高野山内の歌碑、句碑、詩碑 → 高野山句碑めぐり 奥の院句碑めぐり  和歌と俳句 高野山

和歌山県高野山内の歌碑、句碑、詩碑を案内します。
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田村木国句碑

田村木国句碑は、和歌山県高野山大門広場の南隅にある。
石碑には次のとおり刻されている。
(表面)
  山門を出でて秋日の谷深し  木国
(裏面)
  昭和三十二年七月廿一日 総本山金剛峯寺

高野山大門から西を眺めると、鳴子谷の先に葛城、和泉の山を一望することができる。
特に秋の夕刻には、太陽の沈む姿が美しく、多くの参詣客が静かに見入っている。

田村木国(もっこく)(1889-1964)は、本名を田村省三といい、全国高校春夏の野球大会(旧中等学校)創設の功労者として知られる。
明治22年1月1日に和歌山県かつらぎ町笠田中で、寺子屋を開いていた文次郎の長男として生まれた。
2歳の時、父の就職に伴い大阪に移り、北野中学から三高に進み、中途退学した。
明治43年(1910)大阪朝日新聞社に入社し、社会部で全国中等学校優勝野球大会を創案し、大正4年(1915)8月18日に豊中球場で第1回大会が開催された。
昭和8年(1933)に大阪毎日新聞社に移り、整理部長、学芸部顧問を歴任した。
中学時代から句作を始め、大正初期に行友李風らと洗堰吟社(せんえんぎんしゃ)を興し、河東碧梧桐の影響を受けた。
大正6年(1917)に高浜虚子に入門し、大正11年(1922)創刊の「山茶花(さざんか)」で活躍した。
昭和21年には同名の俳句誌 山茶花を創刊して主宰し、みずから「大阪俳壇のラッパ卒」と号して大衆句会の運営に努め、昭和39年(1964)に76歳で没した。
句集「秋郊」「大月夜」「山行」や随筆集「龍の髯(ひげ)」を刊行している。
毎年夏に開かれる高野山の俳句大会には、選者として37回参加したという。



与謝野鉄幹、晶子歌碑

与謝野鉄幹、晶子歌碑は、和歌山県高野山壇上伽藍三昧堂前にある。
御影石製の高さ85センチの碑上面に二人の自筆の和歌が刻まれ、側面に次のように刻されている。

板しきの冷たきにゐて朝きくは 金剛峯寺の山内の蝉  与謝野鉄幹

いにしへの三昧堂をくぐりきぬ 法の御山の星の明かりに  与謝野晶子

与謝野鉄幹 与謝野晶子 自筆歌碑

愛媛県王至森寺住職瀬川大秀僧正が平成二十二年五月二十一日、
真言宗御室派宗務総長 総本山仁和寺執行長に就任されました。
徳島県立江寺住職庄野光昭僧正が同時期に同職に就任していたことを奇縁として、
与謝野鉄幹 晶子の墨書を当山に寄贈下さいました。

高野山開創千二百年記念大法会の記念とし、歌碑を建立いたします。
平成二十四年十一月吉日
高野山開創千二百年記念大法会事務局
総裁 高野山真言宗管長 松長 有慶
総監 高野山真言宗宗務総長 庄野 光昭
高野山開創千二百年記念大法会 実行委員会
委員長 太融寺住職 麻生 弘道
副委員長 東光寺住職 松田 俊教

高野山麓橋本新聞によると、瀬川僧正が自坊の先代の遺品の中から鉄幹と晶子の色紙二枚を発見し、
若い頃から親交のある庄野僧正に寄贈したという。
高野山奥の院には、与謝野晶子歌碑が建てられている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門」行きで「霊宝館前」下車、勧学院西側の会堂坂を北に徒歩3分。霊宝館前の駐車場を利用できる。



大上春秋、行子歌碑

大上春秋、行子歌碑は、和歌山県高野山桜池院前にある。
さくら短歌会主宰 大上春秋(治明)と大上行子の和歌が刻されている。

しろき守宮 かへのすきより 匂ひ出つる 寂れしむらの 陣に馴れたり 春秋

海ふたつ こえてもゆかむ 来よといふ ひとのありせを ためらはよしを 行子

石碑裏面には、次のように刻されている。
南支派遣軍々歌
波濤萬里を□りて衝く
バイヤス湾に月しるく
時、神無月、十二日
奇襲上陸茲に成る
青史を飾るこの朝
勲は永遠に薫るかな
    昭和十三年十月二日
    第百四師団バイヤス
    湾奇襲上陸軍歌第一節
     大上春秋作

さくら短歌会主宰
  大上春秋 (治明)
   平成元年九月三日歿
櫻池院琳珉治達居士
  大上行子 (妻)

維時平成二年十月三日建之



阿波野青畝句碑

阿波野青畝(あわのせいほ)句碑は、和歌山県高野山の増福院山門前にある。
石碑には、次のように刻されている。
 (前面)牡丹百二百三百門一つ 青畝
 (裏面)昭和五十八年十一月廿日 総本山金剛峯寺 
                かつらぎ主宰 阿波野青畝

昭和25年(1950)5月に南海電鉄の企画で、島根県大根島の牡丹千株が高野山金剛峯寺境内(現在の幡龍庭)に植樹され、第1回牡丹句会が催された。
石碑の句は、翌年6月に高浜虚子を迎えて開催された第2回牡丹句会席上の作品で、句集「紅葉の賀」に収められている。
「百」「二百」「三百」「一つ」という数字の畳み掛けが、絶妙のリズムを生んでいる。
季語は「牡丹」(夏)である。歩くにつれて牡丹の数が増えていき、振り返ると入って来た門が一つという、写生俳句の達人、青畝の名句である。

阿波野青畝本人は、「俳句のよろこび」(平成3年刊)の『Ⅰ実作の周辺』で、この俳句について次のように記している。
(前略)では私の経験を思い出してみましょう。
 牡丹百二百三百門一つ
はじめに私は高野の金剛峯寺に参詣して内庭の広さが牡丹畑で埋まっている見事さに胸がおどりました。
牡丹が多いことを述べねばならんと覚悟しましたが、それをくだくだ説明しないように単純に単純にと頭を使いました。
そこで律動つまりリズムを「百二百三百」と増やしました。誠に無造作、それが嬉しかったのです。
締め括るために門一つと置きました。黒塗の門が区切られてあったからです。
牡丹の集団が実に華やかに浮き出たのもリズムが乗っているからです。(後略)

「俳句のよろこび」の「自解二十六句」には、次の記事も掲載されている。
  牡丹百二百三百門一つ
 今月の牡丹の句は、すべて高野の牡丹を詠んだのである。
 金剛峯寺の主催で五月二十四日、牡丹の見頃を期して俳句大会をやった。ご西下の虚子先生をはじめ数百名も四方から集まってきた。
 前日から高野に登ってきた私は、総本山のいかめしい玄関の式台から上り、左へ折れて狩野派の絵襖をながめて行った。
殺生関白とあだ名をつけられた豊臣秀次が福島正則(注 木食応其)にすすめられて自害したという柳の間の前を通って、それから長い渡廊をつたうて足をすすめると奥殿があった。
また廊づたいに別殿があった。
奥殿の縁側から広い牡丹園が展(ひら)けた。そして別殿はさながら牡丹園のまん中に坐したようだった。虚子先生のおやすみどころであった。
長谷や当麻より二十日ほど遅れた高野の牡丹は、ここに妍をきそうて咲き、清澄な環境にあるためか、遠方にある花も際立って浮き出していた。
「千株の金剛峯寺の牡丹かな」「千株の牡丹に百の巌かな」と虚子先生も詠まれたごとく、見はらしのひろいお庭を錦にして紅白入りみだれた盛観であった。
唐獅子の乱舞を古人は想念したことも、宜なるかなと思われる。→ ぶつだんやさんコラム
 夕ぐれになって、めずらしく荒い霧を見た。花の形を崩しはせぬかと気をもんだ。
あるときは大海の怒涛がしぶいてきたようでもあったし、あるときは優しく風塵を立ててあそんでいるようでもあった。
 人々は思い思いの牡丹の前に立ったりかがんだり、夢中に句を案じていた。
画学生ならスケッチブックをとり出して、一生懸命に観察し、克明に線描しているにちがいない。
私は私の心をスケッチブックとして写すのだと思ったのであった。
 私も往々視覚を変える必要があった。唐門の扉を排して私をいったん寺外に抛り出した。
ということはつまり牡丹園にいて牡丹を見ることに倦怠をおぼえてきたから、こんどは寺の外側からおそるおそる牡丹園をのぞきこんでみたいと考えて唐門をぬけて出たのであった。
長い塀は牡丹園を隠している、開いた唐門がわずかに牡丹園の一部を見せる。
私は門の敷居へ一足ずつ移動して、牡丹の花の群落が一目にとびこんで数をふやしてくるのを知って、感興を湧かしたのだった。
(「かつらぎ」昭和27年9月号)

その後、1985年に幡龍庭が整備されたため、現在は牡丹の庭は残っていない。

阿波野青畝(1899-1992)は、大正、昭和、平成時代の俳人である。
明治32年2月10日奈良県高取町に生まれた。本名は橋本敏雄で、後に阿波野家を継いだ。→ 俳人 阿波野青畝生家
畝傍中学在学中から原田浜人(ひんじん)に俳句を学んだ。
その後、高浜虚子に師事して、昭和初頭、水原秋桜子、山口誓子、高野素十とともに、ホトトギスの四Sと称された。
昭和4年(1929)俳誌「かつらぎ」を創刊して平成元年(1989)12月に森田峠に譲るまで主宰するなど、関西俳壇の重鎮として活躍した。
昭和48年(1973)第7回飯田蛇笏賞、平成4年(1992)日本詩歌文学賞を受賞している。
句集として、万両(1931),、国原(1942)、春の鳶(1952)、紅葉の賀(1962)、甲子園(1972)、不勝簪(ふしょうしん)(1980)などがある。
大阪市にある大阪カテドラル聖マリア大聖堂、滋賀県にある浮御堂に、阿波野青畝句碑がある。
平成4年(1992)12月22日に93歳で亡くなった。



