楠木正成、正行ゆかりの地

楠公誕生地

楠公誕生地石碑は、大阪府千早赤阪村にある。
楠木正成(1294-1336)は、鎌倉時代末から南北朝時代の武将で、幼名は多聞丸(たもんまる)と呼ばれ、後に兵衛尉(ひょうえのじょう)と称した。
元弘元年(1331)後醍醐天皇の呼びかけに応じて笠置に出向き、のち赤阪城で挙兵した。
建武元年(1334)には、従五位下検非違使に任ぜられ、河内、摂津の守護となった。
建武3年(1336)足利尊氏軍と神戸湊川で激戦を戦ったのち、弟の楠木正季(まさすえ)とともに自刃した。
当地の石碑は、明治8年(1875)2月8日に大阪会議に出席した大久保利通が、楠公関係遺跡を訪れた際、堺県令 税所篤に命じて建立したものである。
それ以前にも、文禄年間に豊臣秀吉が増田長盛に命じて土壇を築き、建武以降の楠木邸にあった百日紅を移植したという記録や、元禄年間に領主 石川総茂が保護を加えたという記録が残っている。
北側200mの所に、楠公産湯の井戸の伝承地が残っている。
近鉄長野線富田林駅からバスで千早赤阪役場前下車、徒歩5分。すぐ前にくすのきホールの無料駐車場がある。



赤阪城跡(下赤阪城跡)

赤阪城跡(下赤阪城跡)は、大阪府千早赤阪村にある国史跡である。
千早赤阪中学校の一帯が下赤阪城跡となっており、14世紀に楠木正成(1294-1336)によって築城されたといわれている。
標高185.7mの台地の先端部を利用した平山城で、台地上に本丸、二の丸、三の丸が地名として残っている。
元弘元年(1331)、鎌倉幕府討幕計画が発覚し、後醍醐天皇が笠置山へ逃れた。
楠木正成は、これに呼応して同年9月この地で挙兵し、護良親王も当地に身を寄せたと伝えられている。
10月17日から21日にかけて幕府軍が攻め寄せてきたため落城し、正成は金剛山へ後退した。
その後、元弘2年(1332)4月に、楠木正成が紀伊の湯浅定仏(じょうぶつ)らを破って城を奪還したが、その後も攻防戦が繰り返された。
城としての遺構は明確になっていないが、千早赤阪村役場の上付近が、主部(本丸)であったといわれている。
昭和9年3月に国史跡に指定された。当地から約1.5㎞東方に上赤阪城跡(楠木城跡、国史跡)がある。
城跡に石碑が建てられており、西側には日本の棚田百選に選ばれた下赤阪の棚田が眺められる。
近鉄長野線富田林駅からバスで千早赤阪中学校前下車すぐ。



上赤阪城跡(楠木城跡)

上赤阪城跡(楠木城跡)は、大阪府千早赤阪村にある国史跡である。
標高349.7mに位置する自然の険しい地形を利用した中世山城で、小根田城、桐山城、楠木本城とも呼ばれている。
現在は雑木林になっており、城の遺構は、曲輪、堀切、堅堀、横堀で構成されている。
楠木正成(1294-1336)が築城したと言われている。
元弘3年(1333)、北条方の阿蘇治時らがこの城を攻め、楠木方は平野将監以下300人で防戦したが、10日後に落城した。
昭和9年3月に国史跡に指定され、平成18年(2006)本丸跡の発掘調査で、14世紀前半から16世紀後半にかけて複数の建物が立て直され、長期間にわたって城が存続したことが判明した。
近鉄長野線富田林駅からバスで水分下車、徒歩30分。



