京極忠高の妻 初姫供養塔

京極忠高の妻 初姫供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
初姫(1602-1630)は、徳川秀忠とお江(崇源院)の4女である。
お江は、娘の千姫(当時7歳)を豊臣秀頼(当時15歳)の居城 大坂城へ輿入れさせる際、身重の身で江戸から伏見城まで同伴した。
胎児が成長したため、お江は江戸にもどらず伏見城で出産した。
懐胎中から三人の姫に続いてまた姫の誕生となれば、お江の姉である お初(常高院)が貰い受けるとの約束があったので、お初は産屋からこの新生児(初姫)をもらい受けお初と京極高次の養女とした。
(宮本義己氏「誰も知らなった江(ごう)」 「渓心院文」参照)
京極忠高(1593-1637)は、京極高次の長男で、慶長14年(1609)若狭小浜藩藩主となった。
大坂冬の陣では玉造口を固めて、母の常高院とともに講和に関わり、夏の陣では京口に陣した。
寛永11年(1634)出雲、隠岐26万4千石に移封された。
忠高は、徳川氏の姻族として優遇され、慶長16年(1611)幕府が忠高家臣の紛争を処断した際、
忠高の借財弁済の費用750両を下賜したほか、城普請の費用三千両などを賜っている。
またお江(崇源院)から三千両などしばしば金銭を下賜され、崇源院の葬儀には位牌を奉持している。
嗣子がなく、死後に領地は没収となったが、のちに甥の京極高和に播磨竜野6万石が与えられた。
京極高和は、万治元年(1658)には、讃岐国丸亀藩(6万石余)に転封となった。
当地供養塔前には、高松松平家墓所の案内標柱がある。

当地の五輪塔地輪には、次のように刻されている。
施主 京極若狭守殿源朝臣
忠高公御簾中之追善
     奉爲興安園院殿
(梵字) 豊誉大清陽山
     大禅定尼出離
     生死頓證菩提
旹寛永七年庚午三月四日
      御宿坊 小坂坊 → 高野山の浅井三姉妹ゆかりの地



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