鷹羽狩行句碑

鷹羽狩行句碑は、和歌山県高野山釈迦文院にある。
石碑には、次のように刻されている。
人界へ流れて高野山の星 狩行

鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)(1930-2024)は、昭和時代後期から平成時代の俳人である。本名は高橋行雄。
山形県出身で、山口誓子に師事した。
「天狼」「氷海」同人を経て、昭和53年(1978)に「狩」を創刊し、主宰した。
平成14年(2002)俳人協会会長となり、平成27年に長年にわたる俳人としての業績で芸術院賞を受賞した。

南海高野線高野山駅からバスで霊宝館前下車、徒歩5分。


趙樸初作漢俳碑

趙樸初作漢俳碑は、和歌山県高野山大師教会境内にある。

趙樸初(ちょうぼくしょ)(Zhao Puchu)(1907-2000)は、中国仏教の指導者で、詩人、書家としても知られる。
安徽省で生まれ、1930年代に上海で難民救済、浮浪児童救済に従事して、仏教者による社会福祉の分野で活躍した。
1952年以降、中国仏教協会の要職を歴任し、寺院の修復、国際交流事業に尽力したほか、「人間(じんかん)仏教」の理念を掲げ、仏教と現代社会の調和を図り、中国仏教の復興に尽くした。

弘法大師一千百五十年御遠忌に際し、中国仏教協会会長として、西安市恵果空海記念堂建立に尽瘁した功績を讃え、垣本剛一氏の寄進で、昭和59年1月30日に碑が建立された。
趙樸初自作の漢俳(中国流の俳句)が、碑面に刻されている。
山陰石楠氏の解説文に下記の読み下し文が載せられている。
   山ハ魏々タリ高野山
   金剛峯(コンゴウホウ)上 月輪(ガチリン)圓(マド)カニシテ
   霊気 人間(ジンカン)ニ満ツ
   西ニ長安(チョウアン)ヲ望メバ 海天ニ接ス
   當(マサ)ニ法(ノリ)ヲ求メシ年憶(オモ)ウベシ
   秘府(ヒフ)為メニ 門ヲ開キ
   豈ニ独リ 金胎(コンタイ)両部ヲ 承ケシノミナラズ
   文鏡自ラ 通明ス
   霧集リ 復(マタ)雲連ナリテ
   両邦世々弟兄ノ縁(エニシ)タラン
 弘法大師示寂一千一百五十年歳次甲子ノ春
     趙樸初 作頌並ビニ書



志太野坡句碑

志太野坡句碑は、和歌山県高野山大師教会にある。
大師教会境内の趙樸初作漢俳碑北側に建立された石碑には、次の句が刻されている。
   鶯や木末(こぬれ)は鴉(からす) 置きながら
志太野坡(しだやば)(1662-1740)は、江戸時代前期、中期の俳人である。
姓は志田、志多とも書き、別性は竹田。
越前(福井県)に生まれ、江戸の越後屋両替商につとめる。宝井其角、松尾芭蕉に学び、元禄7年(1694)小泉孤屋らと「炭俵」を編集した。
芭蕉の遺書を代筆した俳人で、蕉門十哲の一人に数えられる。
宝永元年(1704)大坂に移り、中国、九州地方に行脚して、西国に多くの門弟を擁した。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車、徒歩3分。東北側と南側に、「金剛峯寺前」と「金剛峯寺第2」の無料駐車場がある。




山陰石楠句碑

山陰石楠句碑は、和歌山県高野山大師教会境内にある。
石碑には、次のように刻されている。
(表面)
 敦盛は いまも十六 盆供養
(裏面)
 高野山21世紀第五回俳句大賞記念
  平成十七年十月十五日建之
→ 高野山奥の院 熊谷直実、平敦盛供養塔

山陰石楠(やまかげせきなん)(本名 智也)は、大正12年11月13日に生まれた。
元高野山金剛峯寺座主 関栄覚和上門下で、還俗して古美術商 山陰玉石堂を営んだ。
昭和15年(1940)ホトトギス同人 森白象に就き俳句を学び、
山茶花(田村木国)、青玄(日野草城)、天狼(山口誓子)、若葉(富安風生)等に参加した。
俳人雑誌「金剛」を主宰している。著書には、句集晩鐘、大咲心、山姫、魔尼、沙羅、大咲心Ⅱ、金剛、円月、太虚、石楠善句集がある。
他に、句文集俳句曼陀羅、空華、山史高野山、絵本高野山、玉石堂夜話などがある。→ 無量光院前 山陰石楠句碑 高野山内の歌碑句碑詩碑

句碑前には、「沙羅の木」がある。
沙羅は、釈迦の生涯に深く関わった三つの木(ムユウジュ、インドボダイジュ、サラノキ)である仏教三霊木の一つで、この木の下で釈迦は入滅したと言われる。
平家物語で「沙羅双樹の花の色」と記されるように、涅槃に入ろうとする釈迦の頭と脚の両方向に一本ずつあったとか、背中側と腹側に二本ずつあったとか様々な説から「沙羅双樹」といわれる。
ヒマラヤの山麓、渓谷に自生するが、日本では野外植栽はできない。
そのため、我が国では「和の沙羅双樹」として、ツバキ科の夏に白い花をつける落葉高木のナツツバキ(別名 シヤラノキ)が寺院の庭などに植えられており、6~7月に白い花を咲かせる。
また、高野山では、ナツツバキの仲間で、幹に茶褐色の光沢があって、すべすべしているので、「さるすべり」という方言名をもつヒメシヤラ、ヒコサンヒメシヤラも自生している。
(亀岡弘昭氏「はじめての霊場高野山の植物・動物入門」参照)
→ 高野山麓橋本新聞 「高野の花たち」(28) 釈迦入滅の聖木サラソウジュ




大師教会いかせいのち詩碑

大師教会いかせいのち詩碑は、和歌山県高野山大師教会東側にある。
石碑には、次のように刻されている。
  いかせいのち
このわらべ 心みなよき父よき母となる
ぶっぽうをかてに この山は大師にはじまる
もえるローソクはへるだけ まわりがあかるい
しごとはできただけ よのなかのためになる
みちはともいき どこでも生かせばごくらく
海魚なくなると 山木かれ 水産ませば 陸もます
紀のくにに 木へれば 山はげ とりとびさりて すつくらず
ひとまいらず おがまずば ほとけなくなる
まいれ おがめ いき いかせ ほとけ

 昭和三十七年八月高野山における第七回全国佛教保育大會を記念し
 生命尊重の保育のためにこれをつくる
     発願 日本仏教保育協會
     作者 東京 山本雅彦
     撰文 會長増上寺 椎尾弁匡


川上玉園句碑(金剛峯寺前道しるべ句碑)

川上玉園句碑(金剛峯寺前道しるべ句碑)は、和歌山県高野山金剛峯寺南東の南都銀行高野山支店前歩道上にある。
高さ約170cmの石碑に、次のように刻されている。
(南) 高野山のぼりて
     うれし花の笑み
        川上 玉園
(東) 右 ふだう阪 京大坂
    すぐがらん 大門ぐち
(北) 明治十七年三月吉日周旋方西京 神谷助右衛門 四條大宮
    菩提所 自性院            神谷重治郎  西院村信
                         山崎伊兵衛  上山田村
         他力成就      大阪 川上作治郎  大東弥
(西) すぐをくのいん




森白象句碑(普賢院)

森白象句碑(普賢院)は、和歌山県高野山にある。
石碑には、次のように刻されている。
いく度(たび)も時雨し月の庭に立つ
        白象

季語は、「時雨(しぐれ)」で、歳時記には次のような解説がある。
晴れたり、降ったり、断続して定めなく降る冬の雨をいう。冬の始めごろに多い。
秋も晩秋になると、夏の夕立のように強くなく、さっと降ってさっとあがる通り雨がある。
これが時雨の先ぶれであり秋時雨として区別している。
その冬はじめての時雨を初時雨(はつしぐれ)という。四季それぞれ違った降り方をする日本の雨のうちでも、時雨は特に詩歌になじみの深い雨である。

森白象(もりはくしょう)(寛紹)は、明治32年(1899)愛媛県に生まれ、明治43年に高野山普賢院に入寺している。
昭和47年(1972)高野山第473世寺務検校法印、昭和55年(1980)高野山真言宗管長・第406世金剛峯寺座主となった。
昭和2年(1927)に高浜虚子と出会い、ホトトギス同人となり生涯虚子を俳句の師とした。

森白象句碑(普賢院芭蕉堂前)

森白象句碑(普賢院芭蕉堂前)は、和歌山県高野山にある。
四国吉野川産青石の石碑には、次のように刻されている。
(表面)
平凡を倖せとして去年今年
           白象(はくしょう)
(裏面)
        識
 高野山真言宗管長 総本山金剛峯寺 第四百六世座主 森寛紹猊下は 愛媛県重信町ご出身である
幼名 健三 幼くして 高野山普賢院に入山 克己精進 遂に最高峰を極められる 猊下はまた 白象の名をもち ホトトギス派の俳人として名がある
 『平凡の中の非凡 非凡の中の平凡』
 句は日々生々のお心 高邁なお人柄にあふれ いつまでも清々しく 私たちに呼びかけ 感銘を誘ってやまない
 数あるご事蹟の中 管長 座主ご在任中 半世紀に一度の 高祖弘法大師御入定千百五十年御遠忌大法会奉修 の大任を成功裡に果たされた功績はとくに光芒を放つ
 第一回愛媛放送賞受賞をはじめ わが社の放送事業を通して かずかずのご高徳に預った縁の深さは有難い
 管長 座主ご成満にあたり 長くその徳を讃えんと ここに記念の句碑一基を建立する
   昭和六十年十一月十四日
     愛媛放送株式会社
       代表取締役社長 佐々木弘吉