千早城跡

千早城跡は、大阪府千早赤阪村にある国史跡である。
千早城は、元弘2年(1332)楠木正成の挙兵時、楠木城(上赤阪城)とともに中心的山城として築城された。
「太平記」の記述によると、寄手は数百万期、身方は僅かに千騎足らずであったにもかかわらず、
冷静沈着の楠木正成は、その武略と智謀に富んだ奇策で百日間の籠城戦に耐えた。
この城は、鎌倉幕府の討幕、そして建武の中興の原動力となった難攻不落の名城である。
標高は、673mで、城の南(妙見谷)、北(風呂谷)、西(大手口から登山口)の三方は急斜面で、天然の要害となっている。
登山口から約560段の石段を登ると、第四郭(四の丸)があり、そこから主郭(本丸)までの奥行きは約300mの規模である。
昭和9年(1934)3月に、上赤阪城(国史跡名、楠木城跡)、下赤坂城(国史跡名、赤阪城跡)と共に国史跡に指定された。
南海高野線河内長野駅からバスで、金剛登山口下車、徒歩15分。バス停付近に有料駐車場がある。



千早神社

千早神社は、大阪府千早赤阪村にある。
千早城本丸跡に、もと八幡大菩薩を祀って千早城の鎮守として創建された。
後に楠木正成、正行朝臣、久子刀自を合祀して楠社と称した。
明治7年(1874)に再建され、同12年には更に祠を建てて、社名を千早神社とした。
祭神は、本殿に楠木正成卿、楠木正行朝臣、久子刀自(正成卿夫人)である。
相殿に、大市媛命(坂本神社)、天太王命(下中津神社)を祀っている。
南海高野線河内長野駅からバスで、金剛登山口下車、徒歩15分。バス停付近に有料駐車場がある。


建水分神社

建水分(たけみくまり)神社は大阪府千早赤阪村にあり、通称、水分(すいぶん)神社と呼ばれている。
創建は第10代崇神天皇5年(西暦92年)で、この時勅して金剛葛城の山麓に水神として奉祀された。
延喜元年(901)の「日本三代実録」には、叙位累進の記録があり、延長5年(927)の「延喜式-神名帳」に記載のある式内社である。
古くから皇室の崇敬が篤く、第96代後醍醐天皇は建武元年(1334)楠木正成に勅して、山下の水越川の畔にあった社殿を現在の山上に遷し、本殿、拝殿、鐘楼等を再営した。
霊峰金剛山の総鎮守で、古来付近18カ村の産土神であるとともに、楠木氏の氏神である。
本殿は三殿からなり、中殿に一間社春日造、左右両殿に二間社流造を配し、各殿を渡廊で連結するという全国でも例を見ない様式で、
明治3年に大阪府の神社建築として初めて特別保護建造物(国宝)に指定され、昭和25年には重要文化財の指定を受けた。
祭礼は春秋2回行われ、春祭は楠木正成の誕生日の4月25日に行われることから「くすのきさん」と呼ばれる。
秋祭は、神輿が御旅所まで神幸し、地車上では上方芸能の原点ともいわれる河内にわかが奉納される。
摂社に楠木正成を祀る南木神社がある。
近鉄長野線富田林駅からバスで水分下車、徒歩5分。参拝者用の駐車場がある。

観心寺

観心寺は、大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院である。
寺伝によると、701年に修験道の開祖役小角(えんのおずぬ)により開かれ、雲心寺と名付けられた。
その後平安時代に弘法大師空海により如意輪観音像が作られ、本尊とした。
弘仁年間(810-824)に真言宗に改宗され、空海の高弟道興大師(実恵上人)により再建され、観心寺と称した。
観心寺の支院の中院は楠木一族の菩提寺で、境内には「楠公学問所 中院」の石碑が建てられている。
楠木正成は、後醍醐天皇から名を受けて金堂(国宝)を造営した。
また、三重塔の建立を計画したが、1336年に湊川で戦死したため、建掛の塔が金堂東側に残されている。
楠木正成の首級は、足利尊氏の命により観心寺に届けられ、楠公首塚として祀られている。
1359年から後村上天皇が塔頭総持院を行在所としていたことから、南朝の勅願寺となった。
総持院跡には、後村上天皇の行在所跡の石碑が建てられており、境内東側には、後村上天皇の檜尾陵がある。
本尊は、如意輪観音坐像(国宝)で、秘仏として秘蔵されてきたこともあり、表面の彩色が鮮明に残る平安時代の代表的な彫刻である。
毎年、4月17日、18日の両日のみ参拝できる。
南海高野線及び近鉄長野線「河内長野駅」から南海バスで「観心寺」下車すぐ。



