二〇の作)の一節名残りの橋づくしには当時曽根崎川にかけられていた難波小橋・蜆橋・桜橋・緑橋・梅田橋の名がたくみにとりいれられている
しかしこの曽根崎川も明治四十二年(一九〇九)の北の大火後に上流部 ついで大正十三年(一九二四)には下流部が埋立てられ 昭和二十年(一九四五)の戦災でこのあたり一帯は焼失したが 今日では北の新地としてにぎわいをとりもどしている
        昭和五十一年春  大阪市

南側にある蜆橋銅板標には、浄瑠璃研究家 木谷蓬吟(木谷正之助)の次の文章としじみばしの絵が描かれている。
小春治兵衛の涙川、
 そこに架けられた
 いたいけない蜆橋も、
大近松の靈筆に彩られて
 世界的に尽きせぬ
 艶名を謳はれてゐる。
其蜆橋志ゞみ川も大火後
 地下に埋もれては貝殻の
 跡形なきを憾みとしたが、
盛大堂主高橋氏の
 配剤により
茲に不朽の記念標
 誕生を見ること
将に起死回生の快事で
              ある。
   昭和二年夏越日 木谷蓬吟識

平成23年(2011)北区役所発行の「北区小さな旅ブック」には、当地東側に、心中天網島に登場する「茶屋「河庄」の跡」(石碑)があると紹介されているが、現在は残っていない。→ 妄想オムライス

JR東西線北新地駅下車、徒歩3分。→ 元櫻橋南詰の碑(桜橋跡) 史跡 蜆川跡 しじみはし(蜆橋) 大長寺




史跡 蜆川跡  しじみはし(蜆橋)

史跡 蜆川跡 しじみはし(蜆橋)は、大阪市北区曽根崎新地1丁目にある。
御堂筋沿いの滋賀ビル1階の壁面に石碑が埋め込まれており、次のように刻されている。
(東面) 史跡 蜆川跡
(南面) しじみはし

堂島川の北側、現在の新地本通の南側に沿って、明治時代末期まで蜆川(曽根崎川)が流れていた。→ 曽根崎川跡 蜆橋銅板標
江戸時代弘化2年(1845)の弘化改正大坂再見図によると、上流から順に次の橋が架かっていた。(大阪市北区役所「北区小さな旅ブック」参照)
難波小橋、蜆橋(堂島橋)、曽根崎橋、桜橋、助成橋、緑橋、梅田橋、浄正橋、汐津橋、堂島小橋
蜆橋は、梅新南の交差点から少し南の位置にかかっていた橋である。
四つ橋筋沿いの「元桜橋南詰の碑」の側面には、「明治四十二年七月三十一日 北区大火にて焼失す」と記されている。
「北の大火」と呼ばれるこの火災は、現在の北区の地域を焼き尽くすほどの大きな災害であったと伝えられている。
その瓦礫で蜆川の上流部が埋め立てられ、大正13年(1924)には下流部も埋められた。

近松門左衛門の「曽根崎心中」は、天満屋の遊女 お初と、醤油屋の手代 平野屋徳兵衛の悲恋を描いた物語で、天満屋の段で次のように蜆川が登場する。
恋風の身に蜆川流れては、その虚貝(うつせがい)現(うつつ)なき、色の闇路(やみじ)を照らせとて、夜毎に灯す灯火(ともしび)は、
四季の蛍よ雨夜の星か、夏も花見る梅田橋。旅の鄙人(ひなびと)地(ぢ)の思ひ人、心々の訳の道、知るも迷へば知らぬも通ひ (後略)

「心中天網島」では、道行の場面で蜆川、蜆橋が登場し、悲恋の旅路の舞台となっている。
幕末期には、新撰組と大坂相撲の力士が、蜆橋で乱闘事件を起こしている。
JR東西線北新地駅下車、徒歩5分。





