天誅組義士上陸遺蹟碑は、堺市堺区栄橋町1丁にある。
天誅組は、土佐藩出身の吉村寅太郎など尊王攘夷派の志士たちが中心となり、公卿の中山忠光を擁立して結成された。
文久3年(1863)8月、天誅組は京都方広寺を出発し、淀川を下って大坂から海路で堺港旭橋(当地)に上陸して大和に向かった。
かつては上陸するときに船を係留した楡の木が残されていたという。
石碑は、昭和11年(1936)に土佐勤皇党に参加していた政治家 田中光顕(みつあき)が関わって建立した。
田中光顕は、高知県佐川町出身の志士であった那須信吾の甥である。
那須信吾は、奈良県東吉野村鷲家口で彦根藩の銃弾を受け斃れ、明治谷墓地に埋葬された。
南海電鉄堺駅下車徒歩5分。→ 天誅組ゆかりの地
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