高野山内の歌碑、句碑、詩碑


田村木国句碑

田村木国句碑は、和歌山県高野山大門広場の南隅にある。
石碑には次のとおり刻されている。
  山門を出でて秋日の谷深し  木国
高野山大門から西を眺めると、鳴子谷の先に葛城、和泉の山を一望することができる。
特に秋の夕刻には、太陽の沈む姿が美しく、多くの参詣客が静かに見入っている。
木国(もっこく)(1889-1964)は、本名を田村省三といい、新聞記者、俳人として活躍した。
全国高校春夏の野球大会(旧中等学校)創設の功労者として知られる。
田村木国は、明治22年1月1日に和歌山かつらぎ町笠田中で、寺子屋を開いていた文次郎の長男として生まれた。
2歳の時、父の就職に伴い大阪に移り、北野中学から三高に進み、中途退学した。
明治43年(1910)大阪朝日新聞社に入社し、社会部で全国中等学校優勝野球大会を創案し、大正4年(1915)8月18日に豊中球場で第1回大会が開催された。
昭和8年(1933)に大阪毎日新聞社に移り、整理部長、学芸部顧問を歴任した。
俳句においては、大正6年(1917)に高浜虚子に入門し、大正11年創刊の「山茶花(さざんか)」で活躍した。
昭和21年には同名の俳句誌 山茶花を創刊して主宰し、昭和39年に76歳で没した。
毎年夏に開かれる高野山の俳句大会には、選者として37回参加したという。
「秋郊」「大月夜」「山行」などの句集を刊行している。
句碑裏面には、昭和三十二年七月廿一日 総本山金剛峯寺 と刻されている。


与謝野鉄幹、晶子歌碑

与謝野鉄幹、晶子歌碑は、和歌山県高野山壇上伽藍三昧堂前にある。
御影石製の高さ85センチの碑上面に二人の自筆の和歌が刻まれ、側面に次のように刻されている。

板しきの冷たきにゐて朝きくは 金剛峯寺の山内の蝉  与謝野鉄幹

いにしへの三昧堂をくぐりきぬ 法の御山の星の明かりに  与謝野晶子

与謝野鉄幹 与謝野晶子 自筆歌碑

愛媛県王至森寺住職瀬川大秀僧正が平成二十二年五月二十一日、
真言宗御室派宗務総長 総本山仁和寺執行長に就任されました。
徳島県立江寺住職庄野光昭僧正が同時期に同職に就任していたことを奇縁として、
与謝野鉄幹 晶子の墨書を当山に寄贈下さいました。

高野山開創千二百年記念大法会の記念とし、歌碑を建立いたします。
平成二十四年十一月吉日
高野山開創千二百年記念大法会事務局
総裁 高野山真言宗管長 松長 有慶
総監 高野山真言宗宗務総長 庄野 光昭
高野山開創千二百年記念大法会 実行委員会
委員長 太融寺住職 麻生 弘道
副委員長 東光寺住職 松田 俊教

高野山麓橋本新聞によると、瀬川僧正が自坊の先代の遺品の中から鉄幹と晶子の色紙二枚を発見し、
若い頃から親交のある庄野僧正に寄贈したという。
高野山奥の院には、与謝野晶子歌碑が建てられている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門」行きで「霊宝館前」下車、勧学院西側の会堂坂を北に徒歩3分。霊宝館前の駐車場を利用できる。



大上春秋、行子歌碑

大上春秋、行子歌碑は、和歌山県高野山桜池院前にある。
さくら短歌会主宰 大上春秋(治明)と大上行子の和歌が刻されている。

しろき守宮 かへのすきより 匂ひ出つる 寂れしむらの 陣に馴れたり 春秋

海ふたつ こえてもゆかむ 来よといふ ひとのありせを ためらはよしを 行子

石碑裏面には、次のように刻されている。
南支派遣軍々歌
波濤萬里を□りて衝く
バイヤス湾に月しるく
時、神無月、十二日
奇襲上陸茲に成る
青史を飾るこの朝
勲は永遠に薫るかな
    昭和十三年十月二日
    第百四師団バイヤス
    湾奇襲上陸軍歌第一節
     大上春秋作

さくら短歌会主宰
  大上春秋 (治明)
   平成元年九月三日歿
櫻池院琳珉治達居士
  大上行子 (妻)

維時平成二年十月三日建之


阿波野青畝句碑

阿波野青畝(あわのせいほ)句碑は、和歌山県高野山の増福院山門前にある。
石碑には、次のように刻されている。
 (前面)牡丹百二百三百門一つ 青畝
 (裏面)昭和五十八年十一月廿日 総本山金剛峯寺 
                かつらぎ主宰 阿波野青畝

昭和25年(1950)5月に南海電鉄の企画で、島根県大根島の牡丹千株が高野山に植樹され、第1回牡丹句会が催された。
石碑の句は、翌年6月に高浜虚子を迎えて開催された第2回牡丹句会席上の作品で、句集「紅葉の賀」に収められている。
「百」「二百」「三百」「一つ」という数字の畳み掛けが、絶妙のリズムを生んでいる。
季語は「牡丹」(夏)である。歩くにつれて牡丹の数が増えていき、振り返ると入って来た門が一つという、写生俳句の達人、青畝の名句である。

阿波野青畝(1899-1992)は、大正、昭和、平成時代の俳人である。
明治32年2月10日奈良県高取町に生まれた。本名は橋本敏雄で、後に阿波野家を継いだ。→ 俳人 阿波野青畝生家
畝傍中学在学中から原田浜人(ひんじん)に俳句を学んだ。
その後、高浜虚子に師事して、昭和初頭、水原秋桜子、山口誓子、高野素十とともに、ホトトギスの四Sと称された。
昭和4年(1929)俳誌「かつらぎ」を創刊して、関西俳壇の重鎮として活躍した。
昭和48年(1973)第7回飯田蛇笏賞、平成4年(1992)日本詩歌文学賞を受賞している。
句集として、万両(1931),、国原(1942)、春の鳶(1952)、紅葉の賀(1962)、甲子園(1972)、不勝簪(ふしょうしん)(1980)などがある。→ 高野山内の句碑
大阪市中央区にある大阪カテドラル聖マリア大聖堂に、阿波野青畝句碑がある。
平成4年(1992)12月22日に93歳で亡くなった。


鷹羽狩行句碑

鷹羽狩行句碑は、和歌山県高野山釈迦文院にある。
石碑には、次のように刻されている。
人界へ流れて高野山の星 狩行

鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)(1930-)は、昭和時代後期から平成時代の俳人である。本名は高橋行雄。
山形県出身で、山口誓子に師事した。
「天狼」「氷海」同人を経て、昭和53年(1978)に「狩」を創刊し、主宰した。
平成14年(2002)俳人協会会長となり、平成27年に長年にわたる俳人としての業績で芸術院賞を受賞した。

南海高野線高野山駅からバスで霊宝館前下車、徒歩5分。


趙樸初作漢俳碑

趙樸初作漢俳碑は、和歌山県高野山大師教会境内にある。

趙樸初(ちょうぼくしょ)(Zhao Puchu)(1907-2000)は、中国仏教の指導者で、詩人、書家としても知られる。
安徽省で生まれ、1930年代に上海で難民救済、浮浪児童救済に従事して、仏教者による社会福祉の分野で活躍した。
1952年以降、中国仏教協会の要職を歴任し、寺院の修復、国際交流事業に尽力したほか、「人間(じんかん)仏教」の理念を掲げ、仏教と現代社会の調和を図り、中国仏教の復興に尽くした。

弘法大師一千百五十年御遠忌に際し、中国仏教協会会長として、西安市恵果空海記念堂建立に尽瘁した功績を讃え、垣本剛一氏の寄進で、昭和59年1月30日に碑が建立された。
趙樸初自作の漢俳(中国流の俳句)が、碑面に刻されている。
山陰石楠氏の解説文に下記の読み下し文が載せられている。
   山ハ魏々タリ高野山
   金剛峯(コンゴウホウ)上 月輪(ガチリン)圓(マド)カニシテ
   霊気 人間(ジンカン)ニ満ツ
   西ニ長安(チョウアン)ヲ望メバ 海天ニ接ス
   當(マサ)ニ法(ノリ)ヲ求メシ年憶(オモ)ウベシ
   秘府(ヒフ)為メニ 門ヲ開キ
   豈ニ独リ 金胎(コンタイ)両部ヲ 承ケシノミナラズ
   文鏡自ラ 通明ス
   霧集リ 復(マタ)雲連ナリテ
   両邦世々弟兄ノ縁(エニシ)タラン
 弘法大師示寂一千一百五十年歳次甲子ノ春
     趙樸初 作頌並ビニ書