船入橋碑

船入橋碑は、大阪市北区西天満にある。
当地の碑には、江戸時代の地図とともに、次のような説明文が記されている。

   船入橋
江戸時代、各藩は米や特産物を換金するため主に中之島を中心とした場所に蔵屋敷を持っていた。
川ぞいの蔵屋敷に直接船で多量の物産を搬入するため屋敷内には御船入という入堀を設けていた。
そのため、川沿いの道路は入堀への水路をまたぐために橋が必要であり、この橋を船入橋と総称した。
橋長は4間から8間半(約7.2メートルから15.3メートル)幅員2間(約3.6メートル)程度で
積荷を高く盛った船が通航しやすいように反りの大きな橋であった。
蔵屋敷は明治維新後全て姿を消したが、一部の船入橋は所有各藩の名をとめ、高松橋、徳島橋、熊本橋などとして残っていた。
平成2年、この地に入堀跡が確認されて、現裁判所の地が鍋島藩蔵屋敷跡であることが裏付けられた。
またこの船入橋は、近松門左衛門の「心中天の網島」の中で、冥土へ旅立つ男女の姿を見送る「名残りの橋」としても読み込まれている。

大阪メトロ御堂筋線 淀屋橋駅下車 徒歩10分。




藤田邸跡公園(桜之宮公園)

藤田邸跡公園(桜之宮公園)は、大阪市都島区にある。
この公園(面積約1.7ha)は、明治時代 藤田傳三郎(でんざぶろう)男爵邸の一部で、当時の邸宅は、公園周辺の旧大阪市公館、藤田美術館、太閤園などとともに広大な敷地を有していた。
藤田傳三郎(1841-1912)は、長州藩の萩(山口県萩市)出身で、明治初期 藤田組を組織して建設業ほか各種の事業を手掛け、大阪商法会議所の創設にも参画し、第二代会頭を務めるなど大阪経済の基礎を築いた実業家である。
藤田邸跡は、築山や石積みなど当時をしのばせる庭園の一部が良好な状態で残っていたことから、庭園遺構部分を出来る限り保存または復元して、桜之宮公園の一部として整備した。
作庭者は、梅園梅叟(ばいえんばいそう)という庭師で、平坦な場所に起伏に富んだ地形を人工的につくり、南北方向の築山、滝、流れなどを基本的な構成としている。
この庭園は、平成15年に「旧藤田邸庭園」として、大阪市の名勝の指定を受けている。

江戸時代、この公園と藤田美術館の辺りは、浄土宗の大長寺の敷地となっていた。
享保5年(1720)10月14日、天満の紙屋の主人 治兵衛と曽根崎の遊女 小春が当時網島にあった大長寺の裏で心中し、この事件に取材して近松門左衛門が浄瑠璃の名作「心中天網島(てんのあみじま)」を発表して有名となった。
心中天の網島の名残りの橋尽くしで、大長寺への道行が次のように語られる。

野田の入江の水煙、山の端(は)白くほのぼのと、あれ寺々の鐘の声こうこう、かうしていつまでか、とてもながらへ果てぬ身を、
最期急がんこなたへと、手に百八の玉の緒を、涙の玉にくりまぜて、南無あみ島大長寺、薮の外面(そとも)のいさら川、
流れみなぎる樋の上を、最期、所と着きにける。
(出典 日本古典文学全集 75 近松門左衛門集(2))

明治18年(1885)の淀川の大洪水で大長寺は莫大な被害を受けたため、明治42年(1909)藤田傳三郎が寺領を買い取り、約400m北の中野町(現在の大長寺)に移転した。
現在の公園の正面入口は、大長寺の山門であったと伝えられている。




大長寺

大長寺は、大阪市都島区中野町にある浄土宗の寺院である。
元は網島町の藤田美術館の場所にあったが、明治42年(1909)に現在地に移転した。
川向山普照光院と号し、本尊は阿弥陀如来である。
寺伝によると慶長10年(1605)鯰江備中守が、外祖父毛利備前守の冥福を祈念して建立したもので、開山は源蓮社光誉という。
享保5年(1720)10月14日、天満の紙屋の主人 治兵衛と曽根崎の遊女 小春が当時網島にあった当寺の裏で心中し、この事件に取材して近松門左衛門が浄瑠璃の名作「心中天網島(てんのあみじま)」を発表して有名となった。
境内には、比翼塚とよばれる小春・治兵衛の墓碑が建てられ、明治42年に塚も約400m離れた現在地に移転された。→ 昌芳山安養寺(紙屋おさんの墓)
比翼塚横の案内板には次のように記されている。

