今井兼平の墓

今井兼平の墓は、滋賀県大津市晴嵐2丁目にある。
平成18年(2006)に大津市の史跡に指定された。
今井兼平は、源平争乱で勇名をはせた木曽義仲(源義仲)の乳母子で、寿永3年(1184)1月21日粟津合戦で義仲が討死すると、後を追って自害した。
兼平の墓は、元は山手の「墨黒谷(すぐろだに)」に塚が建てられていたが、寛文元年(1661)膳所藩主 本多俊次が改めて墓石を建立し、寛文7年(1667)に次の膳所藩主 本多康将によって、東海道に近い当地に移された。
敷地の奥に一段高く石柵に囲まれた墓石があり、中央に今井四郎兼平と刻されている。
現地の案内板によると、明治44年(1911)に墓が再改修された。
当時の滋賀県知事 川島純幹、膳所町長 馬杉庄平、兼平の末裔で信州諏訪の人 今井千尋らが発起して、旧跡の規模を拡張し、その参道を改修した。
敷地内には、「右兼平庵、左今井兼平之墓入口」「謡曲兼平案内板」「粟津原合戦史跡顕彰碑」などが建てられている。
平家物語「木曽最期」では、木曽義仲が乳母子の今井兼平とともに死のうとしてあえて敵兵の多い方へ向かい、再会したのち、壮絶な最期を迎える。
佐伯真一氏によると、平家物語のなかで最も感動的な場面の一つである。
謡曲「兼平」は、主君木曽義仲の最期を、勇将兼平の語りによって描き、忠臣兼平の壮絶な討死の様をみせる修羅物である。
木曽義仲の墓所は、当地から約3.5㎞西北の義仲寺にある。
JR東海道線石山駅下車、徒歩5分。



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