伝大江時親邸跡は大阪府河内長野市加賀田にある。
大江時親(毛利時親)は、平安時代後期の歌人大江匡房の七世孫で、この地に住んでいたとされる。
大江氏は、朝廷に仕える公家で、菅原道真の菅原氏と並んで代々学者の家柄で、中国伝来の兵学を家に伝えていることで知られていた。
大江匡房は、八幡太郎義家の師であったともいわれる。
大江時親は比叡山で教円について天台宗の奥義をきわめ、鞍馬で武術に励み、のち加賀田に屋敷を設け、曾祖父大江広元より伝わる大江兵書の研究生活に入った。
そして、大江時親は、建武の中興に大きな役割を果たした楠木正成の軍学兵法の師といわれる。
多聞丸(後の楠木正成)は、師の僧滝覚から時親に学ぶように勧められ、観心寺からこの地まで約7kmの山道を通い、兵学を習ったと伝わる。
あるとき通学の途中 八尾顕幸に命を狙われ矢が放たれたが、観音が現れ難を免れた。楠木正成の終生変わらぬ観音信仰はこのときから始まったという。
また、戦国時代に中国地方を席巻した武将、毛利元就はその家系図において大江時親を始祖としていると言われる。
現在の大江家住宅は、大和棟をもつ古いもので、各部の様式から十八世紀前半の建築と考えられ、大阪府の文化財に指定されている。
吉川英治は、私本太平記の「婆沙羅帖 鷹の巣」で、次のように記している。
時親を、大江氏で呼ぶのは、たとえば、正成を楠木正成といわずに、橘ノ正成と呼ぶようなものである。
大江は族姓で、毛利時親と呼ぶ方が正しい。
街道脇の小さな石柱に「大江時親邸跡碑へ一丁」と記されている。
神納から岩湧街道を進むと、左から旧道が合流するが、この道を山伏坂といい、岩湧寺へ向かう山伏は、必ずこの坂で法螺貝を吹いて大江家に対して敬意を払ったという。
南海高野線及び近鉄長野線河内長野駅から南海バスで神納下車、徒歩5分。→ 楠木正成ゆかりの地