越後長岡藩 牧野家供養塔は、和歌山県高野山奥の院22町石北東にある。
上杉謙信霊屋へ登る参道沿い北側にある。
次の2基の大型五輪塔ほか、数基の供養塔がある。
写真番号 | 供養者名 | 没年 | 法名 | 備考 |
① | 上野国大胡藩 二代藩主 越後国長岡藩 初代藩主 牧野 忠成 |
承応3年 (1655) |
寶性院殿前四品 仙誉月卦正心大居士 |
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② | 越後国長岡藩 二代藩主 牧野 忠成(忠盛) |
延宝2年 (1674) |
超雄院殿前飛□尊誉 利岳乗見大居士 |
祖父寶性院の遺徳を慕い 同名を名乗ったので、 「後忠成公」と呼ばれる。 |
牧野氏は、家譜によると武内宿禰の後裔で、推古天皇に仕えて大和国高市郡田口に住んで田口氏を称し、讃岐を経て、応永年間(1394-1428)に成継が三河国宝飯郡牧野村(愛知県豊川市牧野町)に移って牧野氏と改称した。
牧野康成は徳川家康に仕え、天正18年(1590)上野大胡(群馬県前橋市大胡町)で2万石を領した。
康成の長男 牧野忠成(1581-1655)は、大胡藩から長峯藩さらに長岡藩へ加増移封され、譜代大名の地位を確立した。
忠成の孫 牧野忠盛は、父の光成が早死にし、承応4年長岡藩主となった。祖父の遺徳をしたいその名を継いで牧野忠成(1635-1674)(飛騨守)と名乗った。
「高野山越後長岡藩牧野家供養塔調査」によると、初代藩主牧野忠成供養塔の左右に、殉死した能勢兵右衛門信重(ひょうえもんのぶしげ)、渡辺七郎右衛門正信(しちろうえもんまさのぶ)の五輪塔(高さ約2.2m)がある。
また二代藩主牧野忠成(忠盛)供養塔の南側に倒壊した 第四代藩主 牧野忠壽(ただなが)供養塔がある。
(長岡市立科学博物館>長岡藩主牧野家資料館>殿様の部屋>Vol.4供養塔調査)
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