烏帽子形八幡神社

烏帽子形八幡神社は、大阪府河内長野市にある神社である。
祭神は、素戔嗚命、足仲彦命、神功皇后、応神天皇で、周辺の上田、喜多、小塩、楠ケ丘、大師町五地区の氏神として崇敬されている。
神社の創建については詳らかでないが、昔、烏帽子形山に楠氏の一支城があり、楠木小二郎が拠っていたが、その城の鎮護として創建、祭祀されたと言われている。
昭和40年〜41年の解体修理の時に、本殿(重要文化財)は、棟札及び棟束の墨書により、文明12年(1480年)に河内源氏の末裔 石川八郎左衛門尉が創建したことが確認された。
慶長17年(1612年)楠木正儀(まさのり)の子孫 甲斐庄喜右衛門正房(まさふさ)が、大坂の陣の功で二千石を与えられて当地に封じられた。
正房の子 旗本甲斐庄喜右衛門正保は、元和3年(1617年)四天王寺の塔の普請奉行を勤めたが、居城の鎮守であるこの社殿が荒廃しているのを嘆いて、塔普請の余材で修造し、元和8年(1622年)8月上棟したという。
山の形が烏帽子に似ていることからこの名が付いたと言われる烏帽子形山の山頂には、烏帽子形城跡がある。
烏帽子形城跡は「楠木七城」の一つと伝えられ、山城特有の土塁や空濠が残されている。
山頂から北方に伸びる尾根の先端には、烏帽子形古墳があり、6世紀の横穴式石室を持つ直径20m、高さ3mの円墳である。
境内には、本尊に釈迦と聖観音を祀っていた天台宗の正保寺と徳壽院高福寺と称する宮寺があったが、明治時代の神仏分離令により廃寺となっている。
後村上天皇の行宮跡といわれる奈良県賀名生の堀氏宅にある「高福寺鐘」は、楠木正成がこの神社の宮寺のものを持って行ったと伝えられている。
南海高野線三日市町駅下車、徒歩17分。



伝大江時親邸跡 

伝大江時親邸跡は大阪府河内長野市にある。
大江時親(毛利時親)は、平安時代後期の歌人大江匡房の七世孫で、この地に住んでいたとされる。
大江氏は、朝廷に仕える公家で、菅原道真の菅原氏と並んで代々学者の家柄で、中国伝来の兵学を家に伝えていることで知られていた。
大江匡房は、八幡太郎義家の師であったともいわれる。
そして、大江時親は、建武の中興に大きな役割を果たした楠木正成の軍学兵法の師といわれる。
正成は、観心寺からこの地まで約7kmの山道を通い、兵学を習ったと伝わる。
また、戦国時代に中国地方を席巻した武将、毛利元就はその家系図において大江時親を始祖としていると言われる。
現在の大江家住宅は、大和棟をもつ古いもので、各部の様式から十八世紀前半の建築と考えられ、大阪府の文化財に指定されている。
吉川英治は、私本太平記の「婆沙羅帖 鷹の巣」で、次のように記している。
 時親を、大江氏で呼ぶのは、たとえば、正成を楠木正成といわずに、橘ノ正成と呼ぶようなものである。
 大江は族姓で、毛利時親と呼ぶ方が正しい。
街道脇の小さな石柱に「大江時親邸跡碑へ一丁」と記されている。
神納から岩湧街道を進むと、左から旧道が合流するが、この道を山伏坂といい、岩湧寺へ向かう山伏は、必ずこの坂で法螺貝を吹いて大江家に対して敬意を払ったという。
南海高野線及び近鉄長野線河内長野駅から南海バスで神納下車、徒歩5分。



多聞丸(楠木正成)大江時親に学ぶ像(多聞丸石像)

