史跡 蜆川跡  しじみはし(蜆橋)

史跡 蜆川跡 しじみはし(蜆橋)は、大阪市北区曽根崎新地1丁目にある。
御堂筋沿いの滋賀ビル1階の壁面に石碑が埋め込まれており、次のように刻されている。
(東面) 史跡 蜆川跡
(南面) しじみはし

堂島川の北側、現在の新地本通の南側に沿って、明治時代末期まで蜆川(曽根崎川)が流れていた。→ 曽根崎川跡 蜆橋銅板標
江戸時代弘化2年(1845)の弘化改正大坂再見図によると、上流から順に次の橋が架かっていた。(大阪市北区役所「北区小さな旅ブック」参照)
難波小橋、蜆橋(堂島橋)、曽根崎橋、桜橋、助成橋、緑橋、梅田橋、浄正橋、汐津橋、堂島小橋
蜆橋は、梅新南の交差点から少し南の位置にかかっていた橋である。
四つ橋筋沿いの「元桜橋南詰の碑」の側面には、「明治四十二年七月三十一日 北区大火にて焼失す」と記されている。
「北の大火」と呼ばれるこの火災は、現在の北区の地域を焼き尽くすほどの大きな災害であったと伝えられている。
その瓦礫で蜆川の上流部が埋め立てられ、大正13年(1924)には下流部も埋められた。

近松門左衛門の「曽根崎心中」は、天満屋の遊女 お初と、醤油屋の手代 平野屋徳兵衛の悲恋を描いた物語で、天満屋の段で次のように蜆川が登場する。
恋風の身に蜆川流れては、その虚貝(うつせがい)現(うつつ)なき、色の闇路(やみじ)を照らせとて、夜毎に灯す灯火(ともしび)は、
四季の蛍よ雨夜の星か、夏も花見る梅田橋。旅の鄙人(ひなびと)地(ぢ)の思ひ人、心々の訳の道、知るも迷へば知らぬも通ひ (後略)

心中天網島」では、道行の場面で蜆川、蜆橋が登場し、悲恋の旅路の舞台となっている。
幕末期には、新撰組と大坂相撲の力士が、蜆橋で乱闘事件を起こしている。→ 幕末散歩
JR東西線北新地駅下車、徒歩5分。



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