天誅組ゆかりの地

天誅組ゆかりの地を紹介します。


天誅組義士上陸遺蹟碑

天誅組義士上陸遺蹟碑は、堺市堺区栄橋町1丁にある。
天誅組は、土佐藩出身の吉村寅太郎など尊王攘夷派の志士たちが中心となり、公卿の中山忠光を擁立して結成された。
文久3年(1863)8月、天誅組は京都方広寺を出発し、淀川を下って大坂から海路で堺港旭橋(当地)に上陸して大和に向かった。
かつては上陸するときに船を係留した楡の木が残されていたという。
石碑は、昭和11年(1936)に土佐勤皇党に参加していた政治家 田中光顕(みつあき)が関わって建立した。
田中光顕は、高知県佐川町出身の志士であった那須信吾の甥である。
那須信吾は、奈良県東吉野村鷲家口で彦根藩の銃弾を受け斃れ、明治谷墓地に埋葬された。
南海電鉄堺駅下車徒歩5分。





油屋跡

油屋跡は、大阪府河内長野市三日市町の旧高野街道沿いにある。
江戸時代に紀州藩の本陣を務めたこともあり、高野山御用宿として栄えた。
明治時代には、錦渓温泉の温泉宿として、多くの参詣客が宿泊したという。
庭園の水車は元の油しぼり業の名残で有名であった。
昭和4年に発行された「傳説の高野山」という冊子には、油屋の広告が掲載されており、
水車を中心とした庭園の挿絵が描かれ、次のように記されている。

 京阪地方から高野御参詣道筋で昔一番賑った三日市の宿場。
 その中でも数百年来の歴史と大名宿で知られた當油屋は明治廿三年の七月五日に
 畏くも山階宮晃親王殿下から浴室の下を流るる石川両岸の絶佳なる風光を嘉賞せられて
 「錦渓温泉」の名称と御宸筆とを賜ったのであります。
 客室をめぐらす寂びた大庭園には春は花、秋は紅葉、四季とりどりの花弁艶を競ひ、
 鯉魚跳ぬる池面にハラハラと散りゆくさまなど誠に捨てがたき風情があります。
 高野御参詣、御下向の道すがらには、是非御立寄りの程を。
 =お中食は一圓より=
 鮮魚御料理 御団体歓迎 客室三十餘
 南海電車高野線三日市町驛より二丁
 天然ラヂユーム 錦渓温泉 油屋
 電話 長野十四番(略)

油屋は昭和50年に廃業し、現在は油屋本陣天誅組史跡の石碑が建てられている。
幕末の文久3年(1863)天誅組一行は、富田林甲田の郷士 水郷(にごり)善之佑邸に宿泊し、
三日市の当油屋で朝食をとり、観心寺の大楠公の首塚に参拝し討幕を祈願した。
石の扉には次のように刻されている。

       天誅組と三日市油屋
 文久三年(1863)八月十七日未明、三日市宿に時ならぬ太鼓や鉦が鳴り響いた。
 公家、中山忠光を盟主とする尊王攘夷派の志士の一行が、天皇の大和行幸を契機として
 討幕の兵を挙げる大和五條に向かうため、油屋に到着したのである。
 彼らはここで休憩し、この間に態勢を整えた。
 当時、当主の油屋庄兵衛は三日市近在の村からの人足徴用や駕籠の手配など、
 彼らの世話をしたと語り伝えられている。(略)

明治4年(1871)2月には、日本最後の仇討と言われる高野山神谷の仇討では、播州赤穂藩の村上一族も当油屋に宿泊している。
高野山奥の院23町石西側には、三日市錦渓温泉油屋墓所がある。
南海高野線三日市町駅下車徒歩5分。





櫻井寺

櫻井寺は、奈良県五條市須恵にある浄土宗の寺院である。
潤生山と号し、本尊は阿弥陀如来である。
慶長9年(1604年)の縁起によると、天慶5年(942年)桜井康成によって創建され、正長元年(1428年)に兵火に遭い焼失した。
その後、天文22年(1593年)郡司平茂知ならびに上総別所知興が堂宇を再建し、新たに鐘を鋳造した。
文久3年(1863年)8月の天誅組挙兵の際の本陣となり、五条新政府ないし五条御役所と称した。
寺内には、代官鈴木源内ら五人の首を載せたと伝える「天誅組首洗いの石手水鉢」があり、「史蹟天誅組本陣趾」の石標が建っている。
また、竹本三郎兵衛ら作の浄瑠璃「艶姿女舞衣」で知られる三勝・半七の比翼塚がある。
JR和歌山線五条駅下車、徒歩7分。国道24号線南側に参拝者用の駐車場がある。




天誅組 鳥ケ峰古戦場

天誅組 鳥ケ峰古戦場は、奈良県高市郡高取町役場西の高取町文化センター前にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
文久3年(1863年)8月17日天誅組は、討幕の狼煙を上げるため五條代官所を襲撃し、26日には日本一の山城高取城を攻撃すべく攻めてきて、
高取藩はここ鳥ケ峰に、城代家老中谷栄次郎を総指揮に防御追撃体勢をととのえ、大砲4門が火蓋を切り天誅組は五條に敗走しました。