志太野坡句碑

志太野坡句碑は、和歌山県高野山大師教会にある。
大師教会境内の趙樸初作漢俳碑北側に建立された石碑には、次の句が刻されている。
   鶯や木末は鴉(からす) 置きながら
志太野坡(しだやば)(1662-1740)は、江戸時代前期、中期の俳人である。
姓は志田、志多とも書き、別性は竹田。
越前(福井県)に生まれ、江戸の越後屋両替商につとめる。宝井其角、松尾芭蕉に学び、元禄7年(1694)小泉孤屋らと「炭俵」を編集した。
芭蕉の遺書を代筆した俳人で、蕉門十哲の一人に数えられる。
宝永元年(1704)大坂に移り、中国、九州地方に行脚して、西国に多くの門弟を擁した。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車、徒歩3分。東北側と南側に、「金剛峯寺前」と「金剛峯寺第2」の無料駐車場がある。



山陰石楠句碑

山陰石楠句碑は、和歌山県高野山大師教会境内にある。
石碑には、次の句が刻されている。
 敦盛は いまも十六 盆供養

山陰石楠(やまかげせきなん)(本名 智也)は、大正12年11月13日に生まれた。
元高野山金剛峯寺座主 関栄覚和上門下で、還俗して古美術商 山陰玉石堂を営んだ。
昭和15年(1940)ホトトギス同人 森白象に就き俳句を学び、
山茶花(田村木国)、青玄(日野草城)、天狼(山口誓子)、若葉(富安風生)等に参加した。
俳人雑誌「金剛」を主宰している。著書には、句集晩鐘、大咲心、山姫、魔尼、沙羅、大咲心Ⅱ、金剛、円月、太虚、石楠善句集がある。
他に、句文集俳句曼陀羅、空華、山史高野山、絵本高野山、玉石堂夜話などがある。



川上玉園句碑(金剛峯寺前道しるべ句碑)

川上玉園句碑(金剛峯寺前道しるべ句碑)は、和歌山県高野山金剛峯寺南東の南都銀行高野山支店前歩道上にある。
高さ約170cmの石碑に、次のように刻されている。
(南) 高野山のぼりて
     うれし花の笑み
        川上 玉園
(東) 右 ふだう阪 京大坂
    すぐがらん 大門ぐち
(北) 明治十七年三月吉日周旋方西京 神谷助右衛門 四條大宮
    菩提所 自性院            神谷重治郎  西院村信
                         山崎伊兵衛  上山田村
         他力成就      大阪 川上作治郎  大東弥
(西) すぐをくのいん



山陰石楠句碑

山陰石楠句碑は、和歌山県高野山無量光院前にある。
石碑には、次の句が刻されている。
紅梅や一山統ぶる緋の位
                 石楠

山陰石楠(やまかげせきなん)(本名 智也)は、大正12年11月13日に生まれた。
元高野山金剛峯寺座主 関栄覚和上門下で、還俗して古美術商 山陰玉石堂を営んだ。
昭和15年(1940)ホトトギス同人 森白象に就き俳句を学び、
山茶花(田村木国)、青玄(日野草城)、天狼(山口誓子)、若葉(富安風生)等に参加した。
俳人雑誌「金剛」を主宰している。著書には、句集晩鐘、大咲心、山姫、魔尼、沙羅、大咲心Ⅱ、金剛、円月、太虚、石楠善句集がある。
他に、句文集俳句曼陀羅、空華、山史高野山、絵本高野山、玉石堂夜話などがある。

大野林火句碑

大野林火句碑は、和歌山県高野山南院(浪切不動)の境内にある。
石碑には、次のとおり刻されている。
(前面) この山の真如の月とひきがへる 林火
(後面) 大野林火先生古稀記念 1974.9.29 門下生
石碑前には、濱俳句会一同と記した石燈籠がある。

大野林火(1904-1982)(本名 大野正(まさし))は、横浜出身の俳人である。
大正10年(1921)に臼田亜浪(うすだあろう)の「石楠」に参加した。
昭和21年(1946)には、「濱」を創刊し、主宰し、俳人協会会長も務めた。
南海高野線高野山駅からバスで波切不動前下車、徒歩すぐ。


宮下歌梯句碑

宮下歌梯句碑は、和歌山県高野山清浄心院前にある。
碑面には、次のように刻されている。
   紀の国の山は佛に明易き  歌梯



同期の桜供養塔 ああ同期の桜句碑

同期の桜供養塔は、和歌山県高野山奥の院の一の橋西側にある戦没者慰霊塔である。
海軍第十四期会が昭和42年(1967)に建立したもので、塔横の石碑に次のとおり刻されている。

     あゝ同期の桜
   海軍第十四期飛行専修予備学生戦没者慰霊塔

第二次世界大戦の戦局不利となり国家存亡の秋を迎え、大学・
高等専門学校の文科系に在学する学生全員が徴兵され、昭和十八年、陸海軍に入隊した。

このうち海軍航空隊(操縦、偵察、要務)へ配属されたのが第十四期飛行専修予備学生である。

彼らはたがいに「貴様と俺とは同期の桜」とうたい、「散る櫻、残る櫻も散る櫻」と
厳しい訓練に鍛えられる裡に、太平洋南西諸島各地で戦死・戦病死者四百余名が数えられ、
神風特別攻撃隊も百十余名に及んでいる。

同期生・藤田光幢前官(高野山大円院住職第四十三世)は、散華した同期生の供養を生涯の責務と念じ、
密かに毎日その精進を続けていた。それを知った同期生・同家族並びにご遺族から澎湃とした感動が
慰霊碑建立の呼び声を齎したのである。やがて戦後二十三回忌に当たる昭和四十二年八月立派な威容が現出した。
この塔は千手観音の慈悲と不動明王の怒りの炎を具現している。

「あゝ同期の櫻の塔」は若くして散華した同期生の鎮魂、日本の繁栄、
世界の真の平和を祈る、散った櫻の悲願である。

       海軍第十四期会
           菩提所 大円院

下段には、「散る櫻 残る櫻も 散る櫻」の句が刻されている。

人道歌碑

人道歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
歌碑前の石柱には、人道之碑 赤松院 と書かれている。
歌碑石碑には、次のように刻されている。
わがまこと 
いかなる人ぞ
さとすとも
む知にはまける
神や佛 □
彦造公翁
宮崎



永田青嵐句碑

永田青嵐句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院18町石南東の関東大震災霊牌堂(供養塔)前にある。
高さ約1mの句碑には、次のように刻されている。
(正面)
お遍路の祖師と     青嵐
 在るこゝろ
  尊とけれ
(裏面)
昭和壬辰三月
  法淘社有志建立
    和田性海記



妣田圭子歌碑

妣田圭子歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院関東大震災霊牌堂(供養塔)東にある。
平成4年(1992)3月に建立されたもので、草絵創始者 妣田圭子(梶本喜久代(1912-2011)の歌碑である。
   たちどまり見あぐる杉のたか
   かりきなほみあぐれば
   なほもたかかりき



池内たけし句碑

池内たけし句碑は、和歌山県高野山奥の院の関東大震災霊牌堂の東隣にある。
石碑には、次のように刻されている。
(前面) 朝寒や我も貧女の一燈を たけし
(後面) 昭和四十七年十月八日 別格本山普賢院

貧女の一燈は、奥の院燈籠堂にあり、消えずの燈明として知られている。
孝女のお照が、養親のために自らの黒髪を切り一燈を寄進したという。
池内洸(いけのうちたけし)(1889-1974)は愛媛県出身の俳人である。
高浜虚子の次兄池内信嘉の長男として生まれた。
能楽の振興に努めた家風の影響で、拓殖大学の前身である東洋協会専門学校を中退して宝生流の能楽師をめざしたが、師の宝生九郎の死で断念した。
大正2年(1913)頃から叔父の高浜虚子門下に入り、「ホトトギス」発行所につとめて指導を受けた。
昭和7年(1932)から「欅(けやき)」を創刊、主宰し、「たけし句集」「赤のまんま」などを発行している。
昭和49年(1974)に85歳で死去した。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩5分。



