大長寺

大長寺は、大阪市都島区中野町にある浄土宗の寺院である。
元は網島町の藤田美術館の場所にあったが、明治42年(1909)に現在地に移転した。
川向山普照光院と号し、本尊は阿弥陀如来である。
寺伝によると慶長10年(1605)鯰江備中守が、外祖父毛利備前守の冥福を祈念して建立したもので、開山は源蓮社光誉という。
享保5年(1720)10月14日、天満の紙屋の主人 治兵衛と曽根崎の遊女 小春が当時網島にあった当寺の裏で心中し、この事件に取材して近松門左衛門が浄瑠璃の名作「心中天網島(てんのあみじま)」を発表して有名となった。
境内には、比翼塚とよばれる小春・治兵衛の墓碑が建てられ、明治42年に塚も約400m離れた現在地に移転された。→ 昌芳山安養寺(紙屋おさんの墓)
比翼塚横の案内板には次のように記されている。

   「紙治・小春」比翼塚
「心中天網島」は享保五年(一七二〇)十月十四日当寺「お十夜法要」の夜
天満門前町の紙屋治兵衛と曽根崎新地紀之国屋の小春が密かに参詣した後
「遺書」を残して境内にて情死した。
この事件を文豪近松門左衛門が脚色して、同年十二月六日道頓堀、竹本座に於いて初演した。
「心中天網島」は近松世話物中の傑作として世に知られる。
法名・釈了智・紙治 妙春信女・小春の墓
因みに「書置」はのべ紙貮枚に認められ寺宝として現存する。

寺では、一万日目回向や開帳が行われ、安永3年(1774)の開帳では、下記の内容が書かれた治兵衛・小春の書置(遺書)が公開された。

  治兵衛と小春の書置(遺書)
今宵ありがたき御おしえにあずかり忝く存奉候、
私共浅間敷身の果、みらいのほどもおぼつかなく存候
何とぞなきあとの御とむらい被下候はば忝存奉候、
これのみ御頼み申上度書遺申候 以上
十月十四日
大長寺殿  治兵衛
        小春

比翼塚の横には、誰が袖乙吉の墓と鯉塚があり、案内板には次のように記されている。

  「鯉塚」縁起

寛文八年(一六六八年)網島の漁夫が、現在の淀川で六尺有余の大鯉を格闘数刻の上生獲って背に紋様があり、物珍しくて見世物になった。
間も無く死に当寺に葬り第八代往西和尚が回向した処、その晩夢枕に一人の武士が現れ「吾れは元和の合戦にて徳川勢と戦い討死した」との由 哀れを感じ和尚は「瀧登鯉山居士」と戒名を授け明方まで読経を続けた。と云う。

  誰が袖乙吉の墓
乙吉は元網島の漁夫であり、後に任侠名を馳せ(誰が袖乙吉)と行状有名となり往昔から浪曲・講談にて語りつがれる。
表面 --- 誰が袖乙吉の墓
右側面 --- 寛政七卯年二月十二日(注一七九五年)と彫られていたが戦災で剥落する

JR大阪駅からバスで東野田下車、徒歩3分。



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