森白象(もりはくしょう)(寛紹)は、明治32年(1899)愛媛県に生まれ、明治43年に高野山普賢院に入寺している。
昭和47年(1972)高野山第473世寺務検校法印、昭和55年(1980)高野山真言宗管長・第406世金剛峯寺座主となった。
昭和2年(1927)に高浜虚子と出会い、ホトトギス同人となり生涯虚子を俳句の師とした。
高野山奥の院英霊殿前には、森白象(寛紹)句碑がある。




森郁子句碑

森郁子句碑は、和歌山県高野山普賢院にある。
石碑には次のように刻されている。
 朴咲くと聞けば高野に帰りたく 郁子

山陰石楠氏「高野山の句碑・歌碑 第17回 森郁子」では、次のように紹介されている。
 高野山を中心に周辺の集落には朴の木が多い。むかし木地師がろくろを使って、朴の木で椀や木皿を刳り、寺院の用に供していたらしい。
初夏の頃、山中にしらじらと咲く大輪の白華はこよなく美しい。
 昭和四十九年、森郁子さんはかりそめの病を得、住み馴れた高野山を下って入院療養の日々を送るようになった。
ある日、高野山から見舞いに訪れた人が、
「もう朴の花が咲いています。お寺の裏山の朴も、女人堂の谷の方朴も、馥郁と香りながら白い花を天に向って捧げています。」
と問わず語りに話してくれた。
あゝ一日も早く高野に帰りたい、山中に楚々と咲く朴の花が見たい。あの香り高い朴の木の木陰に立ってみたい-そんな願いも空しく、郁子さんは再び高野に帰ることはなかった。
 森 郁子、普賢院先住森寛紹(俳号 白象)前官夫人。句碑は同院裏山中腹に建つ。
                  解説 山陰石楠

朴の木(ホオノキ)は、モクレン科の落葉高木で、5月~7月に径20cmに達する大きな淡黄白色花を開き、強い芳香を放つ。
日本の固有種で山野に普通に生え、南千島、北海道から九州の温帯~暖帯上部に分布している。
朴は、高級有用材で、柔らかく狂いが少ないため、家具調度品などに用いられるほか、漢方では鎮痛などの治療に使われる。


       (出典 平凡社 世界大百科事典)


黒田杏子句碑

黒田杏子句碑は、和歌山県高野山無量光院にある。
石碑には次のように刻されている。
(句碑)
涅槃図をあふるる月のひかりかな 杏子
(台石)
藍生俳句会

黒田杏子(ももこ)(1938-2023)は、俳人・エッセイストで、昭和13年医師の父斎藤光と俳人の母節の間に生まれた。
東京女子大に入学し、母の勧めにより俳句研究会「白塔社」で山口青邨の指導を受けた。
心理学科を卒業し博報堂に入社した。テレビ、ラジオ局プランナー、雑誌「広告」編集長などを経て、調査役として定年まで勤務した。
昭和45年(1970)山口青邨の「夏草」に再入門した。
青邨の卓越した選句力と「夏草」の古館曹人を盟主とする「木曜会」で句会や吟行を重ね、「季語の現場へ」身を運び、桜の名木を訪ねる「日本列島桜花巡礼」を57歳で満行している。
師の青邨没後、平成2年(1990)俳誌「藍生(あおい)」を創刊、主宰した。
当地の句碑は、平成19年(2007)6月に建立された。



山陰石楠句碑

山陰石楠句碑は、和歌山県高野山無量光院前にある。
令和6年(2024)に境内南側に移設された。
石碑には、次の句が刻されている。
紅梅や一山統ぶる緋の位
                 石楠

山陰石楠(やまかげせきなん)(本名 智也)は、大正12年11月13日に生まれた。
元高野山金剛峯寺座主 関栄覚和上門下で、還俗して古美術商 山陰玉石堂を営んだ。
昭和15年(1940)ホトトギス同人 森白象に就き俳句を学び、
山茶花(田村木国)、青玄(日野草城)、天狼(山口誓子)、若葉(富安風生)等に参加した。
俳人雑誌「金剛」を主宰している。著書には、句集晩鐘、大咲心、山姫、魔尼、沙羅、大咲心Ⅱ、金剛、円月、太虚、石楠善句集がある。
他に、句文集俳句曼陀羅、空華、山史高野山、絵本高野山、玉石堂夜話などがある。




池田兎余子句碑

池田兎余子句碑は、和歌山県高野山龍泉院にある。
石碑には、次のように刻されている。
来なれては
 高野も近し
  沙羅の花

山陰石楠氏の「高野山の句碑・歌碑 第23回 池田兎余子」には、次のように紹介されている。
雪が降ったと聞けば高野に登り、石楠花が咲いたと聞けば高野を訪ね、今年も沙羅双樹の花に会いたくてお山に来た。
「祇園精舎の鐘の声、沙羅双樹の花の色」と、平家物語にうたわれた無常の花・沙羅双樹。
この花は旦(あした)に咲いて夕(ゆうべ)に散るーといわれている。人の世のはかなさを象徴するような花のいのちである。
今日も小早く大阪を発ってお昼前にお山に着いた。いつの間にかかよい馴れた高野への道である。
池田兎余子(いけだとよし)。昭和二十七年大阪で緑野(りょくや)俳句会を興し俳句と俳画の指導に努めた。
昭和五十五年八月、緑野俳句会によって高野山龍泉院境内に句碑建立。同会松本淳斧(二代目主宰)筆。
              解説 山陰石楠(やまかげせきなん)

沙羅は、釈迦の生涯に深く関わった三つの木(ムユウジュ、インドボダイジュ、サラノキ)である仏教三霊木の一つで、この木の下で釈迦は入滅したと言われる。
平家物語で「沙羅双樹の花の色」と記されるように、涅槃に入ろうとする釈迦の頭と脚の両方向に一本ずつあったとか、背中側と腹側に二本ずつあったとか様々な説から「沙羅双樹」といわれる。
ヒマラヤの山麓、渓谷に自生するが、日本では野外植栽はできない。
そのため、我が国では「和の沙羅双樹」として、ツバキ科の夏に白い花をつける落葉高木のナツツバキ(別名 シヤラノキ)が寺院の庭などに植えられており、6~7月に白い花を咲かせる。
また、高野山では、ナツツバキの仲間で、幹に茶褐色の光沢があって、すべすべしているので、「さるすべり」という方言名をもつヒメシヤラ、ヒコサンヒメシヤラも自生している。
(亀岡弘昭氏「はじめての霊場高野山の植物・動物入門」参照)





光臺院御所桜句碑

光臺院御所桜句碑は、和歌山県高野山にある。
光臺院正門を入ってすぐの御所桜柵横にあり、高さ143cmの石碑には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
 古への由緒とはすも御所桜

本堂前には、五十嵐播水句碑がある。


五十嵐播水句碑

五十嵐播水句碑は、和歌山県高野山光臺院にある。
石碑には、次のように刻されている。
籠り僧ことりともせず蟻地獄
                  播水

籠り僧とは、①寺の本堂または籠堂にひきこもって、一定期間、水垢離、念仏、読経などの修行をする僧、②人の死後、中陰(四十九日)の間、葬屋にこもって読経など仏事を行う僧である。

五十嵐播水(いがらしばんすい)(1988-2000)は、兵庫県姫路市出身の俳人、内科医である。本名は久雄。
京都帝国大学医学部を卒業、神戸中央市民病院に勤務、内科医長、副院長を経て院長となった。
俳句は、大正9年(1920)高浜虚子に師事、ホトトギス同人。
昭和5年12月以降、俳誌「九年母(くねんぼ)」を主宰。
「播水句集」「石蕗の花」「老鶯」「一頁の俳話」「句作雑話」「句作春秋」などの著書がある。
人柄に根ざした温雅清澄の句風で知られる。→ 全国の歌碑・句碑めぐり


大野林火句碑

大野林火句碑は、和歌山県高野山南院(浪切不動)の境内にある。
石碑には、次のとおり刻されている。
(前面) この山の真如の月とひきがへる 林火
(後面) 大野林火先生古稀記念 1974.9.29 門下生
石碑前には、濱俳句会一同と記した石燈籠がある。

大野林火(1904-1982)(本名 大野正(まさし))は、横浜出身の俳人である。
大正10年(1921)に臼田亜浪(うすだあろう)の「石楠(しゃくなげ)」に参加した。
昭和21年(1946)には、「濱」を創刊し、主宰し、俳人協会会長も務めた。
「濱」同人で南院住職の内海有昭とその夫人が中心となり、年一度の句会が開かれた。
上記の句は、裏山を散策中に詠んだものという。
昭和49年(1974)に句碑が建立された後、昭和58年(1983)に林火の分骨が碑の下に納められた。
南海高野線高野山駅からバスで波切不動前下車、徒歩すぐ。




北尾鏡之助句碑

北尾鏡之助句碑は、和歌山県高野山高室院にある。
高室院の境内にある石碑には次のように刻されている。
夜桜の門あけてある御寺かな
            □山
昭和四拾八年三月二十一日建之
      北尾鏡之助
           七拾七歳


豊長みのる句碑

豊長みのる句碑は、和歌山県高野山金剛三昧院にある。
国宝に指定されている多宝塔の西側に、高さ167cmの石碑が建てられており、次のように刻されている。
(表面)
  千年の
   杉のこゑ棲む
        青高野
              みのる
(裏面)
 平成五年十月二十九日
  風樹俳句会 建之

豊長(とよなが)みのる(1931- )は、神戸生まれの俳人である。
山口草堂に師事し、昭和41年(1966)「南風」新人賞受賞、昭和61年(1986)「風樹(ふうじゅ)」を創刊、主宰し、日本詩歌句協会会長などを歴任。
句集「幻舟」、「方里」、「一会」、「即今」、「南濤抄」、「阿蘇大吟」、「北垂のうた」、「天籟」、「天啓」、「精華」などを刊行している。

高野六木(マツ、スギ、ヒノキ、モミ、ツガ、コウヤマキ)の一つとして杉が挙げられ、奥の院の大杉林が良く知られている。→ 奥の院大杉林と特別母樹林
また、金剛三昧院には、六本杉(別名毘張杉)と呼ばれる樹齢400年といわれる杉の大木がある。