司馬遼太郎文学碑

司馬遼太郎文学碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
2016年の高野山開創千二百年記念に向け、平成20年(2008)9月に碑が建立された。
碑文は、司馬遼太郎の著作「高野山管見」(「歴史の舞台 文明のさまざま」)の冒頭部分が、次の通り刻されている。
 高野山は、いうまでもなく平安初期に空海がひらいた。
 山上は、ふしぎなほどに平坦である。
 そこに一個の都市でも展開しているかのように、堂塔、伽藍、子院などが棟をそびえさせ、ひさしを深くし、練塀をつらねている。
枝道に入ると、中世、別所とよばれて、非僧非俗のひとたちが集団で住んでいた幽邃な場所があり、寺よりもはるかに俗臭がすくない。
さらには林間に苔むした中世以来の墓地があり、もっとも奥まった場所である奥ノ院に、僧空海がいまも生けるひととして四時(しいじ)、勤仕されている。
 その大道の出発点には、唐代の都城の門もこうであったかと思えるような大門がそびえているのである。
 大門のむこうは、天である。山なみがひくくたたなずき、四季四時の虚空(そら)がひどく大きい。
大門からそのような虚空を眺めていると、この宗教都市がじつは現実のものではなく、空(くう)に架けた幻影ではないかとさえ思えてくる。
 まことに、高野山は日本国のさまざまな都鄙(とひ)のなかで、唯一ともいえる異域ではないか。

南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩5分。



道標・裏面秋双句碑

道標・裏面秋双句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
一の橋西にある司馬遼太郎文学碑の横にあり、「秋双句碑(道しるべ句碑)」と書かれた資料もある。
奥の院参道分岐点に建てられた三角柱の石碑で、次のように刻されている。
  左 さんけい道
  右 かへ里路
  (裏面) 風すずし ここ浄域の 第一歩 秋双

芦田秋双(秋窓)(1878-1966)は、正岡子規門下の俳人で、新俳画新俳諧の提唱者である。 



右田百女句碑

右田百女句碑は、和歌山県高野山奥の院の関東大震災霊牌堂東側にある。
句碑表面上段には、獣医学博士右田百太郎の像が刻され、下段に次の句が刻されている。
 うつくしく 物みな映れ 初鏡    百女

右田百太郎は福岡県出身の獣医学者で、妻の貞枝は高浜虚子に師事して右田百女と号した。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩5分。



かげろふ塚

かげろふ塚は、和歌山県高野山奥の院18町石と19町石の中間にある。
かげろふ塚(高さ2尺(60cm)横3尺5寸(106cm))は、作家中山義秀と澄女夫妻の逆修碑で、かつては親交のあった三宝院の草繋全弘の逆修碑と並んで建てられていた。
昭和44年に、高野山真言宗宗務総長であった草繋全弘が死去した時に、草繋全弘の逆修碑は、関東大震災霊牌堂の西側に新しく作られた墓に移されている。
かげらふ塚の石碑は、昭和39年(1964)に建立されたもので、中山義秀自筆の次の文が刻まれている。
  在りし日のかたみともなれ
           かげろふ塚
         なかやま
            義秀
            すみ
中山義秀(1900-1969)は、明治33年に生まれ、早稲田大学を卒業後、学校に勤務しながら作家活動を続け、昭和13年に「厚物咲」で芥川賞を受賞した。
昭和27年(1952)、52歳の時に一人で高野山を訪れ、三宝院に滞在して「高野詣」を執筆し、住職の草繋全弘と親交を深めたという。
中山夫妻没後に、先妻の娘が高野山に来て、義秀と澄女の遺骨を塚下に埋葬したという。



平山居士句碑

平山居士句碑は、和歌山県高野山奥の院19町石東にある。
高野山の句碑歌碑巡りの資料には、「多々良平山居士句碑」と書かれている。
高野山のしおり及び高野山名所図会には、「東備の人名は穆姓は多々羅 碑面に句あり」と記されている。
石碑西面には、「明ぼのや暫(しばらく)ながら雪の峰 平山居士」とあり、右下には鼎左書と刻されている。
石碑東面には、作者の多々良清幽について書かれている。碑文字を書いた鼎左は、鼎峰のことで、東面には鼎峰と記されている。
東面の最期には、「碑陰 杜多草帝閑那 識」と刻されている。
杜多草帝閑那は、幕末紀州の俳人で、那賀町史「幕末維新期の豪農文化人」によると、「古宅家第5代当主 古宅健次郎(1804-1887)」ではないかと記されている。


弘法大師お夢告の歌碑 野村晃円(尼)歌碑

弘法大師お夢告の歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
野村晃円(尼)歌碑、と記された資料もある。
奥の院旧19町石東側にある。

正面下段に次の歌が刻されている。
   弘法大師お夢告の歌  野村晃円
 いてつく日 やけつく日 またあらしの日
  辻の地蔵の 姿しのべよ

裏面下段には、次の銘板がある。
   大日界修道員一同建立
   建立委員長                草繋全弘
   発起人    大日界修道師 横浜市 野村晃圓
   副委員長   横浜市 田城寺     野村全宏
   制作者    和歌浦           角田蘇風


高野山奥の院 玉川歌碑

玉川歌碑は、和歌山県高野山奥の院二十町石の北側にある。
「舊玉川碑」、「慶長16年玉川板碑歌碑」とも呼ばれる。

現地の石碑(高さ193cm)の文字は一部しか判読できないが、
紀伊国金石文集成によると、次のように刻されている。
     慶長十六年八月十五日
  忘れてもくミや志ツらん旅人の高能ゝ於くの玉川能水  「能」は変体仮名
    紀州名草郡和可山住重郷為逆修

紀伊国名所図絵には、次のように記されている。
〇玉川  左にあり。所謂六の玉川の一にして、毒水なりとぞ。纔(わづか)なる溝川なり。寛文(ママ)一六年碑を建てゝ、左の歌を刻す。
 風雅集
       高野の奥院へまゐる道に、玉川という川の水上に、毒蟲の多かりければ、
       此ながれをのむまじきよしをしめしおきてのちよみ侍る
   忘れてもくみやしつらむ旅人の高野(たかの)のおくの玉川の水  弘法大師
 十八景
                                           雲石堂寂本
   寒玉幽渓傍路邊、雲根繞出夕陽前。 聞名不汲旅人手。百世尚傳一首篇。

紀伊続風土記の記述によると、
玉川について弘法大師の歌があるけれども、なお人が誤って飲むことを恐れて、
慶長16年(1611)8月16日に和歌山の住人 重卿が逆修の石碑を建てて、弘法大師の歌を刻した。
高野山の宥快法印が、高野山十二景の題に「玉川秘水」としていたが、近世雲石堂寂本が高野山十八景を選ぶに際して、「玉川流水」としたという。

上記の「所謂六の玉川」とは、全国に玉川が六つあるとされているもので、山城国井出の玉川、近江国野路の玉川、摂津国三島の玉川、
武蔵国調布の玉川、陸奥国の野田の玉川、紀伊国高野の玉川を指す。

