播磨竜野 脇坂家供養塔は、和歌山県高野山奥の院34町石南東にある。
豊臣家墓所と水向地蔵の間に位置している。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、当地墓所内には大型五輪塔3基、中型五輪塔5基、櫛型墓標6基、屋根付墓標1基がある。
平成7年(1995)夏に、約400年の歳月を経て損傷はなはだしいため、15代当主脇坂研之氏が修復した。
玉垣内に次の大型五輪塔が並んでいる。
写真番号 | 供養者名 | 没年(建立年) | 法名 | 備考 |
① | 大洲藩初代藩主 脇坂 安治 |
慶長17年逆修 (1612) |
雲松院殿 平林安治大居士 |
元和元年(1615)に隠居した後、 京都西洞院に住み、臨松院と号した。 |
② | 飯田藩初代藩主 脇坂 安元 |
承応2年癸巳 (1654) |
八雲院殿 藤享安元大居士 |
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③ | 龍野藩8代藩主 脇坂 安董 |
天保12年 (1841) |
蒼龍院殿 君威安董大居士 |
脇坂安治(わきざかやすはる)(1554-1626)は、近江国浅井郡脇坂村(現 滋賀県長浜市)に生まれた。
初め浅井長政、明智光秀に属し、ついで豊臣秀吉に仕えた。
秀吉と柴田勝家の戦では、賤ケ岳七本槍の一人として戦功を挙げている。
大和高取城主を経て、淡路洲本城主3万石となり、小田原城攻めや朝鮮の役で水軍の将として活躍した。
関ヶ原の戦いでは西軍に属していたが、決戦で東軍に加わり、本領を安堵された。
慶長14年(1609)伊予大洲藩5万3千石に転封となった。
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