当地の句碑は、風樹創刊15周年を記念して、風樹俳句会が建立した。
句碑除幕式祝辞で、高野山真言宗管長 竹内崇峰大僧正は、次のように述べている。
「御承知の如く、お大師さまによって開かれた高野山は、世界に誇り得る聖地であり、
人々の心の故郷であり、古より多くの文人に愛されたお山でもあります。(中略)
思うに、山河自然を愛する心こそ、文学に親しむ基であり、祈りの世界に生きることでもあります。
国宝の多宝塔、天然記念物の大石楠花でも名高い当院に、豊長みのる先生の句碑が完成しましたことは、
先生と風樹の皆さまばかりではなく、高野山を愛する者の悦びであり、
延いては高野山の俳句文学を後世に永く顕彰するものと確信いたします。(後略)」




傘桜(太閤桜) 豊臣秀吉の歌駒札

傘桜(太閤桜) 豊臣秀吉の歌駒札は、和歌山県高野山の清浄心院にある。
清浄心院の桜は、満開時の形が桜に似ていることから、「傘桜」と呼ばれており、別名「太閤桜」とも呼ばれる。
文禄3年(1594)豊臣秀吉が高野山で母の3回忌の法要を行ったときに、清浄心院で花見を催し、傘のように咲いている桜のことを歌に詠んだと伝えられている。
駒札には、次のように記されている。
  傘桜
 年を経て老木(おいき)も花や高野山
  秀吉公

なお、詠んだのは「才を経て老木の花や高野山」であるとの説も紹介されている。




宮下歌梯句碑

宮下歌梯句碑は、和歌山県高野山清浄心院前にある。
碑面には、次のように刻されている。
   紀の国の山は佛に明易き  歌梯



同期の桜供養塔 ああ同期の桜句碑

同期の桜供養塔は、和歌山県高野山奥の院の一の橋西側にある戦没者慰霊塔である。
海軍第十四期会が昭和42年(1967)に建立したもので、塔横の石碑に次のとおり刻されている。

     あゝ同期の桜
   海軍第十四期飛行専修予備学生戦没者慰霊塔

第二次世界大戦の戦局不利となり国家存亡の秋を迎え、大学・
高等専門学校の文科系に在学する学生全員が徴兵され、昭和十八年、陸海軍に入隊した。

このうち海軍航空隊(操縦、偵察、要務)へ配属されたのが第十四期飛行専修予備学生である。

彼らはたがいに「貴様と俺とは同期の桜」とうたい、「散る櫻、残る櫻も散る櫻」と
厳しい訓練に鍛えられる裡に、太平洋南西諸島各地で戦死・戦病死者四百余名が数えられ、
神風特別攻撃隊も百十余名に及んでいる。

同期生・藤田光幢前官(高野山大円院住職第四十三世)は、散華した同期生の供養を生涯の責務と念じ、
密かに毎日その精進を続けていた。それを知った同期生・同家族並びにご遺族から澎湃とした感動が
慰霊碑建立の呼び声を齎したのである。やがて戦後二十三回忌に当たる昭和四十二年八月立派な威容が現出した。
この塔は千手観音の慈悲と不動明王の怒りの炎を具現している。

「あゝ同期の櫻の塔」は若くして散華した同期生の鎮魂、日本の繁栄、
世界の真の平和を祈る、散った櫻の悲願である。

       海軍第十四期会
           菩提所 大円院

下段には、「散る櫻 残る櫻も 散る櫻」の句が刻されている。

人道歌碑

人道歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
歌碑前の石柱には、人道之碑 赤松院 と書かれている。
歌碑石碑には、次のように刻されている。
わがまこと 
いかなる人ぞ
さとすとも
む知にはまける
神や佛 □
彦造公翁
宮崎




永田青嵐句碑

永田青嵐句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院18町石南東の関東大震災霊牌堂(供養塔)前にある。
高さ約1mの句碑には、次のように刻されている。
(正面)
お遍路の祖師と     青嵐
 在るこゝろ
  尊とけれ
(裏面)
昭和壬辰三月
  法淘社有志建立
    和田性海記

青嵐は、永田秀次郎の俳号である。
山内潤三氏の「高野山詩歌句碑攷」によると、永田秀次郎は、はじめ自宅に椋の木があったので、「椋舎」という俳号であったが、
同郷の淡路島出身の蕉門服部嵐雪の「嵐」にちなみ、その句「青嵐定まる時や稲の色」からとって「青嵐」と号したという。


寛演歌碑

寛演歌碑は、和歌山県高野山奥の院の18町石南東にある。
関東大震災霊牌堂(供養塔)域内にある。

昭和5年(1930)に建立された歌碑南面には、次のように刻されている。
みほとけのりやくの程そ有難き
病気忘れし今日の嬉しさ 寛演

北面には、関東大震災発生後に高野山の僧侶が東京を訪問し永田秀次郎市長に被災者の収骨を告げたことなどが詳細に記されている。
下記の北面碑文全文は、山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」に載せられている。山内氏によると、寛演とは、文中の井上氏か、東京某氏か未詳。

大正癸亥関東地震也住持我高野山寺者相率訪都弔災又告永田
東京市長拾収災死者骨棺之而還葬諸奥院塋域将建石以表之
大阪井上君菊松聞之多捐資造寶篋印式石塔今茲昭和五年東京
某氏亦喜捨鉅財起錬造石龕旦簿録災死者姓名盛以水晶?凡五
石綿包之重擲以鉛與錬石以令不朽敗蔵龕嗚呼二君之義克成
我山侶慈濟之志而煢煢孤魂因以得往生密嚴浄刹哉茲録其功徳
以表干無窮云

 維時昭和五庚午歳十一月九日 総本山 金剛峯寺

寛演歌碑のすぐ横には、震災当時の東京市長永田秀次郎供養塔がある。
五輪塔地輪には、次の通り永田市長の法名が刻されている。
(梵字) 大觀院殿秀峯圓通青嵐大居士霊

永田秀次郎は、(1876-1943)は、大正、昭和時代の官僚、政治家である。
三重県知事、貴族院議員、東京市長、鉄道大臣、拓殖大学長などをつとめた。
俳人 高浜虚子と親しく、俳号は青嵐。昭和18年9月17日に68歳で死去した。


妣田圭子歌碑

妣田圭子歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院関東大震災霊牌堂(供養塔)の東、池内たけし句碑の西にある。
平成4年(1992)3月に建立されたもので、日本画「草絵」創始者 妣田圭子(梶本喜久代(1912-2011)の歌碑である。
   たちどまり見あぐる杉のたか
   かりきなほみあぐれば
   なほもたかかりき

草絵(くさえ)は、下絵を描かずに、切った和紙を台紙に貼り付けて創る日本画である。
妣田圭子は、1949年随心院で得度し、草絵を教えるとともに、1978年アトリエを山梨県牧丘町に構えて、1982年に定住し、豊原地区に私財を投じて芸術村を建設した。
このような活動が評価され、1990年サントリー地域文化賞を、2004年には文化庁長官表彰を受賞している。



池内たけし句碑

池内たけし句碑は、和歌山県高野山奥の院の関東大震災霊牌堂の東隣にある。
石碑には、次のように刻されている。
(前面) 朝寒や我も貧女の一燈を たけし
(後面) 昭和四十七年十月八日 別格本山普賢院

貧女の一燈は、奥の院燈籠堂にあり、消えずの燈明として知られている。
孝女のお照が、養親のために自らの黒髪を切り一燈を寄進したという。
池内洸(いけのうちたけし)(1889-1974)は愛媛県出身の俳人である。
高浜虚子の次兄池内信嘉の長男として生まれた。
能楽の振興に努めた家風の影響で、拓殖大学の前身である東洋協会専門学校を中退して宝生流の能楽師をめざしたが、師の宝生九郎の死で断念した。
大正2年(1913)頃から叔父の高浜虚子門下に入り、「ホトトギス」発行所につとめて指導を受けた。
昭和7年(1932)から「欅(けやき)」を創刊、主宰し、「たけし句集」「赤のまんま」などを発行している。
昭和49年(1974)に85歳で死去した。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩5分。



司馬遼太郎文学碑

司馬遼太郎文学碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
2016年の高野山開創千二百年記念に向け、平成20年(2008)9月に碑が建立された。
碑文は、司馬遼太郎の著作「高野山管見」(「歴史の舞台 文明のさまざま」)の冒頭部分が、次の通り刻されている。
 高野山は、いうまでもなく平安初期に空海がひらいた。
 山上は、ふしぎなほどに平坦である。
 そこに一個の都市でも展開しているかのように、堂塔、伽藍、子院などが棟をそびえさせ、ひさしを深くし、練塀をつらねている。
枝道に入ると、中世、別所とよばれて、非僧非俗のひとたちが集団で住んでいた幽邃な場所があり、寺よりもはるかに俗臭がすくない。
さらには林間に苔むした中世以来の墓地があり、もっとも奥まった場所である奥ノ院に、僧空海がいまも生けるひととして四時(しいじ)、勤仕されている。
 その大道の出発点には、唐代の都城の門もこうであったかと思えるような大門がそびえているのである。
 大門のむこうは、天である。山なみがひくくたたなずき、四季四時の虚空(そら)がひどく大きい。
大門からそのような虚空を眺めていると、この宗教都市がじつは現実のものではなく、空(くう)に架けた幻影ではないかとさえ思えてくる。
 まことに、高野山は日本国のさまざまな都鄙(とひ)のなかで、唯一ともいえる異域ではないか。

南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩5分。



道標・裏面秋双句碑

道標・裏面秋双句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
一の橋西にある司馬遼太郎文学碑の横にあり、「秋双句碑(道しるべ句碑)」と書かれた資料もある。
奥の院参道分岐点に建てられた三角柱の石碑で、次のように刻されている。
  左 さんけい道
  右 かへ里路
  (裏面) 風すずし ここ浄域の 第一歩 秋双