毒蟲あるいは「どく水」については、後世様々な解説がされている。

上田秋成は雨月物語巻之三「仏法僧」で、次のように記している。(現代語訳出典:日本古典文学全集)
 一人の武士が、更に法師に問いかけた。
「このお山は高徳の僧が開かれて、土石草木も霊の宿らぬものはないと聞いている。
しかるに、この地の玉川の流れには毒があって、水を飲む人が命を落とすゆえに、
弘法大師のお詠みになった歌として、
  わすれても---- (旅人はたとえ忘れてもこの水を汲んでよいであろうか、いやいけない。高野の奥山の水は)
というのがあると聞いている。
高僧であったにもかかわらず、なぜこの毒ある流れを涸らしてしまわれなかったのか。不審なことだが足下はどう考えておられるか。」
法師が微笑を浮べて答えるには、
「この歌は風雅集に収められています。その詞書に、
『高野山の奥の院へ参る道にある、玉川という川は、川上に毒虫が多いので、
この流れの水は飲んではならぬということを、諭し戒めて後に詠みました』
と説明してありますので、貴方のお考えになるとおりです。
けれども、今の貴方のお疑いが間違っていないことは、弘法大師は神通自在であって目に見えぬ精霊を使役して、
道なき所に道を開き、堅固な巌(いわお)を穿つのでも土を掘るよりたやすく、世に害を流す大蛇はこれを封じ込め、
怪鳥はこれを帰服させられたことは、天下の人々が仰ぎ尊ぶご功績であることを思い合わせると、この歌の詞書のほうこそ、どうも本当とは思えません。
もともとこの玉川という川は、諸方の国々にあって、いずれの玉川を詠んだ歌も、その流れの清らかさを讃えていることを思えば、
この地の玉川も毒のある流れではなく、歌の心意も、これほど名高い川のこの山にあるのを、参詣の人々はまるで忘れてしまって、
ただ流れの清らかさにうたれて、思わず手にすくって飲むであろうとお詠みになったものを、後の世の人の『毒がある』という誤った説によって、この詞書がこしらえられたと思われます。
更にまた深く疑いますと、この歌の調べは弘法大師の在世された平安朝初めの歌風ではありません。
おおよそわが国の古語で玉鬘、玉簾、珠衣の類は、すべて形の美しさ清らかさを賞める言葉ですから、清らかな水をいうのに、玉水、玉の井、玉川と美称(ほめ)るのであります。
毒のある流れにどうして『玉』という語を冠(かぶ)らせましょう。
仏法の狂信者で、和歌の意味などよくわからぬ人などが、こんな誤りをいくらでもしでかすものです。
貴方は歌人でもいらっしゃらないのに、この歌の意味を不審がられるとは深いたしなみがおありです。」
と、あつく賞め讃えた。

「高野のしほり」では、舊玉川碑として、次のような記述がある。
慶長十六年八月十五日和歌山住人重卿逆修善根の爲め建つるところなり、
わすれてもの歌を刻せり、もと此邊の左方より流れ出で路に沿うて行く小流を玉川といひて、毒水なりと傳へしを、
山口志道翁古来の謬傳を破砕して、御廟橋下の清流に確定せり。

「高野文学夜話」(下西忠、浜畑圭吾著)では、次のように記されている。
弘法大師は、その川の源には毒虫が多いので、飲まないようにと言っています。
玉川の美しい流れ(現在もきれいな川です)についつい気を許して一口、ということがあったのでしょう。
本当に毒虫が多かったのかどうかはわかりませんが、生水で体を壊さないよう配慮したのかもしれません。
はるばる高野山までお参りしてきた人々を気遣う、弘法大師の歌です。

奥の院御廟橋南西には、嘉永元年玉川碑歌碑がある。



塊亭碑(塊翁句碑)

塊亭碑(塊翁句碑)は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院20町石東の極楽塚歌碑西南方向にある。

紀伊國名所図会には、次のように記されている。
塊亭碑 (参道の)右にあり。碑陰に五橘亭風圭(きっていふうけい)の銘あり。
     霧となる香の薫や九百坊  塊翁

山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、「塊翁句碑」として紹介されている。
(正面)
    霧となる    塊翁
      香の薫や
         九百坊
(碑陰)
    塊華始發正風南薫
    塊乎不朽千歳遺墳
      紀藩五橘亭風圭誌
(左)
    文政十丁亥秋七月十四日爲
    十三回追福門人何某等建立

五橘亭風圭は、紀州藩士 吉田半左衛門のことで、俳諧に親しみ、文化11年(1814)に風悟松尾塊亭から二代を受け、天保2年(1831)11月に没した。

松尾塊亭(1732-1815)は、紀州藩士で俳人としても知られる。
文化12年(1815)に83歳で没し、文政10年(1827)塊亭13回忌の際に、当碑が建立された。
山内氏によると、紀伊國名所図会には、次の塊亭の作品が載せられている。
  あはれにも尊くもたゞ萬の霜        塊亭
  東むいて居るもあはれや女人堂      塊亭
  霧となる香の薫や九百坊           塊翁
  寂莫(じゃくまく)と苔に木の実の音もなし 塊亭



極楽塚 藤田丁亥次歌碑

極楽塚 藤田丁亥次歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院20町石西側にある。
歌碑上部には次のように刻されている。
  極楽は あるべきものを 何人も
   忘れさらめや 誠つくして
     藤田 丁亥次 書
藤田丁亥次は、藤田榛洋自叙伝を1961年5月に出版している。
著者は、餅饅頭業を営み、「祝い砂糖」を考案したという。

案内石柱「極楽塚」の裏面には、次の句が刻されている。
  歳の暮れ 浮世は ものの 夢なれや 棒洋



富安風生句碑

富安風生(とみやすふうせい)句碑は、和歌山県高野山奥の院の多田満仲供養塔北側にある。
石碑には、次のように刻されている。
  一山の清浄即美秋の雨 風生
富安風生(1885-1979)は、大正、昭和期の俳人である。本名謙次。
愛知県出身で、一高、東京帝大卒業後、逓信省に入った。
大正7年(1918)福岡勤務の時に、吉岡禅寺洞(ぜんじどう)らと句作し、東京帰任後、高浜虚子に師事して、水原秋桜子らと東大俳句会をおこした。
昭和3年(1928)俳誌「若葉」を創刊主宰し、昭和12年(1937)に逓信次官で退任後は句作一途で、その句業によって昭和46年(1971)芸術院賞を受賞している。
昭和50年(1975)芸術院会員となり、水原秋桜子と共に俳壇の巨匠と呼ばれた。
「草の花」「松籟」「晩涼」「古稀春風」「喜寿以後」「齢愛(よわいいと)し」などの句集がある。
昭和54年2月22日に93歳で没した。
石碑は、昭和39年に建立された。


明治天皇御製碑

明治天皇御製碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院22町石の北側にある。
東郷平八郎書により、明治37年の次の歌が刻されている。
  世と共に かたりつたへよ 国のため 命をすてし 人のいさをを

東郷平八郎(1847-1934)は、明治、大正時代の海軍軍人である。
慶応2年(1866)薩摩藩の海軍に入り、明治維新後の海軍においてイギリスに留学した。
明治36年(1903)に連合艦隊司令長官になり、日露戦争の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を破って名声を得た。


鶴亀淀八歌碑

鶴亀淀八歌碑は、和歌山県高野山奥の院22町石東にある。
円形石碑の前面には、次のように刻されている。
       春野書
   ふかき恵の
      露の
        なさけを
 碑の
   くちぬかきりは
     わすれめや
      鶴亀淀八 印

裏面には次のように刻されている。
     高垣幸次郎
           カヤ
 柴田清之助   正一
           ふく
 高垣子兵衛   まさ
           ツヤ
 高垣トミ     清三
           豊
 越田五一郎   操
     笠木雄太郎

台石前面には、鶴と亀甲の文様が刻まれ、裏面には、次のように刻されている。
  大正五丙辰年十一月建立



大蕪庵十湖句碑

大蕪庵十湖句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院中の橋の西にあり、南海電鉄創業者松本重太郎翁の墓の南東にある。
句碑には、次のように刻されている。
         十湖
 山の月こゝろも
  高う眺めけり
碑陰には、静岡県浜松市出身の俳人である松島十湖(大蕪庵十湖)の紹介が刻されている。



市川団十郎墓所

市川団十郎墓所は、和歌山県高野山奥の院中の橋西側にある。
「初代市川團十郎供養塔」と表示されている資料(「高野山奥の院の墓碑を訪ねて」)もある。
中央の板碑には、上部に梵字が刻まれ、その下に市川家の家紋「三升」と「供養先祖所」「子孫蕃育」の文字が刻まれている。
蕃育(ばんいく)とは、やしないそだてることを指す。板碑裏面の文字は判読が難しい。

市川団十郎供養句碑
半球形の台座には、供養塔建立の経過に関する次の文と句が刻まれている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
  寶暦三(1753)酉歳二月十九日
  父團十郎五十回忌の
  菩提二代目海老蔵建之
  文政十三(1830)寅二月十九日
  元祖團十郎百二十七廻
  忌相當同年四月十二日
  母十三回忌營追善
   再建七代目團十郎

