五條代官所跡

五條代官所跡は、奈良県五條市本町にある。
「五條代官所跡」石碑横の案内板には次のように記されている。
なお、冒頭記載の五條市役所は、令和4年(2022)に岡町に移転している。

天誅組の変と五條代官所

現在五條市役所のあるこの場所に、江戸時代は五條代官所が建っていた。
五條代官所は寛政7年(一七九五)に設置され、宇智郡(今の五條市)を中心に五郡、七万千石余の天領を支配する幕府の出先機関だった。
文久二年(一八八三)八月十七日(旧暦)の七つ時(午後四時ごろ)、天誅組はここを襲撃した。

天誅組は当時先の侍従だった中山忠光を大将とする尊王攘夷の志士たちで、折から朝廷内の尊王攘夷派によって計画されていた討幕のための孝明天皇の大和行幸に呼応し、その先鋒になろうとして決起した。

天誅組は代官鈴木源内を殺害して代官所を焼き払い、支配下の領地を朝廷に差し出すと宣言して、後は孝明天皇の行幸を待つばかりとなったが、
突然起きた「八月十八日の政変」によって朝廷内の尊王攘夷派が排除されると、天誅組は一転して反乱軍にされてしまった。

天誅組は尊王の志が厚い十津川に立てこもり、ここで兵を集めてなおも抵抗を続けたが、天誅組が反乱軍となった事実が十津川郷士に知れると、
彼らも離反して勢力は日に日に弱まり、九月二十四日に吉野郡鷲家口(わしかぐち)(今の東吉野村鷲家口)でほとんど全滅した。
天誅組の変は、二か月後に起こった生野の変とともに、尊王攘夷派によって試みられた最初の反幕府武装蜂起であった。
そうした意味で天誅組の変は明治維新のさきがけとなるものであり、五條が明治維新発祥の地と言われるゆえんんである。

JR和歌山線五条駅下車徒歩10分。石碑裏に公共施設利用者用の駐車場がある。→ 天誅組ゆかりの地




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