高取城跡

高取城跡は、奈良県高市郡高取町にある。
高取町の南東部にある標高583.6mの高取山には、高取城が建てられていた。
城下町の麓(札の辻)からの比高は446mで、近世城郭では日本一の高低差を誇る。
全国屈指の名城と言われ、美濃岩村城、備中松山城とともに、日本三大山城といわれている。
また歴史遺産として文化財の価値が評価され、平成18年(2006)に日本100名城に認定された。

城の歴史は古く、元弘2年(1332)南朝方に属した高取の土豪 越智八郎邦澄(くにずみ)が築城した。→ 光雲寺
安土桃山時代に筒井順慶の後、大和郡山城主となった羽柴秀長は、筒井氏に続いて高取城整備を進め、
その時城主であった脇坂安治(わきざかやすはる)に代わって、本多利久を入城させると、天正17年(1589)に高取城の大改修を命じた。
この本多氏によって、本丸の大小の天守が築かれ、近世城郭として整備された。
三代で本多氏が断絶した後、寛永17年(1640)徳川家譜代の植村家政が高取藩初代藩主(2万5千石)として入城し、明治維新まで14代にわたって植村家が高取藩主を務めている。→ 眞各山 宗泉寺
明治4年(1871)廃藩置県の結果、全国の城郭が廃されることとなり、高取城も明治6年に入札が行われて、大部分が取り壊し又は売却された。

現在は、場外に移築された城の遺構が残るほか、壮大な石垣が残されている。→ 高取城二の門(子嶋寺) 高取城松ノ門(移築) 高取城の瓦(光雲寺)
城の築城用石材として、飛鳥地方の古社寺の礎石や石造物が使われた。
飛鳥の石舞台古墳羨道部先端付近の天井石が欠損しているものや、酒船石の片方も石垣に使われたという。
天守台穴蔵(あなぐら)入口には、転用石が見られる。
天守台石垣では、7月にヤマユリがきれいな花を咲かせる。
天守台石垣前には、神木 天守大杉「芙蓉姫」がある。

幕末の儒学者 森田節斎(もりたせっさい)(1811-1868)は、「高取に過ぎたるものは二つあり 山のお城に谷の昌平」と詠んでいる。
山のお城とは高取城で、「谷の昌平」とは、大和随一の儒学者といわれる谷三山(たにさんざん)(1802-1868)で、嘉永2年(1849)高取藩儒となり、大和八木から高取藩に出向いて儒学を教えていた。

猿 石

高取城二の門外に、高取城指定文化財の猿石(さるいし)がある。
花崗岩製で、高さ85cm、幅75cmで、台石の上に載せられている。
飛鳥の「猿石」と同様に、現在の明日香村平田から掘り出され、築城の際に大手筋と明日香村柏森へ下る道の分岐点に置かれたと考えられている。



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