芦田秋双(秋窓)(1878-1966)は、正岡子規門下の俳人で、新俳画新俳諧の提唱者である。 



右田百女句碑

右田百女句碑は、和歌山県高野山奥の院の関東大震災霊牌堂東側にある。
句碑表面上段には、獣医学博士右田百太郎の像が刻され、下段に次の句が刻されている。
 うつくしく 物みな映れ 初鏡    百女

右田百太郎は福岡県出身の獣医学者で、妻の貞枝は高浜虚子に師事して右田百女と号した。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩5分。



かげろふ塚

かげろふ塚は、和歌山県高野山奥の院18町石と19町石の中間にある。
かげろふ塚(高さ2尺(60cm)横3尺5寸(106cm))は、作家中山義秀と澄女夫妻の逆修碑で、かつては親交のあった三宝院の草繋全弘の逆修碑と並んで建てられていた。
昭和44年に、高野山真言宗宗務総長であった草繋全弘が死去した時に、草繋全弘の逆修碑は、関東大震災霊牌堂の西側に新しく作られた墓に移されている。
かげらふ塚の石碑は、昭和39年(1964)に建立されたもので、中山義秀自筆の次の文が刻まれている。
  在りし日のかたみともなれ
           かげろふ塚
         なかやま
            義秀
            すみ
中山義秀(1900-1969)は、明治33年に生まれ、早稲田大学を卒業後、学校に勤務しながら作家活動を続け、昭和13年に「厚物咲」で芥川賞を受賞した。
昭和27年(1952)、52歳の時に一人で高野山を訪れ、三宝院に滞在して「高野詣」を執筆し、住職の草繋全弘と親交を深めたという。
中山夫妻没後に、先妻の娘が高野山に来て、義秀と澄女の遺骨を塚下に埋葬したという。



平山居士句碑

平山居士句碑は、和歌山県高野山奥の院19町石東にある。
高野山の句碑歌碑巡りの資料には、「多々良平山居士句碑」と書かれている。
高野山のしおり及び高野山名所図会には、「東備の人名は穆姓は多々羅 碑面に句あり」と記されている。
石碑西面には、「明ぼのや暫(しばらく)ながら雪の峰 平山居士」とあり、右下には鼎左書と刻されている。
石碑東面には、作者の多々良清幽について書かれている。碑文字を書いた鼎左は、鼎峰のことで、東面には鼎峰と記されている。
東面の最期には、「碑陰 杜多草帝閑那 識」と刻されている。
杜多草帝閑那は、幕末紀州の俳人で、那賀町史「幕末維新期の豪農文化人」によると、「古宅家第5代当主 古宅健次郎(1804-1887)」ではないかと記されている。


弘法大師お夢告の歌碑 野村晃円(尼)歌碑

弘法大師お夢告の歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
野村晃円(尼)歌碑、と記された資料もある。
奥の院旧19町石東側にある。

正面下段に次の歌が刻されている。
   弘法大師お夢告の歌  野村晃円
 いてつく日 やけつく日 またあらしの日
  辻の地蔵の 姿しのべよ

裏面下段には、次の銘板がある。
   大日界修道員一同建立
   建立委員長                草繋全弘
   発起人    大日界修道師 横浜市 野村晃圓
   副委員長   横浜市 田城寺     野村全宏
   制作者    和歌浦           角田蘇風


弘法大師お夢告碑前花いけ歌碑

弘法大師お夢告碑前花いけ歌碑は、和歌山県高野山奥の院旧19町石東側にある。
弘法大師お夢告碑の前にある左右2基の花いけ台石に次の通り刻されている。
(南側、向かって右)
艪の舵もみ親にまかす法の船
 愚痴も怒りもむさぼりもなく
(北側、向かって左)
蓮葉の虹のかけはし渡す道
 極楽浄土の弥陀のみもとへ

高野山奥の院 玉川歌碑

玉川歌碑は、和歌山県高野山奥の院二十町石の北側にある。
「舊玉川碑」、「慶長16年玉川板碑歌碑」とも呼ばれる。

現地の石碑(高さ193cm)の文字は一部しか判読できないが、
紀伊国金石文集成によると、次のように刻されている。
     慶長十六年八月十五日
  忘れてもくミや志ツらん旅人の高能ゝ於くの玉川能水  「能」は変体仮名
    紀州名草郡和可山住重郷為逆修

紀伊国名所図会には、次のように記されている。
〇玉川  左にあり。所謂六の玉川の一にして、毒水なりとぞ。纔(わづか)なる溝川なり。寛文(ママ)一六年碑を建てゝ、左の歌を刻す。
 風雅集
       高野の奥院へまゐる道に、玉川という川の水上に、毒蟲の多かりければ、
       此ながれをのむまじきよしをしめしおきてのちよみ侍る
   忘れてもくみやしつらむ旅人の高野(たかの)のおくの玉川の水  弘法大師
 十八景
                                           雲石堂寂本
   寒玉幽渓傍路邊、雲根繞出夕陽前。 聞名不汲旅人手。百世尚傳一首篇。

紀伊続風土記の記述によると、
玉川について弘法大師の歌があるけれども、なお人が誤って飲むことを恐れて、
慶長16年(1611)8月16日に和歌山の住人 重卿が逆修の石碑を建てて、弘法大師の歌を刻した。
高野山の宥快法印が、高野山十二景の題に「玉川秘水」としていたが、近世雲石堂寂本が高野山十八景を選ぶに際して、「玉川流水」としたという。

上記の「所謂六の玉川」とは、全国に玉川が六つあるとされているもので、山城国井出の玉川、近江国野路の玉川、摂津国三島の玉川、
武蔵国調布の玉川、陸奥国の野田の玉川、紀伊国高野の玉川を指す。

毒蟲あるいは「どく水」については、後世様々な解説がされている。

上田秋成は雨月物語巻之三「仏法僧」で、次のように記している。(現代語訳出典:日本古典文学全集)
 一人の武士が、更に法師に問いかけた。
「このお山は高徳の僧が開かれて、土石草木も霊の宿らぬものはないと聞いている。
しかるに、この地の玉川の流れには毒があって、水を飲む人が命を落とすゆえに、
弘法大師のお詠みになった歌として、
  わすれても---- (旅人はたとえ忘れてもこの水を汲んでよいであろうか、いやいけない。高野の奥山の水は)
というのがあると聞いている。
高僧であったにもかかわらず、なぜこの毒ある流れを涸らしてしまわれなかったのか。不審なことだが足下はどう考えておられるか。」
法師が微笑を浮べて答えるには、
「この歌は風雅集に収められています。その詞書に、
『高野山の奥の院へ参る道にある、玉川という川は、川上に毒虫が多いので、
この流れの水は飲んではならぬということを、諭し戒めて後に詠みました』
と説明してありますので、貴方のお考えになるとおりです。
けれども、今の貴方のお疑いが間違っていないことは、弘法大師は神通自在であって目に見えぬ精霊を使役して、
道なき所に道を開き、堅固な巌(いわお)を穿つのでも土を掘るよりたやすく、世に害を流す大蛇はこれを封じ込め、
怪鳥はこれを帰服させられたことは、天下の人々が仰ぎ尊ぶご功績であることを思い合わせると、この歌の詞書のほうこそ、どうも本当とは思えません。
もともとこの玉川という川は、諸方の国々にあって、いずれの玉川を詠んだ歌も、その流れの清らかさを讃えていることを思えば、
この地の玉川も毒のある流れではなく、歌の心意も、これほど名高い川のこの山にあるのを、参詣の人々はまるで忘れてしまって、
ただ流れの清らかさにうたれて、思わず手にすくって飲むであろうとお詠みになったものを、後の世の人の『毒がある』という誤った説によって、この詞書がこしらえられたと思われます。
更にまた深く疑いますと、この歌の調べは弘法大師の在世された平安朝初めの歌風ではありません。
おおよそわが国の古語で玉鬘、玉簾、珠衣の類は、すべて形の美しさ清らかさを賞める言葉ですから、清らかな水をいうのに、玉水、玉の井、玉川と美称(ほめ)るのであります。
毒のある流れにどうして『玉』という語を冠(かぶ)らせましょう。
仏法の狂信者で、和歌の意味などよくわからぬ人などが、こんな誤りをいくらでもしでかすものです。
貴方は歌人でもいらっしゃらないのに、この歌の意味を不審がられるとは深いたしなみがおありです。」
と、あつく賞め讃えた。

「高野のしほり」では、舊玉川碑として、次のような記述がある。
慶長十六年八月十五日和歌山住人重卿逆修善根の爲め建つるところなり、
わすれてもの歌を刻せり、もと此邊の左方より流れ出で路に沿うて行く小流を玉川といひて、毒水なりと傳へしを、
山口志道翁古来の謬傳を破砕して、御廟橋下の清流に確定せり。

「高野文学夜話」(下西忠、浜畑圭吾著)では、次のように記されている。
弘法大師は、その川の源には毒虫が多いので、飲まないようにと言っています。
玉川の美しい流れ(現在もきれいな川です)についつい気を許して一口、ということがあったのでしょう。
本当に毒虫が多かったのかどうかはわかりませんが、生水で体を壊さないよう配慮したのかもしれません。
はるばる高野山までお参りしてきた人々を気遣う、弘法大師の歌です。

奥の院御廟橋南西には、嘉永元年玉川碑歌碑がある。



塊亭碑(塊翁句碑)

塊亭碑(塊翁句碑)は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院20町石東の極楽塚歌碑西南方向にある。

紀伊國名所図会には、次のように記されている。
塊亭碑 (参道の)右にあり。碑陰に五橘亭風圭(きっていふうけい)の銘あり。
     霧となる香の薫や九百坊  塊翁

山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、「塊翁句碑」として紹介されている。
(正面)
    霧となる    塊翁
      香の薫や
         九百坊
(碑陰)
    塊華始發正風南薫
    塊乎不朽千歳遺墳
      紀藩五橘亭風圭誌
(左)
    文政十丁亥秋七月十四日爲
    十三回追福門人何某等建立