   雉子啼や
     翁の仰せ
   有る通り        → 芭蕉句碑

左右には花筒があり、向かって右には「市川右團治」左には「市川團蔵」という文字が刻まれている。
市川団十郎は、歌舞伎俳優の名跡で、二代目以降の屋号は「成田屋」である。
元祖(初代)市川團十郎(1660-1704)は、元禄時代(1688-1704)の歌舞伎界を代表する俳優であった。
男伊達と呼ばれていた親分の子 堀越十郎として生まれたが、役者の道を進むことになり、本名の十郎の上に普段の段の字をつけて、段十郎としてデビューした。
その後、京都の名優 坂田藤十郎に認められ、藤十郎の助言で、段の字を團と変えた。
團十郎は、劇作も兼ねて、三升屋兵庫(みますやひょうご)の名前で狂言本を十数編書いている。
元禄17年2月19日に市村座の公演「わたまし十二段」で佐藤忠信を演じていた最中に、同僚役者の生島半六に舞台上で刺殺された。
東京都港区の青山霊園に埋葬されている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩5分。バス停西側に路側帯駐車枠がある。



大教正五左井句碑

大教正五左井句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
中の橋東側、姿見の井戸前に建立されている。
山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、次のように刻されている。
(正面)
     大教正
      五左井穿雄
 尊さや 蓮の
  かたちの
     法の山
(裏面)
  大正壬子仲秋
   正倫社有志建之


ありがたや歌碑

ありがたや歌碑は、和歌山県高野山奥の院中の橋東20mにある。
大正11年(1922)に東京市の増田新三郎夫妻が建立したもので、正面には万葉仮名で次の歌が刻されている。
  ありがたや 高野の山の岩陰に 大師はいまだおわします
真言宗の御詠歌では「ありがたや 高野の山の岩陰に 大師はいまだ おわしますなる」と読誦されることから、
宮川良彦氏は、「高野百佛」の中で、ありがたや歌碑について、次のように記している。
  歌詞は、慈鎮和尚の「拾玉集」に記載されたものの写しらしい。
  「仏前勤行次第」の歌詞も、この「拾玉集」よりとったようだが、拾玉集の原文にない「なる」は、真言宗が便宜上つけ加えたものではないかと思われる。
  「なる」の二字を付加することにより、空海への敬いをさらに深めた語気が受けとられるばかりではなく、詠歌のゴロあいもみごとなものとなった。



石倉翆葉句碑

石倉翆葉句碑は、和歌山県高野山奥の院28町石西にある。
約3mの高さの石碑に、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
       翆葉
 杉の奥佛龕の
   灯の時雨けり

石倉重継は、「高野山名所図会」を記している。



らしく詩碑

らしく詩碑は、和歌山県高野山奥の院28町石のすぐ北にある。
碑面には、次のように刻されている。
(南面)     大師誨諭表爲其高祖寂焉干
     らしく 百期一鳥有聲人有意報恩謝
         徳記功碑 松風軒天籟謹詠 印
(東面)   信州上伊那郡朝日村長三郎三男瀬戸清之助
(西面)  昭和八年十二月建之 菩提所 蓮花院
(台石)  長野縣 瀬戸清之助

空海の漢詩詩文集「遍照発揮性霊集」の中に、次の漢詩がある。
    後夜聞佛法僧鳥
  閑林獨坐草堂暁 三寶之聲聞一鳥
  一鳥有聲人有心 聲心雲水俱了了

日本古典文学大系の読み下し文は、次のように記されている。
   後夜に佛法僧の鳥を聞く
  閑林に獨り坐す草堂の暁 三寶の聲(みな)一鳥に聞こゆ
  一鳥聲(こえ)有り人心(ひとこころ)有り 聲心雲水俱(ともに)了了たり



母子像の歌碑

母子像の歌碑は、和歌山県高野山奥の院28町石の北にある。
らしく詩碑のすぐ北にある。
母子像下の台石には、次のように刻されている。
(南面)  くらやみを いでてまたゆく やみの旅
       頼む母ごの あかりは何処に
(西面)  先祖代々菩提の為
         先祖代々菩提の為
       南無阿弥陀佛
         南無阿弥陀佛
       有難う様でございます



慈眼堂 河野宗寛(大渕)老師 歌碑

慈眼堂 河野宗寛(大渕)老師 歌碑は、和歌山県高野山奥の院28町石東にある。
石碑には、次の歌が刻されている。
  親のなき子らを
         ともない
   荒海をわたり
  帰らんこの荒海を
     大渕杜多

河野宗寛(1901-1970)は、大分県出身の禅僧である。
昭和16年(1941)中国新京(現在の長春)の妙心寺別院布教総監として赴任した。
終戦の混乱期に、別院禅堂を戦災孤児に開放し、数多くの孤児を伴い帰国して、その後社会福祉に尽力した。
当地の歌碑は、昭和46年(1971)に慈眼堂歌碑建立委員会が建てたものである。



芭蕉句碑

芭蕉句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
松尾芭蕉(1644-1694)が、記した俳諧紀行「笈(おい)の小文」の中で詠んだ次の俳句で、池大雅の字で刻まれている。

ばせを翁 父母のしきりにこひし雉子の声

芭蕉は、貞享4年(1687)江戸をたち、郷里伊賀上野、伊勢神宮、吉野を経て高野山に参詣した。
郷里伊賀上野では、貞享5年2月18日に亡き父の三十三回忌法要を済ませた。
父は芭蕉十三歳の時に、また母は芭蕉四十歳の時に他界している。
その後、和歌の浦、奈良、明石までの旅を「笈の小文」としてまとめ、宝永6年(1709)に出版された。
旅中の54句が納められており、高野山について次の2句が載せられている。

ちゝはゝのしきりに恋し雉の声
ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊(芭蕉門人の杜国)

また、「枇杷園随筆」所載の高野登山端書では、芭蕉は次のように記している。

高野のおくにのぼれば、霊場さかんにして、法の燈きゆる時なく、坊舎地をしめ、仏閣甍をならべ、
一印頓成の春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼にも腸を破るばかりにて、
御廟を心しづかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たたずみ)て、倩(つらつら)おもふやうあり。
此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、
此内にこそおもひこめつれと、袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝ涙をとゞめて、
父母のしきりに恋し雉の声

芭蕉は、雉の声に亡き父母への思慕の情をかきたてられ、この句を詠んだ。季語は雉で春である。
俳句歳時記の解説では、雉について、次のように書かれている。
     雉子 きぎす
  日本の国鳥として書画にも多く描かれている鳥である。雄は羽の色彩が華麗で長い横縞のある美しい尾を持つ。雑木林や原野を生息地とするが、排卵中の雌はあまり飛び立たない。
 留鳥であるが、いかにも哀れ深い声で鳴くので、古くから春のものとされている。早春の野焼きのころに、雉の巣も焼かれることが多い。
 野鳥に共通する本能のため、子を守ってともに命を落とすことから、「焼野のきぎす」として、親の情愛の深さに例えられている。

芭蕉句碑は、紀伊名所図会で、「芭蕉墓(づか)」と紹介され、碑の裏面には、次の碑陰銘が記されている。(高野山詩歌句碑攷)

      雉子塚の銘
ほろ々と。鳴くは山田の。雉子のこゑ。父にやあらむ。母にやと。
おもひしたへる。いにしへの。良辨のかの。ふるうたに。かよふ心の。十(とお)あまり。
なゝつの文字を。石に今。きざみてこゝに。たつかゆみ(弓)。紀の高野(たかの)なる。法の月。
雪にさらして。すゑの世も。朽ちぬためしを。この國に。この道したふ。沂風(そふう)てふ。
人のまことを。かきぞとどむる。右 東武 雪中菴蓼太
     安永四乙未年十月十二日

この俳句は、行基が高野山で詠んだと伝えられる次の歌を踏まえたものと言われている。
「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞおもふ 母かとぞおもふ」(玉葉和歌集)
良辨僧都は、「ほろほろと鳴は山田の雉子の聲 父にやあらん母にやあらむ」と詠んでいる。
撰文を記した雪中菴蓼太(大島蓼太)は、江戸時代中期の俳人で、天明期の俳諧中興に尽くした。