   「紙治・小春」比翼塚
「心中天網島」は享保五年(一七二〇)十月十四日当寺「お十夜法要」の夜
天満門前町の紙屋治兵衛と曽根崎新地紀之国屋の小春が密かに参詣した後
「遺書」を残して境内にて情死した。
この事件を文豪近松門左衛門が脚色して、同年十二月六日道頓堀、竹本座に於いて初演した。
「心中天網島」は近松世話物中の傑作として世に知られる。
法名・釈了智・紙治 妙春信女・小春の墓
因みに「書置」はのべ紙貮枚に認められ寺宝として現存する。

寺では、一万日目回向や開帳が行われ、安永3年(1774)の開帳では、下記の内容が書かれた治兵衛・小春の書置(遺書)が公開された。

  治兵衛と小春の書置(遺書)
今宵ありがたき御おしえにあずかり忝く存奉候、
私共浅間敷身の果、みらいのほどもおぼつかなく存候
何とぞなきあとの御とむらい被下候はば忝存奉候、
これのみ御頼み申上度書遺申候 以上
十月十四日
大長寺殿  治兵衛
        小春

比翼塚の横には、誰が袖乙吉の墓と鯉塚があり、案内板には次のように記されている。

  「鯉塚」縁起

寛文八年(一六六八年)網島の漁夫が、現在の淀川で六尺有余の大鯉を格闘数刻の上生獲って背に紋様があり、物珍しくて見世物になった。
間も無く死に当寺に葬り第八代往西和尚が回向した処、その晩夢枕に一人の武士が現れ「吾れは元和の合戦にて徳川勢と戦い討死した」との由 哀れを感じ和尚は「瀧登鯉山居士」と戒名を授け明方まで読経を続けた。と云う。

  誰が袖乙吉の墓
乙吉は元網島の漁夫であり、後に任侠名を馳せ(誰が袖乙吉)と行状有名となり往昔から浪曲・講談にて語りつがれる。
表面 --- 誰が袖乙吉の墓
右側面 --- 寛政七卯年二月十二日(注一七九五年)と彫られていたが戦災で剥落する

JR大阪駅からバスで東野田下車、徒歩3分。




昌芳山安養寺

昌芳山安養寺は、大阪市西成区岸里東にある浄土宗知恩院派の寺院である。
元禄2年(1689)創建の尼寺で、山門前には、次の二つの石碑が建てられている。

佐藤魚丸墓所

由縁斎貞柳翁手植柳  浄土宗
関取猪名川の墓      安養寺
紙治おさんの墓

佐藤魚丸(うおまる)(1752-1821)は、江戸時代の狂歌師、浄瑠璃作者である。
大坂阿波座の商人で、混沌軒国丸(こんとんけんくにまる)に狂歌を学び、蝙蝠軒(へんぷくけん)を名乗った。
通称は釘屋藤兵衛、藤太兵衛。佐藤魚丸の名で戯作を、佐川藤太(佐藤太)の名で浄瑠璃を手がけた。
狂歌集「恵比寿婦梨(えびすぶり)」、浄瑠璃「八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)」などがある。

永田貞柳(1654-1734)は、大坂の鯛屋と称する菓子商で、俳諧、狂歌作者として「狂歌中興の人」と呼ばれた。
本姓は、榎並(えなみ)、名は良因、言因。別号に油煙斎。
父の貞因に俳諧を、豊蔵坊信海に狂歌を学んだ。
佐藤魚丸の師で、貞柳が当寺に参詣したときに柳を植え、それを記念する石碑「貞柳翁種碑」が境内に建立されている。

猪名川弥右衛門(いながわやえもん)は、大坂相撲の名力士である。
浄瑠璃「関取千両幟(せんりょうのぼり)」の主人公「猪名川政右衛門」のモデルとされている。

紙治おさんは、江戸時代の商人 紙屋治兵衛の妻である。
夫 治兵衛と曽根崎の遊女小春が網島の大長寺で心中したため、おさんは治兵衛の一周忌を済ませた後、子供を実家に託して尼僧になったといわれる。
晩年を過ごしたとされる当寺境内に墓石(法名「白譽知専比丘尼」)があり、没年は宝暦9年(1759)となっている。
享保5年(1720)の心中事件の後、約40年夫の菩提を弔った。
近松門左衛門は、この心中を聞いて、浄瑠璃の名作「心中天網島」を書き、おさんを治兵衛に貞節を尽くす妻、また小春にも思いを巡らせる女性として描いている。
諏訪春雄氏は、「愛と死の伝承」において、次のように記している。
おさんは、治兵衛の一言で小春の死をさとった。「ああ悲しや。この人を殺しては女同士の義理がたたぬ。」というおさんのせりふは聞く者の肺腑をえぐる。
この一言をおさんに言わせたことによって、「心中天の網島」は日本文学史上永遠の古典としての価値を獲得した。