多聞丸(楠木正成)大江時親に学ぶ像(多聞丸石像)は、大阪府河内長野市三日市町駅前にある。
楠木正成(1294-1336)は、鎌倉時代末から南北朝時代の武将で、幼名は多聞丸(たもんまる)と呼ばれ、後に兵衛尉(ひょうえのじょう)と称した。
幼名の多聞丸は、両親が信貴山の多聞天(毘沙門天)に祈願して授かったことから名付けられた。
元弘元年(1331)後醍醐天皇の呼びかけに応じて笠置に出向き、のち赤阪城で挙兵した。
建武元年(1334)には、従五位下検非違使に任ぜられ、河内、摂津の守護となった。
建武3年(1336)足利尊氏軍と神戸湊川で激戦を戦ったのち、弟の楠木正季(まさすえ)とともに自刃した。
楠木正成は、少年期に観心寺の僧 龍覚坊から一般教養を学び、その後加賀田の大江時親邸まで約7㎞の道を休むことなく通ったと伝わる。
観心寺から大江家までの道は、後世に楠公通学路と呼ばれ、三日市駅北の跨線橋は楠公通学橋と名付けられた。
楠木正成は、大江時親から日本最古の兵法書「闘戦経」を学び、国と人々の平穏を確立すべきとの教えを受けた。
多聞丸石像は、平成30年(2018)、楠公通学路の中間地点である当地に、地元の三日市小学校区まちづくり協議会が建立した。
南海高野線三日市町駅下車すぐ。


奉建塔

奉建塔(楠公六百年祭記念塔)は、大阪府千早赤阪村にある。
楠木正成の没後600年を記念して、昭和15年に全国の小中学校や教師などの寄付金で建てられた。
奉建塔の建つ山は、上赤阪城の出城跡で、斜面にはすいせんが植えられている。
43歳で亡くなった楠木正成に因んで、高さは43尺(約13m)の鉄筋コンクリート造りで、その表面に花崗石が積まれている。
工事着手は昭和10年11月で、昭和15年5月15日に竣工した。
正面には、菊水の紋章の下に、楠木正成が旗印に用いたと伝えられる「非理法権天」という言葉が刻まれている。
非は理に勝てず、道理は法に勝てず、法は権力に勝てず、その権力も天命には勝てないという意味である。
神戸の湊川神社には、非理法権天旗が残されている。
近鉄長野線富田林駅からバスで千早赤阪役場前下車、徒歩10分。



寄手塚 身方塚

寄手塚、見方塚は、大阪府千早赤阪村にある。
元弘1~3年(1331-1333)千早赤阪の戦いで亡くなった将兵を弔うために、楠木正成が建立したといわれている。
寄手塚(よせてづか)は、葛城山付近から産出する角閃石黒雲母石英閃緑岩を使用した石造五輪塔である。
総高182cmで、塔身(水輪)には「金剛界の四仏」を表す梵字(種子)彫られている。
寄手塚の塔は、鎌倉勢の霊を弔うために鎌倉時代後期に建てられたもので、大阪府の指定文化財となっている。
見方塚(みかたづか)は、黒雲母花崗岩を使用した石造五輪塔である。
総高137.3cmで、基礎の下には下向きの蓮華の花をかたどった反花(かえりばな)基壇を備えている。
楠木正成が味方(身方)の戦死者のために建立したと言われており、寄手塚より小さく作られている。
近鉄長野線富田林駅からバスで森屋西口バス停下車、徒歩15分。



楠妣庵観音寺

峰條山楠妣庵観音寺は、大阪府富田林市大字甘南備にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院である。
妣とは、偉大な人の母を意味し、楠妣は楠木正行の母で楠木正成夫人の久子を指す。
久子は、甘南備の豪族南江備前正忠の妹で、1323年に楠木正成と結婚し、正行など6人の息子を育てた。
1348年楠木正行、正時兄弟の討死後、楠木一族の菩提を弔うため、久子は出家して、敗鏡尼と称し、観心寺の中院からこの地に移って草庵を営み1364年に61歳で死去した。
その後楠木正儀が亡き母のため墓地を造営し、不二房行者を住持させて、観音堂を改め観音寺としたが、足利方に攻められて廃墟となった。
1911年長峰葉山の調査によって、久子の墓所が明らかになり、岐阜の加藤鎮之助の研究によって1913年から寺院跡の復旧が進められた。
1915年に久子夫人墓所、1917年に伊東忠太工学博士の設計で旧草庵、1922年に旧本堂が順次復元され、1932年に新本堂が建立され、千手観音が本尊とされた。
近鉄長野線富田林駅から近鉄バスで「甘南備」下車徒歩5分。