句碑の台石には、次のように刻されている。
  宿坊 
  金剛頂院

  南紀日高郡御坊邑
  鹽路沂風
     建之

この芭蕉句碑は安永四年(1775)に、紀州日高郡御坊村の塩路沂風によって建立された。
塩路沂風は、後に滋賀県義仲寺無名庵六世になった俳人である。芭蕉の墓は義仲寺(滋賀県大津市)にある。
山内潤三氏の高野山詩歌句碑攷によると、芭蕉を崇敬してやまぬ弱冠24歳の塩路沂風が、芭蕉の八十回忌にあたり、高野山にこの芭蕉句碑を建立したという。

高野山奥の院中の橋西にある市川団十郎供養句碑には、「雉子啼や 翁の仰せ 有る通り」と詠まれている。

那賀町史の別章二「幕末・維新期の豪農文化人」によると、松尾芭蕉は二度高野山に登ったと伝えられている。
上記の貞享4年(1687)は二度目で、一度目は伊賀上野で二歳年長の藤堂主計良忠(蝉吟)に仕えたとき、
寛文六年(1666)4月、23歳の時主を失い、6月にその位牌を高野山報徳院に納めるにあたり使者をつとめたと言われる。(俳諧大辞典)

南海高野線高野山駅からバスで、奥の院前下車、徒歩15分。→ 其角句碑 高野山内の句碑

其角句碑

其角句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
南向きの正面には、「鈴木里見累世(代)之霊 其角堂」と刻され、
東面と西面にはそれぞれ、
「卵塔の鳥居やげにも神無月       其角」
「灯火(ともしび)を浮世の花やおくの院 永機」
の二句が刻されている。
宝井其角(1661-1707)の「句兄弟」所収の句といわれている。
其角は江戸時代中期の俳人で、松尾芭蕉の高弟である。父は本多藩の医師で、のちに宝井氏を名のった。
14,15歳で芭蕉の門下となり、元禄7年(1694)上方の旅の際に、芭蕉他界の前日に大坂の病床に参じて、葬儀万端を済ませた。
豪放闊達な作品が多い半面、師芭蕉、父母、娘などの死に臨んでの作品も知られる。
芭蕉没後の作風は、洒落風と呼ばれ、後に江戸座の祖とされ、江戸文化に大きな影響を与えた。

毎日新聞2001年8月10日の「高野山俳句ウォーク&シンポジウム」には、次の記事がある。

高野山大学客員教授で、現代俳句協会会員の山陰石楠さん(77)=和歌山県高野町高野山766=は句作のかたわら高野山内の句碑の研究を続けている。
高野山出版社発行の信仰雑誌「聖愛」に1999年1月号から約2年間にわたり、句碑を紹介した。(中略)
2年間の「取材」で山陰さんは、芭蕉の門人の宝井其角のものとされていた句碑は別人によるものであることを「発見」した。
旧参道に建つ「卵塔の鳥居やげにも神無月」の句碑は「其角句碑」として立て札が設けられ、宝井其角とされていた。
しかし、山陰さんが句を調べてみると、其角から約180年後に江戸深川に住んだ江戸座其角堂六世の鈴木義親の作であることがわかったという。

鈴木義親(1777-1852(1849?))は、別名 穂積永機(1)、深川永機、六世其角堂鼠肝ともいわれる。
穂積永機(2)(1823-1904)は、幕末、明治時代の俳人として知られる。本名は善之。父 六世其角堂鼠肝 と、母 里見の間に生まれた。
石碑正面に刻された「鈴木里見」は、この母のことかと思われる。

石碑北面には、明治壬午(明治15年 1882年)卯月 里見田女 山本乕(虎)子 建之 と刻されている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩15分。→ 高野山奥の院芭蕉句碑



良寛詩歌碑「高野紀行」

良寛詩歌碑「高野紀行」は、和歌山県高野山奥の院にある。
良寛さまのゆかりの中で、碑面と読み下しが記されている。
碑面 
高野道中買衣(不)直銭
一瓶一鉢不辞遠
裙子褊衫破如春
又知蔞中無一物
総為風光謝此身

さみつ坂といふところに里の童の青竹の杖を切りて売りゐたりければ
  こがねもて いざ杖かはん さみつさか

読み下し
高野道中衣をかはんとして銭に直らず
一瓶一鉢と遠きを辞せず
裙子褊衫は破ぶれて春の如し
又た知る蔞中の一物なきを
総べて風光のために此の身を誤る
<注>2句目の「春」は「舂」の誤りとする説がある。

手前の脇碑には次のように刻されている。
良寛高野紀行の碑
 平成十年秋
  全国良寛会
  高野山遍照光院
  須磨寺正覚院
   制作 速水志朗
    碑稿 加藤僖一
(原本 糸魚川市歴史民俗資料館蔵)

「さみつ坂(作水坂)」は、高野参詣道京大坂道の一部で高野町西郷の作水にある。→  高野街道六地蔵 第五


高浜年尾句碑

高浜年尾句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
石碑は、御廟橋と豊臣家墓所の間にあり、堺中室院墓所の階段南側にある。
石碑前面には、「一水の緑陰に入るところかな 年尾」と刻されている。
裏面には、「昭和五十七年六月六日 総本山金剛峯寺」とある。
山陰石楠氏の解説によると、弘法大師が、奥の院の御廟橋南側のこのあたりを好まれて、ここに納涼房を建てて四時を過ごされたという。
高浜年尾(1900-1979)は、東京神田で高浜虚子の長男として生まれた。
小樽高商卒業後、旭シルク、和歌山製糸で勤務後、昭和10年ごろから俳句生活入り、ホトトギス関西地方代表として活躍した。
昭和13年(1938)「俳諧」を発行、昭和26年(1951)高浜虚子に替わり「ホトトギス」を主宰した。昭和54年(1979)10月26日逝去。



稲畑汀子句碑

稲畑汀子句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院其角句碑と御供所を結ぶ参道の中間地点にある。
石碑には次のように刻されている。
(前面)  萬丈の杉の深さや五月闇  
                   汀子
(裏面)  平成十一年十一月七日
        総本山 金剛峯寺

五月闇は、夏の季語で、梅雨時のころの鬱蒼とした暗さをいう。
稲畑汀子(1931-)は、昭和後期から平成時代の俳人である。
高浜虚子の孫、高浜年尾の次女で、稲畑順三と結婚した。
父の高浜年尾没後、昭和54年(1979)から「ホトトギス」を主宰した。
花鳥諷詠をとなえた祖父の作風を引き継ぎ、昭和62年に日本伝統俳句協会を設立し、会長となった。
平成25年「ホトトギス」の主宰を長男 稲畑広太郎(廣太郎)に引き継いで名誉主宰となった。→ 高浜虚子句碑 高浜年尾句碑



高浜虚子句碑

高浜虚子句碑は、和歌山県高野山奥の院御供所南側にある。
「炎天の空美しや高野山」の句が刻されている。
裏面には、「昭和廿六年六月十日 金剛峯寺 第一回高野山俳句大会記念」とある。
昭和2年の句で、昭和26年6月の高野山俳句大会に際して、金剛峯寺境内に建立された。
高浜虚子(1874-1959)は、明治から昭和にかけての俳人、小説家である。
本名は清で、父は旧松山藩剣術指南役の池内信夫である。
松山市に生まれて、同級生の河東碧梧桐を介して正岡子規に師事した。
松山で創刊された「ホトトギス」を東京に移して、俳句と文章の発表を続け、1905年からは夏目漱石の「吾輩は猫である」をホトトギスに連載している。
昭和29年文化勲章を受章し、昭和34年に85歳で死去した。



与謝野晶子歌碑

与謝野晶子歌碑は、和歌山県高野山奥の院中の橋公園墓地の親鸞上人供養塔の東側にある。
前面には、みだれ髪所収の次の歌が刻されている。
  やは肌の あつき血潮にふれも見で 
   さびしからずや道を説く君
裏面には、「昭和二五年五月二五日建之 與謝野晶子顕彰会」と刻されている。
与謝野晶子(1878-1942)は、明治から昭和時代の歌人である。
堺市の出身で、旧姓は鳳、本名は志よう。明星に詩歌を発表し、大胆な官能の解放を歌い、奔放で情熱的な作風は浪漫主義運動に一時代を画した。
高野山壇上伽藍には、与謝野鉄幹晶子歌碑が建てられている。