阪堺線聖天坂駅下車、徒歩3分。




心中天の網島 名残の橋尽し 

走り書き、謡の本は近衛流、野郎帽子は若紫、悪所狂ひの身の果ては、かくなり行くと定まりし、釈迦の教へもあることか、
見たし憂き身の因果きやう、明日は世上の言種(ことぐさ)に、紙屋治兵衛が心中と、あだ名散り行く桜木に、根ほり葉ほりを絵草紙の、
版摺る紙のその中に、あるともしらぬ死にがみに、誘はれ行くも商売に、うとき報いと観念も、とすれば心ひかされて、歩み悩むぞ道理なる。

頃は十月十五夜の、月にも見えぬ身の上は、心の闇のしるしかや、
今置く霜は明日消ゆる、はかなき譬へのそれよりも、先へ消え行く、閨の内、いとしかはいと締めて寝し移り香も、
なんとながれの蜆川、西に見て、朝夕渡るこの橋の天神橋はその昔、菅丞相と申せし時、筑紫へ流され給ひしに、
君を慕ひて大宰府へ、たった一飛び梅田橋、あと追い松の緑橋、別れを嘆き、悲しみて、後にこがるゝ桜橋、
今に話を聞き渡る、一首の歌の御威徳、かゝる尊きあら神の、氏子と生まれし身を持ちて、そなたも殺し我も死ぬ、

元はと問へば、分別の、あのいたいけな貝殻に、一杯もなき蜆橋、短きものは我々が、この世の住まひ、秋の日よ。
十九と二十八年の、今日の今宵を限りにて、二人のいのちの捨て所、爺と婆との末までも、まめで添はんと契りしに、
丸三年も馴染まいで、この災難におほ江橋。あれ見や、難波小橋から、舟入橋(ふないりばし)の浜伝ひ、
これまで来れば、来るほどは、冥途の道が近づくと、嘆けば女も縋り寄り、もうこの道が冥途かと、見交す顔も見えぬほど、
落つる涙に堀川の橋も水に浸るらん、北へあゆめば我が宿を、一目に見るも見返らず、子供の行方、女房の、あはれも胸に押し包み、
南へ渡る橋柱、数も限らぬ家々を、いかに名づけて八軒屋、誰とふし見の下り船。着かぬうちにと道急ぐ、

この世を捨てて行く身には、聞くも恐ろし天ま橋大和の二(ふた)ア川を、一つ流れの大川や、水と魚は連れて行く、
我も小春と二人づれ、一つ刃の三瀬川、手向けの水に受けたやな、何か嘆かん、この世でこそは添はずとも、
未来は言ふにおよばず、今度の今度の、つゝと今度のその、先の世までも夫婦ぞや、一つ蓮(はちす)の頼みには、
一夏(いちげ)に一部、夏書せし、大慈大悲の普門品(ふもんぼん)、妙法蓮華きやう橋(京橋)を、越ゆれば至る彼の岸の、
玉の台(うてな)にのりをへて、仏の姿に身をなり橋、衆生済度がまゝならば、流れの人のこの後は、絶えて心中せぬやうに、
守りたいぞと、及びなき、願ひも世上のよまひごと、思ひやられてあはれなり。

野田の入江の水煙、山の端(は)白くほのぼのと、あれ寺々の鐘の声こうこう、かうしていつまでか、とてもながらへ果てぬ身を、
最期急がんこなたへと、手に百八の玉の緒を、涙の玉にくりまぜて、南無あみ島(網島)の大長寺、薮の外面(そとも)のいさら川、
流れみなぎる樋の上を、最期、所と着きにける。
(出典 日本古典文学全集 75 近松門左衛門集(2))

文化デジタルライブラリー 地図で見る「道行名残の橋づくし」には、上記の橋などの位置がわかりやすく示されている。



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