近鉄吉野線壺阪山駅下車徒歩5分。すぐ東に隣接して高取町役場前駐車場がある。





天誅組天辻本陣跡

天誅組天辻本陣跡は、奈良県五條市大塔町の天辻維新歴史公園にある。
江戸時代末期、文久3年(1863年)中山忠光、吉村寅太郎などの尊王攘夷の志士たちが「天誅組」を旗揚げし、激しい討幕運動を展開した。
大和五條で決起し、代官所を襲撃した後、交通の要地であった「天辻峠」に本陣を構えた。
この地方きっての富豪であり有力者であった「鶴屋治兵衛」をはじめ村人は居宅や人力を提供し協力した。
しかしながら、幕府軍の追補が厳しく天誅組の志士は各地で戦死した。
この地は、鶴屋治兵衛の屋敷跡であり、文久3年8月21日から天誅組本陣が置かれた場所である。
平成17年に「維新歴史公園」として整備され、石碑や歌碑が建てられている。
JR和歌山線五条駅下車、五條バスセンターから奈良交通バスで約50分、天辻下車、徒歩15分。来訪者用の駐車スペースがある。





天誅組終焉之地碑 吉村寅太郎原えいの碑

天誅組終焉之地碑、吉村寅太郎原えいの碑は、奈良県東吉野村鷲家にある。
文久3年(1863)8月、孝明天皇の神武山陵参詣を機に、中山忠光卿を主将とした「天誅組」が五条で旗揚げした。
しかしながら、「七卿の都落ち」に象徴される「八月十八日の政変」により、幕府軍の追討を受けて吉野山間部を転戦した。
文久3年9月24日から27日にかけて、東吉野村鷲家で三総裁以下15志士が戦死し、天誅組は終焉を迎えた。
9月26日の夜に、潜伏していた木津川堂本宅前の薬師堂を出た総裁吉村寅太郎は、石の本の薪小屋に隠れていたところを見つかり、9月27日に残念岩の下流30mの所で藤堂藩金屋健吉に銃殺された。
吉村の最後の言葉が「残念」だったと伝えられている。
吉村寅太郎の遺骸は、村人の手によってこの岩の根元に埋葬され、土方直行の筆による「吉村寅太郎君原瘞處」の碑が建てられた。
瘞とは、うずめる、墓などの意で、原瘞處とは、もとその遺骸を埋めていたところを指す。
明治29年(1896)に遺体が明治谷墓地に改葬された後は、吉村寅太郎を偲ぶ記念碑となっている。
天誅組終焉の地碑の東側には、吉村寅太郎遺詠の石碑があり、次の辞世が刻されている。
  吉野川 風にみだるるもみぢ葉は
    我が打つ太刀の 血煙と見よ
吉村は堂本家に土佐から持ってきた陣中箸を形見に渡し、現在も家宝として伝えられている。
近鉄大阪線榛原駅から奈良交通バスで約40分、鷲家下車。





宝泉寺 天誅義士記念碑

宝泉寺、天誅義士記念碑は、奈良県東吉野村鷲家にある。
文久3年(1863)8月、孝明天皇の神武山陵参詣を機に、中山忠光卿を主将とした「天誅組」が五条で旗揚げした。
しかしながら、「八月十八日の政変」により、幕府軍の追討を受けて吉野山間部を転戦した。
文久3年9月24日から27日にかけて、東吉野村鷲家で三総裁以下15志士が彦根藩、藤堂藩、紀州藩の幕府方と戦い戦死した。
宝泉寺は、曹洞宗の寺院で、鷲家口で戦死した志士や彦根藩士の菩提寺として、毎年11月5日には天誅組の慰霊祭が行われている。
天誅義士記念碑は、宝泉寺の前に建てられており、土方久元伯爵の書によるものである。
記念碑の横には、天誅組総裁 松本奎堂生誕の地である愛知県刈谷市から取り木された桜が植樹されている。





天誅義士明治谷墓地

天誅義士明治谷(みょうじだに)墓地は、奈良県東吉野村小川(鷲家口)にある。
文久3年(1863)8月17日に大和の五条で挙兵した天誅組の志士たちは、同年9月24日に川上村を経て東吉野に入った。
そして、幕府軍との戦闘の末、天誅組は東吉野で終焉を迎えた。
明治谷墓地には戦死した天誅組の義士9名が祀られている。
   吉村寅太郎 西田仁兵衛 天保高殿 那須信吾 宍戸弥四郎
   鍋島米之助 林豹吉郎 植村定七 山下佐吉





天誅義士湯ノ谷墓地

天誅義士湯ノ谷墓地は、奈良県東吉野村鷲家にある。
文久3年(1863)8月17日に大和の五条で挙兵した天誅組の志士たちは、同年9月24日に川上村を経て東吉野に入った。
そして、幕府軍との戦闘の末、天誅組は東吉野で終焉を迎えた。
湯ノ谷墓地には戦死した天誅組の義士9名が祀られている。
 藤本津之助(鉄石) 松本謙三郎(奎堂) 森下猪久馬(幾馬)
 福浦元吉 村上万吉
墓地横には天誅組総裁 松本奎堂生誕の地である愛知県刈谷市から取り木された桜が植樹されている。




橋本若狭旌忠碑

橋本若狭旌忠碑は、奈良県吉野郡下市町の丹生川上神社下社にある。
橋本若狭(1822-1865)は、幕末の尊攘(そんじょう)運動家である。
文政5年12月10日に宇智郡滝村(五條市滝町)の郷士 益田籘左衛門の四男 綱幸 として生まれた。
38歳で大和吉野郡丹生川上神社祠官 橋本信政の養子となり神職を継ぎ、万延元年(1860)宮司となっている。
境内に道場を設けて近隣の若者たちを指導し、二葉天明流柔術を編み出した。
文久3年(1863)天誅組の挙兵に加わり、広橋峠、下市彦根藩陣営焼き討ちなどで活躍した。
その後敗れて伊勢から京都に逃れたが、大坂に潜伏中捕縛され慶応元年(1865)6月4日京都六角牢で処刑された。
辞世として、「川上の神の心をこころにて 濁れる世には澄むとそ思ふ」が残されている。
近鉄吉野線下市口駅からバスで長谷下車すぐ。参拝者用の無料駐車場がある。







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