五橘亭風圭は、紀州藩士 吉田半左衛門のことで、俳諧に親しみ、文化11年(1814)に風悟松尾塊亭から二代を受け、天保2年(1831)11月に没した。

松尾塊亭(1732-1815)は、紀州藩士で俳人としても知られる。
文化12年(1815)に83歳で没し、文政10年(1827)塊亭13回忌の際に、当碑が建立された。
山内氏によると、紀伊國名所図会には、次の塊亭の作品が載せられている。
  あはれにも尊くもたゞ萬の霜        塊亭
  東むいて居るもあはれや女人堂      塊亭
  霧となる香の薫や九百坊           塊翁
  寂莫(じゃくまく)と苔に木の実の音もなし 塊亭



五大種歌碑

五大種歌碑は、和歌山県高野山奥の院20町石北東にある。
極楽塚の一の橋側対面の階段及び急坂を約20m登った先の台地にある。

同型同質の石碑が3基(中央は倒壊)並んでおり、山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」には、次のように紹介されている。
(西側 一の橋側)
 偶然の炎の枕の夢さめて         水風
                 牧野老鼡易貞 空
 柳はみとり花ハくれなゐ          地火
(東側 御廟側)
   施主生國遠州今紀州大納言様内牧野金彌
 (梵字)爲高月妙意禅定尼成成等正覺
  覚母為追善立之寛永十天十一月廿九日
(中央 台石の前に倒壊)
    元和七年辛酉五月廿五日
 咄徳翁了智庵主
    孝子牧野兵庫頭従五位下源生虎


極楽塚 藤田丁亥次歌碑

極楽塚 藤田丁亥次歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院20町石西側にある。
歌碑上部には次のように刻されている。
  極楽は あるべきものを 何人も
   忘れさらめや 誠つくして
     藤田 丁亥次 書
藤田丁亥次は、藤田榛洋自叙伝を1961年5月に出版している。
著者は、餅饅頭業を営み、「祝い砂糖」を考案したという。

案内石柱「極楽塚」の裏面には、次の句が刻されている。
  歳の暮れ 浮世は ものの 夢なれや 棒洋



富安風生句碑

富安風生(とみやすふうせい)句碑は、和歌山県高野山奥の院の多田満仲供養塔北側にある。
石碑には、次のように刻されている。
  一山の清浄即美秋の雨 風生
富安風生(1885-1979)は、大正、昭和期の俳人である。本名謙次。
愛知県出身で、一高、東京帝大卒業後、逓信省に入った。
大正7年(1918)福岡勤務の時に、吉岡禅寺洞(ぜんじどう)らと句作し、東京帰任後、高浜虚子に師事して、水原秋桜子らと東大俳句会をおこした。
昭和3年(1928)俳誌「若葉」を創刊主宰し、昭和12年(1937)に逓信次官で退任後は句作一途で、その句業によって昭和46年(1971)芸術院賞を受賞している。
昭和50年(1975)芸術院会員となり、水原秋桜子と共に俳壇の巨匠と呼ばれた。
「草の花」「松籟」「晩涼」「古稀春風」「喜寿以後」「齢愛(よわいいと)し」などの句集がある。
昭和54年2月22日に93歳で没した。
石碑は、昭和39年に建立された。



長尾村子歌碑

長尾村子歌碑は、和歌山県高野山奥の院の数取り地蔵南にある。
石碑各面には次のように刻されている。
(東面 参道側)
  ゆりかごに
 揺られたる日も
      遥かにて
吾息は高野の
 園に眠れり
   母 村子 詠
(北面)
平成六年四月吉日
奈良県吉野郡十津川村平谷
 母 長尾村子 建立
  細川恵泉 書
(南面)
長男 一弥
 昭和十八年十二月十三日 生
 昭和二十一年十一月三日 亡

袖彦句碑、袖彦歌碑

袖彦句碑、袖彦歌碑は、和歌山県高野山奥の院22町石南東(一の橋側参道北側)にある。
数取り地藏から御廟側に約10メートル進んだ参道沿いに位置している。
山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、句碑には次のように刻されている。
      萬歳樓
        袖彦
  聲やほとゝ
     きす
嬉しさの
  かさなる

歌碑は、一部の文字だけ判読可能であるが、上記山内氏の資料によると、次の歌が刻されている。
南にゝかも無遍や大師を願ふ身の
あしきとよきに遍照金剛
         茶呑齊袖彦

各石碑は、文政8年(1825)に、博多の豊後屋栄蔵(萬歳楼袖彦)が建立したものである。
豊後屋栄蔵は、福岡市東長寺の六角堂を寄進している。



明治天皇御製碑

明治天皇御製碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院22町石の北側にある。
東郷平八郎書により、明治37年の次の歌が刻されている。
  世と共に かたりつたへよ 国のため 命をすてし 人のいさをを

東郷平八郎(1847-1934)は、明治、大正時代の海軍軍人である。
慶応2年(1866)薩摩藩の海軍に入り、明治維新後の海軍においてイギリスに留学した。
明治36年(1903)に連合艦隊司令長官になり、日露戦争の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を破って名声を得た。


鶴亀淀八歌碑 鶴亀淀八句碑

鶴亀淀八歌碑、鶴亀淀八句碑は、和歌山県高野山奥の院22町石東にある。
円形石碑の前面には、次のように刻されている。
       春野書
   ふかき恵の
      露の
        なさけを
 碑の
   くちぬかきりは
     わすれめや
      鶴亀淀八 印

裏面には次のように刻されている。
     高垣幸次郎
           カヤ
 柴田清之助   正一
           ふく
 高垣子兵衛   まさ
           ツヤ
 高垣トミ     清三
           豊
 越田五一郎   操
     笠木雄太郎

台石前面には、鶴と亀甲の文様が刻まれ、裏面には、次のように刻されている。
  大正五丙辰年十一月建立

台石前の横長石碑(高さ59cm、幅76cm)には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
高野成
 淀に恵
  水の
 養老盃
      □



高田万二歌碑

高田万二歌碑は、和歌山県高野山奥の院23町石南にある。
阿波徳島蜂須賀家供養塔の北西に位置する。
墓石には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(東面)
             浮世へし
     高田万二   我おもかけは
(梵字)           さくら花
     妻 トラ   ちりてきえゆく
              身こそあはれ
(南面)
明治廿五年
 旧三月廿一日建立之
(西面)
善道信士 教善信女
明本信士 於シツ童女
(北面)
阿波國徳島
富田浦町大道

御詠歌歌碑

御詠歌歌碑は、和歌山県高野山奥の院23町石北東にある。
「堺堀越観音講 菩提所 本王院」と記した案内柱の奥に十一面観世音菩薩像が建てられ、台石に次のように刻されている。
(南面)参道側
十一面観世音菩薩
(東側面)御廟側
御詠歌
かりのよにしやくで
くるしむ人あらば
大慈大悲とたのめ
すくわん
(西側面)一の橋側
御真言
おんまかきやろにきや
そわか
(北面)
昭和卅三年四月吉日
堺堀越講御詠歌組


慈忍歌碑

慈忍歌碑は、和歌山県高野山奥の院23町石北東にある。
鳥取池田家供養塔の西側に隣接する五十嵐家墓所内に建立されている。
歌碑には次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
誠恵院釈慈忍位
わがためと
 思う心は
  あださくら
人にはつくせ
 己が誠を



松田萬吉歌碑

松田萬吉歌碑は、和歌山県高野山奥の院24町石西にある。
海軍整備課予備練習生記念之碑(予備練の碑)の西側で、「大阪港區 マツダ材木店之墓」の石碑がある。
松田萬吉累代之墓の墓域内にある歌碑には、次のように刻されている。
(表面)
たぐいなき
 大師まします
霊山に
 勿体なくも
わが身埋めて
   松萬
(裏面)
昭和三十七年七月吉日
 松田萬吉

海軍整備課予備練習生記念之碑

海軍整備課予備練習生記念之碑(予備練の碑)は、和歌山県高野山奥の院24町石西にある。
昭和14年入隊の第1期生から昭和19年の第6期生まで、海軍整備課予備練習生として招集された二千五百数十名の慰霊碑で、昭和57年7月に建立された。
参道横には、石碑が建てられ、「永遠なれと高野山に開く桜花 絆も固し予備練の碑に」と書かれている。



高橋世南句碑

高橋世南句碑は、和歌山県高野山奥の院24町石西南にある。
堀尾家供養塔 松江開府の祖 堀尾吉晴墓所及び海軍整備課予備練習生記念之碑と参道の間に位置している。
山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、次のように刻されている。
       世南
 はやあとになる
    たゝ今そ
      花盛
    素芯書

石碑裏面には、「世南句碑」と題して高橋世南に関する長文が刻されている。

詠久句碑

詠久句碑は、和歌山県高野山奥の院24町石西南にある。
堀尾家供養塔 松江開府の祖 堀尾吉晴墓所及び海軍整備課予備練習生記念之碑と参道の間に位置している。
参道側に隣接して、高橋世南句碑がある。

山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、次のように刻されている。
(北面)(山側)
落光の清さや
         詠久
杉の下涼
(西面)(一の橋側)
  感譽順光居士 在譽単洲居士
(家紋)一族友誼以日令入入佛道
  靜譽光舎信女 春譽妙雲信女
(南面)(参道側)
 東都飯倉片町
  吉田久四郎
(東面)(御廟側)
 嘉永六年癸丑年季夏建之
    宿坊 龍生院

俳句作者の詠久(吉田久四郎)について、「新撰俳諧年表:附・俳家人名録」の「ゑ え」の項に次のように記されている。
「詠久、吉田氏、稱久四郎、即事庵、龍空と號す、江戸人、嘉永年中」

弘法大師ごま石 おごま石句碑

弘法大師ごま石は、和歌山県高野山奥の院24町石西にある。
参道北側の壇上に「弘法大師御ごま石」と記した石柱が建てられている。
昭和12年(1937)発行の「高野山のしをり」には、次のように記されている。
●護摩石
 大師護摩を修し玉ひし跡とぞ
●護摩爐(ごまはら)
  同

