寶珠山 銀山寺は、大阪市天王寺区生玉寺町にある。
生玉寺町は、西寺町の東、生国魂神社の南に延びる町で、浄土宗12寺、禅宗1寺で構成される。
当寺は、天正19年(1591)に金戒光明寺第24世縁譽休岸上人により「大福寺」として創建されたが、西方の景色が中国の経山寺に劣らぬことから寺号を「銀山寺(ぎんざんじ)」へと改名するよう豊臣秀吉に命じられた。
秀吉の守り本尊と伝わる雨宝童子、秀吉の肖像画、朱印九州攻陣立書、天皇のみが用いる草履「御召緒太」等が伝わる。
創建当時の木造阿弥陀如来立像は、右肩背面に貝殻が付着しており、海中から引きあげられたことが分かる。
現在の本尊は、恵心僧都源信作と云われている。
当寺墓地には、俳人岡西惟中の墓、「心中宵庚申」お千代半兵衛比翼塚、文楽人形遣いで人間国宝の初代吉田玉男の墓がある。
大阪メトロ谷町9丁目駅下車、徒歩10分。
お千代・半兵衛比翼塚
享保7年(1722)4月6日庚申の前夜に 大坂油掛町の八百屋半兵衛と妻お千代が生国魂神社の大仏勧進所で心中した。
この心中事件は、その直後に紀海音「心中二つ腹帯」、近松門左衛門「心中宵庚申」(以上浄瑠璃)、また「新板宵庚申」(歌舞伎)に脚色された。
特に「新板宵庚申」は大当たりし、そのため世上に広く知られた心中事件となった。
当地の墓石には次のように刻されている。
(正面)
聲應貞現信女
一 蓮通月*心信士託生 *は虫扁と隔のつくり
離身童子
(側面)
享保七寅年四月六日
墓石には、二人の戒名に加えて「離身童子」とあり、24歳の妻 お千代は妊娠していたか、赤子を抱えての心中と考えられている。
お千代は山城国上田村 島田平右衛門の妹で、大坂の川崎屋源兵衛の養女となって、八百屋半兵衛に嫁した。
川崎屋は大坂の銀山寺の有力な檀家であり、上田村の実家(島田家)の父も田を一反半ほど近くの来迎寺に寄進して半兵衛夫婦の永代供養を頼んだという。
また、半兵衛は浜松出身 山脇氏の元武士で、心中宵庚申では、八百屋の姑からお千代との離縁を迫られて、心中に至る設定となっている。
(土田衛氏「近松作品の事実と虚構 心中宵庚申」国文学解釈と鑑賞1970年10月)
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