方広寺大仏殿跡

方広寺大仏殿跡は、京都市東山区にある。
天正13年(1585)に関白となった豊臣秀吉は、翌天正14年(1586)奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、東山東福寺の近傍でその工事を始めた。
大仏の造営を命じられたのは、高野山の客僧であった木食応其(1536-1608)である。
ほどなくこの工事は中止されたが、六波羅の当地に敷地を変更して再開され、文禄4年(1595)に大仏殿がほぼ完成すると、高さ18mの木製金漆塗りの大仏坐像が安置された。
ところが、翌年の大地震で大仏が大破、慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が病没し、8月22日に秀吉の死去を公表しない中で、大仏殿の完成披露が行われた。
その後、豊臣秀頼が金銅に変えて大仏を復興する途中、鋳造中の大仏から出火して大仏殿もろとも炎上した。
慶長17年(1612)に大仏が完成したが、その後鋳造された梵鐘の銘文 「国家安康(こっかあんこう) 君臣豊楽(くんしんほうらく)」が、徳川家を呪詛するものであるとして大坂の陣が起こり、豊臣家の滅亡につながった。
その後の徳川政権下でも大仏殿は維持され、寛政10年(1798)に落雷で炎上するまで、「京の大仏つぁん」として親しまれた。

巨大な石塁(国史跡)が積まれた「大佛殿石垣」は、方広寺東側に現在も残っている。
大仏の伽藍は西向きで、規模は南北約260m、東西約210mと推定されている。
大仏殿は回廊で囲まれ、西側正面に仁王門、三十三間堂に向かう南側には南門が設けられた。
仁王門跡から西へのびる道が、現在「正面通(しょうめんどおり)」と呼ばれることも方広寺に由来している。
「方広寺」の名称は、東大寺の重要な法会である「方広会(ほごえ)」に因むといわれている。
方広寺東側にある大仏殿跡緑地では、大仏殿建物の規模が南北約90m東西55mで現在の東大寺大仏殿をしのぐ壮大さであったことなど、発掘調査の様子が案内板で紹介されている。



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