北面と西面には次のように刻されており、山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」には「おごま石句碑」として掲載されている。
法の跡いく世
  ふりにし苔の花
明治卅六癸卯夏 常喜院内吉倉良信



高野山釈教長歌碑

高野山釈教長歌碑は、和歌山県高野山奥の院25町石西にある。
長州萩益田家供養塔近くの参道側に位置している。
山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、1.42mの高さの石碑には、次のように刻されている。
(東面)
高野山釋教長歌
しんしむの とものつミらは 無他にちる ゆきかともつる
夕しもハ 夜さむミおきつ いよしらけ 人も笠名は
かそしれん 参るなかたひ きよしあか ミなくうのミつ
なそしらて みやまのこしに いそけこの 友にたか野を
拝したし 岩をのかたに もとのこけ そいにしこのま
やミてらし そなつミのうく なミかあし よき日たかなる
今むれし そか花坂も とひけらし よい月を見ん
さ夜はもし ふゆるつミとか きゆる地に たんハらミつの
もとのむしむし
     右中山道熊谷驛
       七十有三翁 笑壽
(南面)
天保三壬辰十一月建立之
     宿坊 大樂院
(北面)
   道譽笑壽信士
爲  法譽妙壽信女
   華室蓮貞信女


伊藤氏墓、一捕・完来句碑

伊藤氏墓、一捕・完来句碑は、和歌山県高野山奥の院25町石南西にある。
石碑には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
(東面)
伊藤氏代々之墓
  往昔酉の秋月もて波のあしたの露
  父身まかれて既十三年の懐旧たゝ其
  俤を慕ひ此御山にいさゝか恩を報ふの
  しるしを残すことなり
在すかと夢に夢見て浮の秋  東都 一捕
空ミれは空まて峯の月ひとつ 雪中庵 完来
              右應需添一章書之
(台石)
江戸京橋
 上
 善
竹河岸
(南面)
時文化九壬申歳秋
父十三回忌為供養建之
    伊藤道之
(北面)
上總屋善右衛門
 同  善太郎
 七十六歳
  東都歸春書 印


中村徳蔵句碑

中村徳蔵句碑は、和歌山県高野山奥の院25町石の参道を挟んで向かい(北側)にある。
筑後久留米有馬家供養塔の西側(一の橋側)に位置する。
石碑には次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
(参道側)
 みほとけの       徳雪
  慈悲にそあらむ
   かん子鳥
(山側)
   東京本所区村町壹
  明治三十九年仲夏吉辰
      所縁坊
       大乗院主慈照


大蕪庵十湖句碑

大蕪庵十湖句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院中の橋の西にあり、南海電鉄創業者松本重太郎翁の墓の南東にある。
句碑には、次のように刻されている。
         十湖
 山の月こゝろも
  高う眺めけり
碑陰には、静岡県浜松市出身の俳人である松島十湖(大蕪庵十湖)の紹介が刻されている。



市川団十郎墓所

市川団十郎墓所は、和歌山県高野山奥の院中の橋西側にある。
「初代市川團十郎供養塔」と表示されている資料(「高野山奥の院の墓碑を訪ねて」)もある。
中央の板碑には、上部に梵字が刻まれ、その下に市川家の家紋「三升」と「供養先祖所」「子孫蕃育」の文字が刻まれている。
蕃育(ばんいく)とは、やしないそだてることを指す。板碑裏面の文字は判読が難しい。

市川団十郎供養句碑
半球形の台座には、供養塔建立の経過に関する次の文と句が刻まれている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
  寶暦三(1753)酉歳二月十九日
  父團十郎五十回忌の
  菩提二代目海老蔵建之
  文政十三(1830)寅二月十九日
  元祖團十郎百二十七廻
  忌相當同年四月十二日
  母十三回忌營追善
   再建七代目團十郎

   雉子啼や
     翁の仰せ
   有る通り        → 芭蕉句碑

左右には花筒があり、向かって右には「市川右團治」左には「市川團蔵」という文字が刻まれている。
市川団十郎は、歌舞伎俳優の名跡で、二代目以降の屋号は「成田屋」である。
元祖(初代)市川團十郎(1660-1704)は、元禄時代(1688-1704)の歌舞伎界を代表する俳優であった。
男伊達と呼ばれていた親分の子 堀越十郎として生まれたが、役者の道を進むことになり、本名の十郎の上に普段の段の字をつけて、段十郎としてデビューした。
その後、京都の名優 坂田藤十郎に認められ、藤十郎の助言で、段の字を團と変えた。
團十郎は、劇作も兼ねて、三升屋兵庫(みますやひょうご)の名前で狂言本を十数編書いている。
元禄17年2月19日に市村座の公演「わたまし十二段」で佐藤忠信を演じていた最中に、同僚役者の生島半六に舞台上で刺殺された。
東京都港区の青山霊園に埋葬されている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩5分。バス停西側に路側帯駐車枠がある。



芝居長久歌碑

芝居長久歌碑は、和歌山県高野山奥の院中の橋西側にある。
市川団十郎墓所前にある石燈籠の円筒形台石に次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
江戸
芝居長久
三櫓
爲三座太夫元先祖菩提
   八代目團十郎
          建之
起て夢寝てはまほろし
うつゝにも歌舞の臺に
遊ふみ成れは
     七代目 白猿


大教正五老井句碑

大教正五老井句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
坪田(五老井)梥雄の句碑で、中の橋東側、姿見の井戸前に建立されている。
坪田梥雄(つぼたまつお)は、森川許六を祖とする五老井八世で、正風俳諧継承者の一人である。
万延元年滋賀県に生まれ、無々庵とも号して全国各地をまわった。
山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、次のように刻されている。
(正面)
     大教正
      五左(老)井穿(梥)雄
 尊さや 蓮の
  かたちの
     法の山
(裏面)
  大正壬子仲秋
   正倫社有志建之


ありがたや歌碑

ありがたや歌碑は、和歌山県高野山奥の院中の橋東20mにある。
大正11年(1922)に東京市の増田新三郎夫妻が建立したもので、正面には万葉仮名で次の歌が刻されている。
  ありがたや 高野の山の岩陰に 大師はいまだおわします
真言宗の御詠歌では「ありがたや 高野の山の岩陰に 大師はいまだ おわしますなる」と読誦されることから、
宮川良彦氏は、「高野百佛」の中で、ありがたや歌碑について、次のように記している。
  歌詞は、慈鎮和尚の「拾玉集」に記載されたものの写しらしい。
  「仏前勤行次第」の歌詞も、この「拾玉集」よりとったようだが、拾玉集の原文にない「なる」は、真言宗が便宜上つけ加えたものではないかと思われる。
  「なる」の二字を付加することにより、空海への敬いをさらに深めた語気が受けとられるばかりではなく、詠歌のゴロあいもみごとなものとなった。



猪瀬恵以墓句碑

猪瀬恵以墓句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院中の橋の汗かき地蔵から参道を東に50m進んだ南側 西禅院墓所北西端に位置する。
墓石には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(東面)
猪瀬恵以之墓
(北面)
明治四十一年三月十一日死
(南面)
御墓に尊き山の落ち葉かな
 明治四十二年十一月 男 重次
(西面)
宿坊 西禅院

成田屋眼玉白猿歌碑

成田屋眼玉白猿歌碑は、和歌山県高野山奥の院27町石西にある。
奥の院中の橋を渡り、参道を約30m東に進んだ所で、階段を5段登った右側に位置している。
「成田屋眼玉」と書かれた台石の上の墓石(歌碑)には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(西面)
  文政八酉八月八日
   教岸教浄

   妙信妙智
  天保十一子七月晦日
(北面)(奥の院参道側)
        壽海老人白猿
人間の道をたつねてきたるはし
かうゝゝとおしへくたさる
(南面)
天保八酉四月廿三日
  正念浄念信士

上記の山内潤三氏の解説によると、壽海老人は「海老蔵」をもじった号で、白猿は七代目市川団十郎の俳号である。
歌の「はし」は、この墓碑のある中の橋を指すか、と解釈され、「弘法大師が人間の生きる道はこうこうだと教え下さる。」の意味だという。
この周辺の石塔類には、施主 市川団十郎とされるものや、江戸ゆかりの石塔がある。

五代五兵衛歌碑

五代五兵衛歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
中の橋から御廟に向かって参道を約50m登り、27町石向かいの階段を上った位置に歌碑がある。
階段の途中には、「大阪盲唖学校創設者 五代目 五代五兵衛之墓」と彫られた石柱がある。

五代五兵衛之墓に隣接して自然石の歌碑が建てられており、次のように刻されている。
(南面)
盲と唖の教えの道に
盡しても 勲高き
君仰くかも
(西面)
大阪市立盲學校長
従五位 宮島茂次郎 謹詠

五代五兵衛(1849-1913)は、明治時代の社会実業家である。17歳で失明するが、不動産事業などで成功を収め、明治33年私財を投じて大阪盲唖院を開校し、京都盲唖院の創立者 古川大四郎を院長に招いた。
明治40年校舎などを大阪市に寄付し、学院は市立大阪盲唖学校と改称された。
命日には、大阪の盲学校、聾学校関係者が墓参に訪れたという。
五代五兵衛は、パナソニックの創業者である松下幸之助が、少年期に6年間奉公生活を送った五代自転車商会の主人 五代音吉の兄にあたる。
また、大阪盲唖院には、五代の会計兼秘書として幸之助の父 正楠が職を得ていた。
渡邊祐介氏は、五代五兵衛と音吉が松下幸之助の「レファレント・パーソン」であったとしている。
当地墓所から約50m北東(御廟側)参道沿いには、パナソニックの供養塔がある。


八木家之墓歌碑群

八木家之墓歌碑群は、和歌山県高野山奥の院27町石北にある。
住友家墓所の一段下にあり、五代五兵衛歌碑の西北にある。
中央の墓石には次のように刻されている。
(正面)八木家累代之墓
(左面)雪山院釋義道 昭和三十年五月十七日
                俗名 義彦 行年 二十才
    大いなる慈悲のみむねにいだかれて
     霊安くあれ 法のみ山に
(裏面)昭和三十一年九月十七日
      大阪市大和田町
       八木 龍蔵
           操  建之
   