信貴山 朝護孫子寺  

信貴山は、奈良県平群町にある信貴山真言宗の総本山である。
正式名は信貴山歓喜院(かんきいん)朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)であるが、
一般には、信貴山、「信貴山の毘沙門さん」の名で親しまれている。
創建は未詳であるが、寺伝によると、用明天皇2年(587)聖徳太子が物部守屋討伐のために河内稲村城に向かう途中、
当山上で毘沙門天を感得して勝利を祈願した。
戦いの後、太子は毘沙門天像を安置し、信ずべき貴ぶべき山、すなわち信貴山と称したのが寺の起源と言われる。
その後一時荒廃したが、延喜年間(901-923)に命蓮(みょうれん)が再建し、中興となった。
「今昔物語集」などによれば、命蓮が醍醐天皇の病気を祈願し平癒したため、
「朝廟安穏、守護国土、子孫長久」の願文に由来する朝護孫子寺を賜ったという。
楠木正成はこの寺に祈願して生まれ、本尊の毘沙門天の別名である多聞天から、多聞丸と名付けられた。
また、元弘の変(1371年)では、大塔宮護良親王はこの山に陣を張った。
寺宝として、国宝の信貴山縁起絵巻、楠木正成奉納の武具、旗などがある。
絵巻は、3巻からなり、「飛倉の巻」には命蓮が法力で山崎長者の米倉を信貴山まで飛ばす逸話、
「延喜加持の巻」には、命蓮が剣の護法童子を宮中に遣わして醍醐天皇の病を治す逸話、
「尼公の巻」には、尼公が東大寺大仏の啓示により、弟の命蓮と再会する逸話が描かれている。
近鉄生駒線信貴山下駅からバスで信貴山下車、徒歩5分。参拝者用の有料駐車場がある。



桜井駅跡(楠木正成伝承地)

国指定史跡 桜井駅跡(楠木正成伝承地)は、大阪府三島郡島本町桜井一丁目にある。
奈良時代のはじめ、平城宮と各地を結ぶ交通路を整備するために駅(うまや)が設置された。
そのうち、京から西国へ向かう道筋に設置された駅の一つに
「摂津国嶋上郡(しまがみこおり)大原駅(おおはらのうまや)」が続日本紀に記されており、
これが桜井駅のことを指すものと考えられている。
駅とは、大化改新以降、幹線道路に中央と地方の情報を伝達するために馬を設置した役所のことで、
三十里(冬至の一里は約530mで、三十里は約16㎞)ごとに設けられた。
京と山陽道をつなぐ道は西国街道と呼ばれ、古来栄えた街道筋であるが、
桜井駅の実態については、よくわかっていない。
延元元年(1336)足利尊氏の大軍を迎え撃つため京都を発った楠木正成が、
桜井駅で長子の正行(まさつら)に七生報国の遺訓を残して決別したことが太平記に記され、
「桜井の別れ」は、能、歌舞伎、唱歌などさまざまな形で後世に残されている。
楠木正成が旗を立てかけたと伝わる「旗立て松」や手水鉢が残されている。
明治9年(1876)に英国公使パークスの碑文を入れた「楠公訣児之處」碑が建てられ、
大正2年(1913)に「楠公父子訣別之所」碑が建てられて、
大正10年(1921)に国の史跡に指定された。
昭和6年(1931)には「明治天皇御製」碑が建てられてた。
明治天皇が明治31年(1898)行幸したときに詠んだ次の歌が書かれている。
「子わかれの 松のしつくに 袖ぬれて
 昔をしのふ さくらゐのさと」
JR東海道線島本駅下車、徒歩2分。



