市川團藏家墓所は、和歌山県高野山奥の院28町石西にある。
株式会社クボタ墓所と石倉翆葉句碑の間に位置している。
明治35年に建立された墓石正面には、次のように刻されている。
六代目市川團藏
釋尼妙冠
(市川家家紋 三升)釋了教
七代目 釋教西
市紅句碑 団猿句碑 → 高野山内の歌碑、句碑、詩碑
墓所瑞垣内の花筒石には次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(市紅句碑)
なく虫を(の?)我(家?)道連や秋の山 市紅
(団猿句碑)
心にも白きは清し冬牡丹 団猿
六代目市川團藏(1800-1871)は、江戸時代の歌舞伎役者である。幼名照世、初名市川三蔵、前名初世市川茂々太郎、初世市川白蔵、二世市川久蔵。俳名三猿、団猿、市紅庵、松秀舎。
父は四代目市川團藏の門弟市川荒五郎である。嘉永5年(1852)8月五代目市川團藏亡きあと、同妻の養子となり、嘉永5年10月、六代目市川團藏を襲名した。
養子に七代目市川團藏がいる。
七代目市川團藏(1836-1911)は、江戸から明治時代の歌舞伎役者である。
天保7年、料理人の丸屋伊三郎の子として生まれ、天保10年(1839)二代目市川九蔵の養子となり市川銀蔵を名乗った。
明治時代に入り、不遇な時期もあったが、明治30年(1897)七代目市川團藏を襲名し、團十郎、菊五郎とならぶ名優と評された。
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