天誅組終焉之地碑 吉村寅太郎原えいの碑

天誅組終焉之地碑、吉村寅太郎原えいの碑は、奈良県東吉野村鷲家にある。
文久3年(1863)8月、孝明天皇の神武山陵参詣を機に、中山忠光卿を主将とした「天誅組」が五条で旗揚げした。
しかしながら、「七卿の都落ち」に象徴される「八月十八日の政変」により、幕府軍の追討を受けて吉野山間部を転戦した。
文久3年9月24日から27日にかけて、東吉野村鷲家で三総裁以下15志士が戦死し、天誅組は終焉を迎えた。
9月26日の夜に、潜伏していた木津川堂本宅前の薬師堂を出た総裁吉村寅太郎は、石の本の薪小屋に隠れていたところを見つかり、9月27日に残念岩の下流30mの所で藤堂藩金屋健吉に銃殺された。
吉村の最後の言葉が「残念」だったと伝えられている。
吉村寅太郎の遺骸は、村人の手によってこの岩の根元に埋葬され、土方直行の筆による「吉村寅太郎君原瘞處」の碑が建てられた。
瘞とは、うずめる、墓などの意で、原瘞處とは、もとその遺骸を埋めていたところを指す。
明治29年(1896)に遺体が明治谷墓地に改葬された後は、吉村寅太郎を偲ぶ記念碑となっている。
天誅組終焉の地碑の東側には、吉村寅太郎遺詠の石碑があり、次の辞世が刻されている。
  吉野川 風にみだるるもみぢ葉は
    我が打つ太刀の 血煙と見よ
吉村は堂本家に土佐から持ってきた陣中箸を形見に渡し、現在も家宝として伝えられている。
近鉄大阪線榛原駅から奈良交通バスで約40分、鷲家下車。→ 天誅組ゆかりの地




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