湊川神社

湊川神社は神戸市中央区にある。旧別格官幣社である。
祭神は、楠木正成(大楠公)を主祭神とし、正季(まさすえ)、子の正行(まさつら)、正成夫人以下一族殉難将士の霊を配祀している。
楠木正成は、元弘元年(1331)後醍醐天皇の命に従い挙兵し、鎌倉幕府を崩壊に導いた。
しかし、九州へ一時敗走した足利尊氏、直義(ただよし)の軍と湊川の地で戦い、激戦の末、延元元年(1336)5月25日、弟の正季と「七生報国」を誓って刺し違え、殉節を遂げた。
その後、墓所は、豊臣秀吉検地の際、免祖地とされ、江戸時代初期には摂津尼崎藩主、青山幸利(よしとし)によって松と梅が植えられ、五輪の供養塔も建てられた。
元禄5年(1692)、水戸光圀が自筆の墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」を建立して、遺徳を顕彰した。
明治元年(1868)明治天皇が、湊川神社創祀御沙汰書を出し、明治5年(1872)5月24日に鎮祭されたのが、現在の湊川神社である。
宝物殿には、段縅(だんおどし)腹巻、大楠公自筆法華経奥書、非理法権天旗などが展示されている。
境内には、国の指定史跡として「楠木正成戦没地」(大楠公御殉節地)、「楠木正成墓碑」(大楠公御墓所)がある。
5月24日から26日まで楠公祭が行われる。
神戸高速鉄道高速神戸駅下車、徒歩3分。



楠木正成墓所

楠木正成墓所は、神戸市中央区の湊川神社表門を入った東側にある。
元禄5年(1692)この地を訪れた徳川光圀が、正成戦死の地の荒廃を嘆き、
摂津、河内、和泉の三国から石材を集めて、墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」を建立し遺徳を顕彰した。
墓碑の8文字は、徳川光圀の筆によるもので、碑面には、光圀に仕えた明の儒学者、朱舜水(しゅしゅんすい)の撰文が彫られている。
碑の下の石棺の中に、「楠正成霊源光圀造之」と刻んだ円鏡が埋めてあるといわれる。
墓碑は、昭和26年(1951)に国の史跡に指定されている。
神戸高速鉄道高速神戸駅下車、徒歩3分。



大楠公湊川陣之遺蹟

大楠公湊川陣之遺蹟は、神戸市兵庫区会下山公園にある。
1336年の湊川の戦いの際に、楠木正成が本陣を置き、足利尊氏、直義と戦ったとされることから、
昭和5年(1930)大楠公湊川陣之遺蹟が建立された。
石碑の文字は、東郷平八郎元帥(1847-1934)揮毫で、原文は湊川神社宝物殿に収蔵されている。
石碑は平成7年(1995)阪神淡路大震災で、台座ごと倒れて折損したが、平成12年に修復工事が行われた。
会下山は標高85mで、神戸らしい眺望景観50選に選ばれている。
神戸市営地下鉄上沢駅下車、徒歩15分。



福厳寺

巨鼇山(きょべつさん)福厳寺(ふくごんじ)は、神戸市兵庫区門口町にある臨済宗南禅寺派の寺院である。
本尊は十一面観音像である。もと、会下山麓にあったと伝え、柳原木下長者の創建という。
摂津名所図会によると、後宇多上皇の帰依を受けた約翁徳倹(やくおうとくけん)を勧請開山とし、正安2年(1300)柏厳可禅が創建したという。
山門横に「史蹟後醍醐天皇駐蹕之處」の石碑がある。
元弘3年(1333)、鎌倉幕府の討幕計画に破れ、隠岐に流された後醍醐天皇は、ひそかに隠岐を脱出した。
名和長年の協力のもと、伯耆国船上山(せんじょうさん)から、姫路の円教寺、随願寺、一乗寺を経て、兵庫の福厳寺を行在所とした。
後醍醐天皇の父である後宇多上皇が、約翁徳倹に「仏燈大光国師」の号を贈っていることから、大覚寺統ゆかりの寺であったといわれている。
太平記巻11によると、後醍醐天皇が福厳寺に入ると、赤松円心入道父子四人が五百余騎を率いて伺候、出立直前には、楠木正成が三千余騎を率いて参向し、格別の賞詞を賜って還御の先導を勤めた。
JR東海道線兵庫駅下車、徒歩5分。