親鸞聖人歌碑(見真大師参道歌碑)

親鸞聖人歌碑(見真大師参道歌碑)は、和歌山県高野山奥の院にある。
親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)への参道入り口の石階段横に石碑が建立されており、次のように刻されている。

(東面) 見真大師墓参道
(北面) 親鸞聖人 極楽に参らむことのうれしさに 身をは佛にまかせけるかな
(南面) 施主 長崎縣肥前國南松浦郡五島福江村 (氏名 略)
(西面) 見真大師古跡坊 西禅院



山口誓子句碑

山口誓子句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
句碑には、「夕焼けて西の十萬億土透く 誓子」と刻されており、
裏面には「昭和三十六年六月建之 金剛峰寺」とある。

「晩刻」に収録された句で、平田永朝氏の解説に次のように記されている。
 山口誓子は、「芭蕉の精神に復帰して、真の伝統の道を俳句に貫ぬく」ことを自らに課し、水原秋桜子と共に現代俳句の出発点を築いた。
俳句は、美しく荘厳な夕焼けに立てば、あたかも十万億土の彼方にあるという西方弥陀の浄土が透き通って望まれるかの様であるーと忘我の心境を詠ったものである。
 誓子は昭和十六年から同二十八年までの十二年間、三重県鈴鹿市富田の海岸で療養生活を送ったが、眼前に炎え拡がる大夕焼をわが身に引き較べてこの句を得た。

当初は、西側がひらけている奥の院英霊殿参道入口に建てられていたが、その後東側の中の橋駐車場御廟間の参道沿いに移設された。

「私の旅日記」の説明では、次のように記されている。
 西の天、真紅に夕焼け、一切空。遥かに遥かに十万億土が見える。透いてありありと見える。
 自分の句だが、高野山にはもってこいの句だ。
 建てるとすれば、(西側の展望が望める高野山)大門の前が最も然る可きであるが、
 そこにはすでに木国の句碑が立っているから、ずっと退いて(奥の院の)脇参道に西を向いて立つことになったのである。
 そこも西に展けている。
 はじめ白象師が建碑のことを云われ、句を求められたとき、私は
  高野より雲加わりて鰯雲
 という句を提出した。
 その句は、採用されなかった。「鰯雲」は「雲」ではあるが、「鰯」は魚扁の生臭い字であるという理由で。
 結局、私が昭和二十一年、伊勢で作った十万億土の句が採用された。
 私のこの句は、ゆかりの地のゆかりの句とは云えぬが、知らぬひとは欺かれる。

山口誓子(1901-1994)は、京都生まれの俳人で、本名は新比古(ちかひこ)といった。
京大三校俳句会に加入し、ついで東大俳句会で、水原秋桜子に兄事、高浜虚子に師事した。
水原秋桜子、阿波野青畝、高野素十とともに、「ホトトギスの4S」と称された。
戦後の俳句復興にも尽くし、昭和45年(1970)紫綬褒章を受章している。



楽書塚   花菱アチャコ句碑

楽書塚、花菱アチャコ句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
楽書塚と書かれた石碑が建てられており、その南の石碑に次のように刻されている。
     らくがきは即ち良久加幾で好いこと
     長く更に活力を増すものまた落我鬼で
     あるから自分の胸より怪しからぬ思いを
     去ってしまうもの   清川虹子
お願い 楽しく落がきの出来る場所を作りました
     大切な場所にむやみに落がきをしないで下さい
     昭和四十三年十月 柳家金吾楼    

花菱アチャコ句碑上部の扇形の石碑に次の句が刻まれている。
  笑われて浮世をおくる顔にで来
花菱アチャコ(1897-1974)は、大正、昭和時代の漫才師、俳優である。
明治30年2月14日、福井県に生まれた。本名は藤木徳郎。
喜劇の鬼笑会から漫才に転向し、のちに吉本興業に入った。
昭和5年横山エンタツとコンビを組み「早慶戦」などのしゃべくり漫才を得意とした。
その後、コンビを解消し、昭和10年にアチャコ劇団を結成し、戦後は喜劇俳優として活躍した。



大石順教尼腕塚歌碑

大石順教尼腕塚歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
大石順教尼之墓(腕塚)の慈手観世音菩薩像の西側に建立されている。
昭和27年(1952)に建立されたもので、北面には、次の歌が刻されている。
  尚ちからせむ
   すべも
  なきみには
      ただ
  南無佛と
    とう人の
    みこそ
       順教

南面には、大石順教尼について紹介する金山穆韶大僧正の漢文が刻されている。



森白象(寛紹)句碑

森白象(寛紹)句碑は、和歌山県高野山奥の院英霊殿前平和橋東詰めにある。
石碑には、次のように刻されている。
(前面) 涼しさや奥の院まで坂もなく
(裏面) 高野山真言宗管長 第四百六世金剛峯寺座主
      大僧正 森寛紹 和尚 白象と号す
      弘法大師御入定壱千百五十御遠忌奉修記念建之
         昭和五十九年五月二十日

森白象(もりはくしょう)は、明治32年(1899)愛媛県に生まれ、明治43年に高野山普賢院に入寺している。
昭和47年(1972)高野山第473世寺務検校法印、昭和55年(1980)高野山真言宗管長・第406世金剛峯寺座主となった。
昭和2年(1927)に高浜虚子と出会い、ホトトギス同人となり生涯虚子を俳句の師とした。



土生川正道書 本居宣長歌碑

土生川正道書 本居宣長歌碑は、和歌山県高野山奥の院英霊殿前にある。
石碑には、次のように刻されている。
敷島の大和心を人とはゞ 朝日ににほふ山桜花
     土生川 正道 書

この和歌は、江戸時代の国学者 本居宣長(1730-1801)が61歳の時に自画像の簪として書いたものである。
土生川正道(はぶかわしょうどう)は、高野山無量光院住職で平成19年に高野山第五百八世寺務検校執行法印を務めた。

上記和歌は、新宮を舞台にした辻原登の小説「許されざる者(上)」第六編でも、次のようにとりあげられている。
  夫人が、声量を湛えたダムの中から、さわやかな風のそよぐような声を汲み上げた。
  「しきしまの やまとごころを人とはば、朝日にひほふ山櫻ばな」
  と口にして、恥ずかしげに付け加えた。
  「亡くなった父は、この歌が好きでした。」
  「本居宣長ですね。朝日ににほふ、としたところがいい。この場合、にほふというのは、輝き映じる、という意味なんでしょうな。」
  了円がいって、別の歌を引いた。
  「明日ありと 思ふこころのあだ櫻 夜半に嵐のふかぬものかは」
  それは? という表情を槇と夫人が了円に向けると、
  「親鸞聖人の御作と伝えられております」



嘉永元年玉川碑歌碑

嘉永元年玉川碑歌碑は、和歌山県高野山奥の院御廟橋南西側にある。
弘法大師の 玉川の歌に関する石碑で、奥の院には「玉川歌碑」(舊玉川碑)と呼ばれるものが、二十町石北側にもある。
現地の石碑(高さ180cm)文字の判読は困難であるが、明治37年(1904)刊行の「高野山名所圖會」には、次のように記されている。

  玉川並に其碑
御廟橋下を流るゝ清泉にして、その源(みなもと)三山より出て御廟の後方より西邊(せいへん)を繞(めぐ)りて此處に来る、
是より南姑射(こや)の麓を過ぎ、東流と相合して遂に大瀧に落つ、此河上に「流灌頂」とて先亡追資の功徳を爲すことあり(口絵参照)
此の川即ち本朝六玉川の一にして南岸に玉川の碑あり、左の如し。

  わすれても汲みやしつらん旅人の高野(たかの)のおくの玉川のみづ (弘法大師の御歌也)

