義仲寺(ぎちゅうじ)は、滋賀県大津市馬場の旧東海道沿いにある国指定史跡である。
本堂の朝日堂には、本尊の聖観世音菩薩像のほか、木曽義仲の位牌等が安置されている。
源(木曽)義仲は、父源義賢が甥の悪源太義平の手にかかって殺されたため、信濃の中原義遠を頼って木曽谷で成長した。
治承4年(1180)に以仁王の平家追討の令旨を受けて信濃で挙兵し、北陸から京に入って平家を西国に追った。
しかし、後白河法皇と対立し、法皇の意を受けた源頼朝の弟範頼、義経軍の軍勢と戦い、寿永3年(1184)31歳で討ち死にした。
当地には義仲の墓(宝篋印塔)があり、その横に義仲の側室、巴御前(ともえごぜん)の供養塚が建てられている。
鎌倉時代には、木曽塚、無名庵、巴寺などと呼ばれた。
室町時代末期に荒廃していたが、近江守護佐々木六角氏が「源家大将軍の御墳墓荒るるにまかすべからず」と、義仲の菩提を弔う寺を建立した。
松本章男氏は、義仲寺の呼び名に関して、「新釈平家物語」で次のように記している。
義仲を義に篤い忠誠の士であったとみた人びとが、義仲寺(よしなかでら)とは呼ばず、無名庵を義仲(忠)寺(ぎちゅうじ)とよびならわしたのか。
松尾芭蕉が、義仲寺を訪れたのは、「奥の細道」の旅から帰った後(1689年)で、その後、義仲を敬愛して当寺に滞在している。
伊勢の俳人山田又玄(ゆうげん)は、1691年に当地に滞在中の芭蕉を訪ねて泊まった時に、次の句を残している。
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」
松尾芭蕉は、元禄7年(1694)10月12日に大坂で死去し、「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺言により、
向井去来らの門人によって木曽塚に運ばれ、そのすぐ隣に埋葬された。墓石の芭蕉翁の文字は、内藤丈艸の筆といわれる。
現在、芭蕉翁墓の横には、翁堂が建てられ、芭蕉翁座像が安置されている。
松尾芭蕉の忌日は「時雨忌(しぐれき)」と呼ばれ、現在は旧暦の季節に合わせて、11月第2土曜日に営まれる。
木曽義仲の乳母子であった今井四郎兼平も粟津松原で戦死し、今井兼平の墓は、JR石山駅の北西裏に建てられている。
なお、木曽義仲の兄 源仲家は、幼いころから源頼政のもとで育てられ、宇治での合戦で平家軍と戦い、戦死したという。
JR東海道線膳所駅下車、徒歩5分。