大楠公戦跡

大楠公戦跡は、兵庫県芦屋市楠町の楠児童遊園にある。
建武3年(1336)1月京都に入った足利尊氏は、東北の軍勢を率いた北畠顕家の猛攻撃により、戦場は京から大阪に移った。
足利軍は、西宮、芦屋に兵を退かせたが、そこで打出合戦が行われた。
打出の地名は、西国街道を旅した人々が京都を出発し、はじめて海に打ち出るということに由来するといわれる。
打出の合戦は、公家中心の政治の復興を目指す後醍醐天皇を支持する楠正成と、武家政権を目指す足利尊氏の両軍が当地で激突したもので、結果は足利軍が兵庫に敗走して楠木軍の勝利に終わった。

太平記巻十五では次のように記されている。
ここに楠判官正成、殿(おくれ)ばせにて下りたりけるが、合戦の体を見て、(略)をめき叫んでぞ寄せたりける。(略)
(足利方の)厚東、大内一太刀打たしてさつと左右へ分るれば、土居、得能後へふと駆け抜けて、左馬頭(足利直義)の引へ玉へる打出の西の宿のはしへ懸け通り、(略)
されば、左馬頭叶はじとや思はれけん、また兵庫を指して引き玉ふ。

昭和9年(1934)、精道村強化団体連合会は楠公六百年祭記念事業としてこの石碑の建立を企画し、必要な経費は村内の有志が寄付し、
土地は地元の名士である斎藤幾多からの寄付を受けて、陸軍大臣 本庄繁の揮毫により昭和10年(1935)2月に竣工した。
昭和19年(1944)の町名改正では、この戦跡碑をもとに「打出楠町」となり、昭和43年(1968)以来の住居表示制度により、現在の「楠町」となった。
公園正面には鳥居や石段もあったが、市の公園改修事業に伴い、大楠公戦跡碑と斎藤幾太(多)翁胸像(戦時中に供出され土台部のみ現存)が国道2号線沿いの現在の場所に移設された。
阪神電鉄打出駅から徒歩7分。



小楠公義戦の跡

小楠公義戦の跡は、大阪市中央区北浜東にある。
小楠公とは、南北朝時代の武将 楠木正行(1326-1348)である。
楠木正成の長男で、延元元年建武元年(1336)桜井駅で父正成と別れて河内に帰った楠木正行は、後村上天皇の信任を得て、楠木一族の中心となって北朝と戦い、畿内各地を転戦した。
正平2年(1347)9月には、河内藤井寺に布陣した細川顕氏の軍勢を破り、11月には、顕氏の援軍として住吉まで出張した山名時氏の軍を破って、京都まで敗走させた。
この合戦の際に、楠木正行は当地であった渡辺の戦いで大勝した。
橋から川に落ちた多数の敵兵を救い、衣服と薬を与えたと言われている。
京阪電鉄天満橋駅下車、徒歩3分。


飯盛山

飯盛山は、大阪府大東市と四條畷市の市境の生駒山地北部にある。
標高は318メートル。この一帯は南北朝の頃、楠木正行らの四條畷の合戦で知られる。
山麓を東高野街道が通り、さらにその西方に沼沢地が広がという戦略上重要な位置にあったため、
応仁の乱時から戦国時代末期にかけて、この地を巡る攻防が繰り広げられた。
16世紀初頭には飯盛城が築かれ、永禄3年(1560)から8年間は、この地が畿内統治の拠点となった。
山頂には、飯盛城跡の石碑、楠木正行像、田伐(たぎり)兼松像があり、展望台から大阪平野を広く望める。
楠木正行像は、1937年に建立され、台座正面には「忠孝両全」と刻されている。
第二次世界大戦中に、銅像部分は供出されたため、昭和47年に田伐兼松の尽力で銅像が再建された。
JR片町線野崎駅下車、徒歩約2時間。