      長歌幷短歌         安房國 七六歳 山口志道

  雲霧のはれにし時ゆ高野山 はちすの嶺の白露のしたゞりつたふ玉川の其ふる歌をいつの頃
  誰が衣手のぬれそめて なき名ながるる世となりぬ そこし思はゞ高しるや 天の御蔭天知や
  日の御蔭よはひの末に旅人も いく代ぞ汲ぬその水を くみて我しる白眞弓 今より後はわすれても
  なき名ながすなこの玉川に

    もろ共にくみてこそしれ高野山 蓮のみねのつゆたまみづ

   天保十一庚子歳(1840)八月十五日      前權大納言藤原公説篆額 (歌の上に玉川碑三字の篆書あり)
 
 碑陰 (略)

 蓮の峰露(みねつゆ)のたまがはみなかみは世にありがたきこけのほら哉
   維嘉永元丙申(1848)仲夏念八日                               清堂觀尊誌
 たかの山わかのぼりつるもろ人の むすぶもきよき玉がはの水            皇都 上野志廣

而して此玉川の水を古昔毒水と言ひ傳へたりしを、かの山口志道翁 後人のひがことなりと舊説を駁撃せしの美事、
井村真琴氏編の「高野のしをり」に懇切に傳へたり、左の如し。

  抑々玉川はもと一の橋より二町計り奥なる路傍の小流を玉川とし 千手院谷の秘井をその水源として
  毒水なりと言ひ傳へり 其説全く風雅集のかの歌の前書に基づきし也
  然るを山口志道翁 かの前書を後人の偽作なりとして毒水の舊説を駁撃し此清流を眞の玉川なりと断定せり
  其卓見千載の迷夢を覺破せしは壮快といふべし 
  今其論旨を摘みていへばかの前書の高野の奥の院へ参る道に玉川と云河の水上に毒虫の多かりければ
  此流のむまじき由をしめしおきてとある詞と歌の意味と大に相違せり
  讀人は参詣する人に高野へ登られしならば山は宇内無双の霊山にして其の山の谷々より湧く泉の清浄なるを
  汲玉へ是則眞言秘奥の灌頂等に用うる閼伽などの餘流なり
  此浄流をば玉川とは云なりなど物語りし別れに臨みて讀てつかはせしならん一首の意味は此物語しぬる言葉を
  忘れても正しく山へ登りて仙界浄地の淸淸を見られたぞならば語り聞かせし言ばを忘れても汲みやしつらん
  汲みでこそあらう高野の奥の玉川の水と云意なり 惣じて山内の湧泉清浄なるが中に三山の下より湧出るは
  殊に玉の如き泉にして御廟橋下を通り姑射山の裾を繞りて行 然るを何の比よりか毒流とし千手院谷奥なる
  秘井てふものは玉川の源水なとゝいふ濛説笑止千万なり
  元来かの秘井のある地と奥院とは其間山谷を隔てゝ地脈大に異なり水氣通ふ様なし是亦一證とするに足れり
  諸書に皆毒水の説を傳ふるは全く風雅集の詞書を本據とすればなり 所謂其本亂れて末治らず 信用するに足らず
  因て秘記幷建長年中の御神託 貞觀寺僧正の圖記 眞然大德の奏聞 其外契沖阿闍梨 
  上田秋成の膽大小心録等の毒水にあらずといふ諸精説に基づきて長歌を詠ず云々
  九度山不動院觀尊師翁の志を繼ぎて此碑を建て 尚捃玉集を著はして其説を述べたり
  爾来復た毒説を含みし詩歌を詠ずるものなし
  

南海高野線高野山駅からバスで「奥の院前」下車、徒歩約20分。バス停横に参拝者用の中の橋駐車場(無料)がある。



大中臣弘泰歌碑(日本最古の歌碑)

大中臣弘泰歌碑(日本最古の歌碑)は、和歌山県高野山奥の院にある。
「正和元年板碑」とも呼ばれ、奥の院御廟橋の北側、参道から約20m東側にある。

「紀伊國金石文集成」によると、総高250cm、幅35cmで、正面には次のように記されている。
  (梵字)出天地間五十七年
      清風迊空十音一聲
      南無阿弥陀佛
  いにしへハ はなさくはるに むかひしに
   にしにくまなき 月於ミるかな
  右頌歌者正和元(年)四廿七午尅
  大中臣弘泰法師沙弥心浄
  臨終之刻誦之率畢
    正和元年壬子六月 日
    大施主比丘尼心恵 敬白

木下浩良氏によると、大中臣弘泰が正和元年(1312)に亡くなる前に、
「古へは 花咲く春に 向かいしに 西に隈なき 月をみるかな」 と辞世を詠み、
妻と思われる大施主比丘尼心恵が造立したという。
板碑左側面には、沙弥道恵の筆になる梵字光明真言と無量寿経の四十八誓願の十八願が刻まれている。

板碑右側面には、建立に至る経緯が記載されている。
川勝政太郎氏によると、鎌倉幕府に属した大中臣弘泰という武家が、生前から高野山を慕っており、
同僚武家の藤原朝広沙弥西蓮と僧教圓が、尼心恵の依頼で建立したという。

愛甲昇寛氏によると、この塔婆は、辞世の和歌を刻んだ本邦最古の金石文として、
また真言道場である高野山に密教の梵字と浄土教の偈文を並べて表した卒塔婆として貴重であるとしている。



昭和天皇御製歌碑

昭和天皇御製歌碑は、和歌山県高野山奥の院燈籠堂前庭にある。
昭和天皇皇后両陛下は、昭和52年(1977)4月18日19日に高野山を訪問した。
高さ2.76mの石碑には、次のように刻されている。
(前面)  御 製        侍従長 入江相政 謹書
 史(ふみ)爾(に)見る おくつきところを 越(を)可(か)みつつ
  杉大樹(おおき)並(な)むやま のほりゆく
(裏面)
  天皇 皇后両陛下には昭和五十二年四月十八日の両日高野山へ行幸遊ばされました
  その御砌特に御心を奥の院におとどめ遊ばされこの御製を賜りました
  文字は侍従長入江相政氏の謹書によるものであります
                  総本山 金剛峯寺

御製とは、天皇、皇族が作った詩文や和歌を指し、現在では特に天皇のものに限って用いられる。
「おくつきどころ」(奥津城所、奥都城所)とは、墓場、墓所をいう。
南海高野線高野山駅からバスで「奥の院前」下車、徒歩約20分。バス停横に参拝者用の中の橋駐車場(無料)がある。


(出典:天皇陛下皇后陛下高野山行幸啓記念 総本山金剛峯寺)

渡辺浩歌碑

渡辺浩歌碑は、和歌山県高野山大霊園にある。
石碑には、次の歌が刻されている。
  とむらへば 亡き子の墓も 雪積みて
   高野しづけき 季となりけり 
                     浩




(歌碑はありません)

谷崎潤一郎の歌

龍泉院

龍泉院は和歌山県高野山五の室谷にある真言宗の別格本山である。
本尊は藤原時代末期作の薬師如来(国指定重要文化財)で、西国薬師霊場第十番札所となっている。
開基は真慶律師で、承平年間(931-938)に開創されたと伝わる。
寺名は、かつて弘法大師空海が雨乞いの祈祷を行った「善女竜王の池」が側にあったことに由来している。
寺伝では、安和年間(968-970)に奈良興福寺の学僧仲算上人が再興し、寛喜年間(1229-1232)に小野流の頼賢によって興隆したといわれる。
毛利元就、佐々木高綱、楠正成といった武将が当院に帰依し、源氏や織田家との檀縁もあった。
以前隣接していた宝蔵院、西蓮院、泰雲院などを合併しており、泰雲院蔵の弘法大師作と伝わる木造竜猛菩薩立像は、「弘仁仏」と呼ばれ、国指定の重要文化財となっている。
宿坊として、檀信徒のみを受け入れている。

小滝圭三氏「高野ゆかりの文人たち」によると、谷崎潤一郎は37歳と46歳の時に高野山に滞在した。
昭和6年には、龍泉院の泰雲院で「盲目物語」を執筆したほか、次の歌を残している。
 南無大師遍照金
 剛おそろしや 
 高野の山のはる
 のいかつち
   潤一郎

 朝な夕なひゞきて
 六時の鐘のお
 とに添へてすゝ
 しき槙の下風
   於高野山
    潤一郎
 
南海高野線高野山駅からバスで高野警察前下車、徒歩3分。





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