昌芳山安養寺

昌芳山安養寺は、大阪市西成区岸里東にある浄土宗知恩院派の寺院である。
元禄2年(1689)創建の尼寺で、山門前には、次の二つの石碑が建てられている。

佐藤魚丸墓所

由縁斎貞柳翁手植柳  浄土宗
関取猪名川の墓      安養寺
紙治おさんの墓

佐藤魚丸(うおまる)(1752-1821)は、江戸時代の狂歌師、浄瑠璃作者である。
大坂阿波座の商人で、混沌軒国丸(こんとんけんくにまる)に狂歌を学び、蝙蝠軒(へんぷくけん)を名乗った。
通称は釘屋藤兵衛、藤太兵衛。佐藤魚丸の名で戯作を、佐川藤太(佐藤太)の名で浄瑠璃を手がけた。
狂歌集「恵比寿婦梨(えびすぶり)」、浄瑠璃「八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)」などがある。

永田貞柳(1654-1734)は、大坂の鯛屋と称する菓子商で、俳諧、狂歌作者として「狂歌中興の人」と呼ばれた。
本姓は、榎並(えなみ)、名は良因、言因。別号に油煙斎。
父の貞因に俳諧を、豊蔵坊信海に狂歌を学んだ。
佐藤魚丸の師で、貞柳が当寺に参詣したときに柳を植え、それを記念する石碑「貞柳翁種碑」が境内に建立されている。

猪名川弥右衛門(いながわやえもん)は、大坂相撲の名力士である。
浄瑠璃「関取千両幟(せんりょうのぼり)」の主人公「猪名川政右衛門」のモデルとされている。

紙治おさんは、江戸時代の商人 紙屋治兵衛の妻である。
夫 治兵衛と曽根崎の遊女小春が網島の大長寺で心中したため、おさんは治兵衛の一周忌を済ませた後、子供を実家に託して尼僧になったといわれる。
晩年を過ごしたとされる当寺境内に墓石(法名「白譽知専比丘尼」)があり、没年は宝暦9年(1759)となっている。
享保5年(1720)の心中事件の後、約40年夫の菩提を弔った。
近松門左衛門は、この心中を聞いて、浄瑠璃の名作「心中天網島」を書き、おさんを治兵衛に貞節を尽くす妻、また小春にも思いを巡らせる女性として描いている。→ 「心中天の網島」ゆかりの地
諏訪春雄氏は、「愛と死の伝承」において、次のように記している。
おさんは、治兵衛の一言で小春の死をさとった。「ああ悲しや。この人を殺しては女同士の義理がたたぬ。」というおさんのせりふは聞く者の肺腑をえぐる。
この一言をおさんに言わせたことによって、「心中天の網島」は日本文学史上永遠の古典としての価値を獲得した。

阪堺線聖天坂駅下車、徒歩3分。





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