四條畷神社

四條畷神社は大阪府四條畷市南野の飯盛山麓にある。
楠木正行を主祭神として、楠木正時、和田賢秀など正行に殉じた将士全27柱を祀っている。
摂社として御妣(みおや)神社がある。
当地は、正平3年(貞和4年、1348年)1月5日、高師直ら北朝軍勢と戦った楠木正行が、討ち死にしたところである。
明治時代に、平田神社の三牧文吾(みまきぶんご)らが神社創建を請願し、明治22年(1889)に勅許され、翌年創建された。
旧別格官幣社で、例祭は2月12日に行われる。

太平記巻二十五では、楠木正行の最後を次のように記している。
楠正行も眉間のただ中、唾かけのはづれに二矢射られて、その矢を抜くべき力もなし。(中略)
「今はこれまでぞ。云ひ甲斐なき敵の手にかかるな」とて、
楠正行心閑かに物具は脱ぎ捨て、腹一文字に引き切って、南枕にぞ臥したりける。

JR片町線四條畷駅下車、徒歩15分。



楠木正行墓(小楠公墓所)

楠木正行墓(小楠公墓所)は、大阪府四條畷市雁屋南町にある。
正平3年(1348)1月5日、四条縄手の合戦で、足利尊氏の武将高師直の大軍に敗れて自害した楠木正行の菩提墓である。
正長2年(1429)に祀られたと伝えられ、大阪府の指定史跡となっている。(指定名称は「伝楠木正行墓」)
また樹齢約590年の樟の大木が植えられている。樟樹は幹回り12m、高さ25m、枝張り最大径40mで大阪府の天然記念物に指定されている。
貝原益軒の「南遊紀行」には次のように記されている。
「畑の茶屋のかい道より、四町ばかり西に、刈屋村有、此所に楠正行、正時兄弟の墓あり、
大道のほとりにはあらず、小石碑を立、大なる楠木あり」
「かい道」は、東高野街道で、江戸時代までは「楠塚」と呼ばれていた。
明治時代に墓域が拡張され、明治11年(1878)に「贈従三位楠正行朝臣之墓」(題字は大久保利通)と刻んだ石碑が建てられた。
当地以外にも6か所、楠木正行の墓と伝えられる所がある。
京都市右京区の宝筐院、東大阪市の往生院、宇治市の正行寺、伊丹市の本泉寺、鹿児島県薩摩川内市の甑島、東大阪市山手町である。
JR片町線四条畷駅下車、徒歩10分。

如意輪寺

如意輪寺は、奈良県吉野山にある浄土宗の寺院である。
平安時代前期の延喜年間(901-923)に日蔵道賢が開基したと伝えられ、もとは金峯山寺の塔頭のひとつであった。
南朝を開いた後醍醐天皇は、如意輪寺を勅願寺とし、本堂背後の塔尾山腹には後醍醐天皇塔尾陵がある。
境内には、如意輪堂(本堂)、不動堂、後醍醐天皇御霊殿、多宝塔、宝物殿、鐘楼などがあり、本堂には、本尊の如意輪観世音菩薩が安置されている。
貞和3年(1347年)楠木正行が、四条畷出陣の際に塔尾陵に詣で、下記の辞世の歌を如意輪寺の本堂の扉に鏃で刻み付けた。
「かゑらじと、かねておもへば梓弓、なき数に入る名をぞとどむる」 (もう生きては帰らないので、過去帳に名前を残す)
正行は、この後河内の四条畷に出陣し、北朝の高師直の大軍と戦い、壮烈な最期を遂げた。
その後、如意輪寺の寺勢は衰えたが、慶安3年(1650年)僧鉄牛が再興し、浄土宗に転じている。
宝物殿には、「楠木正行公辞世之扉」、厨子入木像金剛蔵王権現像、吉野曼荼羅等が保存されており、天井には、日本最大の如意輪観世御菩薩画像(ねおがみの観音)が描かれている。
近鉄吉野線ロープウェイ吉野山駅下車、徒歩約40分。参拝者用の駐車場がある。


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