花筒、犬の像などにも次の歌が刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
幸うすく若く浄らに散りし霊に
 やさしく侍べれ乙女椿よ
父母の罪と厄とを若き背に
 身かわり逝きし吾子は孝の子
大学を半ばに逝きし吾子は浄土で
 弥陀の御弟子となりて学ばん
いざやポチ幸うすく逝きし
 汝が主の み霊を永久に守りてよかし
幾年の不孝を詫びて
 今日わしも亡き子のもとに父母むかふ



市川團藏家墓所

市川團藏家墓所は、和歌山県高野山奥の院28町石西にある。
株式会社クボタ墓所と石倉翆葉句碑の間に位置している。
明治35年に建立された墓石正面には、次のように刻されている。
 六代目市川團藏
             釋尼妙冠
(市川家家紋 三升)釋了教
       七代目  釋教西

市紅句碑 団猿句碑

墓所瑞垣内の花筒石には次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)

(市紅句碑)
 なく虫を我道連や秋の山 市紅

(団猿句碑)
 心にも白きは清し冬牡丹 団猿

六代目市川團藏(1800-1871)は、江戸時代の歌舞伎役者である。幼名照世、初名市川三蔵、前名初世市川茂々太郎、初世市川白蔵、二世市川久蔵。俳名三猿、団猿、市紅庵、松秀舎。
父は四代目市川團藏の門弟市川荒五郎である。嘉永5年(1852)8月五代目市川團藏亡きあと、同妻の養子となり、嘉永5年10月、六代目市川團藏を襲名した。
養子に七代目市川團藏がいる。
七代目市川團藏(1836-1911)は、江戸から明治時代の歌舞伎役者である。
天保7年、料理人の丸屋伊三郎の子として生まれ、天保10年(1839)二代目市川九蔵の養子となり市川銀蔵を名乗った。
明治時代に入り、不遇な時期もあったが、明治30年(1897)七代目市川團藏を襲名し、團十郎、菊五郎とならぶ名優と評された。



石倉翆葉句碑

石倉翆葉句碑は、和歌山県高野山奥の院28町石西にある。
約3mの高さの石碑に、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
       翆葉
 杉の奥佛龕の
   灯の時雨けり

石倉重継は、「高野山名所図会」を記している。



らしく詩碑

らしく詩碑は、和歌山県高野山奥の院28町石のすぐ北にある。
碑面には、次のように刻されている。
(南面)     大師誨諭表爲其高祖寂焉干
     らしく 百期一鳥有聲人有意報恩謝
         徳記功碑 松風軒天籟謹詠 印
(東面)   信州上伊那郡朝日村長三郎三男瀬戸清之助
(西面)  昭和八年十二月建之 菩提所 蓮花院
(台石)  長野縣 瀬戸清之助

空海の漢詩詩文集「遍照発揮性霊集」の中に、次の漢詩がある。
    後夜聞佛法僧鳥
  閑林獨坐草堂暁 三寶之聲聞一鳥
  一鳥有聲人有心 聲心雲水俱了了

日本古典文学大系の読み下し文は、次のように記されている。
   後夜に佛法僧の鳥を聞く
  閑林に獨り坐す草堂の暁 三寶の聲(みな)一鳥に聞こゆ
  一鳥聲(こえ)有り人心(ひとこころ)有り 聲心雲水俱(ともに)了了たり



母子像の歌碑

母子像の歌碑は、和歌山県高野山奥の院28町石の北にある。
らしく詩碑のすぐ北にある。
母子像下の台石には、次のように刻されている。
(南面)  くらやみを いでてまたゆく やみの旅
       頼む母ごの あかりは何処に
(西面)  先祖代々菩提の為
         先祖代々菩提の為
       南無阿弥陀佛
         南無阿弥陀佛
       有難う様でございます



慈眼堂 河野宗寛(大渕)老師 歌碑

慈眼堂 河野宗寛(大渕)老師 歌碑は、和歌山県高野山奥の院28町石東にある。
石碑には、次の歌が刻されている。
  親のなき子らを
         ともない
   荒海をわたり
  帰らんこの荒海を
     大渕杜多

河野宗寛(1901-1970)は、大分県出身の禅僧である。
昭和16年(1941)中国新京(現在の長春)の妙心寺別院布教総監として赴任した。
終戦の混乱期に、別院禅堂を戦災孤児に開放し、数多くの孤児を伴い帰国して、その後社会福祉に尽力した。
当地の歌碑は、昭和46年(1971)に慈眼堂歌碑建立委員会が建てたものである。



吉村長慶宇宙門辞世歌碑

吉村長慶宇宙門辞世歌碑は、和歌山県高野山奥の院30町石南にある。
奥の院参道の「中の橋」を渡り、坂を上ってから下る階段の西側 吉村長慶碑の群立する一角奥にある。

「宇宙門」と書かれた石造鳥居の北側に石碑があり、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌碑文攷」参照)
(南面)
宇宙大神霊
(東面)
吉村長慶
(北面)
      吾 先生姿 長慶
辞世 死は宇宙の神霊に帰するもの
    生まれるよりも永久に活るなり
       長慶
(西面)
自得於宇宙之大秘密
其年建立焉

喜野家終戦歌碑

喜野家終戦歌碑は、和歌山県高野山奥の院30町石北西の奥の院参道沿いにある。
歌碑(墓石)には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(東面)(参道側)
喜野家之墓
(北面)(御廟側)
生きかへり死にかへりつゝ
  日の本の
  御國守らむ大和男子は
   昭和二十年八月十五日
(南面)(一の橋側)
昭和二十六年十月
  喜野恵人建之
    菩提所 南院

芭蕉句碑

芭蕉句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
松尾芭蕉(1644-1694)が、記した俳諧紀行「笈(おい)の小文」の中で詠んだ次の俳句で、池大雅の字で刻まれている。

ばせを翁 父母のしきりにこひし雉子の声

芭蕉は、貞享4年(1687)江戸をたち、郷里伊賀上野、伊勢神宮、吉野を経て高野山に参詣した。
郷里伊賀上野では、貞享5年2月18日に亡き父の三十三回忌法要を済ませた。
父は芭蕉十三歳の時に、また母は芭蕉四十歳の時に他界している。
その後、和歌の浦、奈良、明石までの旅を「笈の小文」としてまとめ、宝永6年(1709)に出版された。
旅中の54句が納められており、高野山について次の2句が載せられている。

ちゝはゝのしきりに恋し雉の声
ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊(芭蕉門人の杜国)

また、「枇杷園随筆」所載の高野登山端書では、芭蕉は次のように記している。

高野のおくにのぼれば、霊場さかんにして、法の燈きゆる時なく、坊舎地をしめ、仏閣甍をならべ、
一印頓成の春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼にも腸を破るばかりにて、
御廟を心しづかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たたずみ)て、倩(つらつら)おもふやうあり。
此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、
此内にこそおもひこめつれと、袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝ涙をとゞめて、
父母のしきりに恋し雉の声

芭蕉は、雉の声に亡き父母への思慕の情をかきたてられ、この句を詠んだ。季語は雉で春である。
俳句歳時記の解説では、雉について、次のように書かれている。
     雉子 きぎす
  日本の国鳥として書画にも多く描かれている鳥である。雄は羽の色彩が華麗で長い横縞のある美しい尾を持つ。雑木林や原野を生息地とするが、排卵中の雌はあまり飛び立たない。
 留鳥であるが、いかにも哀れ深い声で鳴くので、古くから春のものとされている。早春の野焼きのころに、雉の巣も焼かれることが多い。
 野鳥に共通する本能のため、子を守ってともに命を落とすことから、「焼野のきぎす」として、親の情愛の深さに例えられている。

芭蕉句碑は、紀伊名所図会で、「芭蕉墓(づか)」と紹介され、碑の裏面には、次の碑陰銘が記されている。(高野山詩歌句碑攷)

      雉子塚の銘
ほろ々と。鳴くは山田の。雉子のこゑ。父にやあらむ。母にやと。
おもひしたへる。いにしへの。良辨のかの。ふるうたに。かよふ心の。十(とお)あまり。
なゝつの文字を。石に今。きざみてこゝに。たつかゆみ(弓)。紀の高野(たかの)なる。法の月。
雪にさらして。すゑの世も。朽ちぬためしを。この國に。この道したふ。沂風(そふう)てふ。
人のまことを。かきぞとどむる。右 東武 雪中菴蓼太
     安永四乙未年十月十二日

この俳句は、行基が高野山で詠んだと伝えられる次の歌を踏まえたものと言われている。
「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞおもふ 母かとぞおもふ」(玉葉和歌集)
良辨僧都は、「ほろほろと鳴は山田の雉子の聲 父にやあらん母にやあらむ」と詠んでいる。
撰文を記した雪中菴蓼太(大島蓼太)は、江戸時代中期の俳人で、天明期の俳諧中興に尽くした。

句碑の台石には、次のように刻されている。
  宿坊 
  金剛頂院

  南紀日高郡御坊邑
  鹽路沂風
     建之

この芭蕉句碑は安永四年(1775)に、紀州日高郡御坊村の塩路沂風によって建立された。
塩路沂風は、後に滋賀県義仲寺無名庵六世になった俳人である。芭蕉の墓は義仲寺(滋賀県大津市)にある。
山内潤三氏の高野山詩歌句碑攷によると、芭蕉を崇敬してやまぬ弱冠24歳の塩路沂風が、芭蕉の八十回忌にあたり、高野山にこの芭蕉句碑を建立したという。

高野山奥の院中の橋西にある市川団十郎供養句碑には、「雉子啼や 翁の仰せ 有る通り」と詠まれている。

那賀町史の別章二「幕末・維新期の豪農文化人」によると、松尾芭蕉は二度高野山に登ったと伝えられている。
上記の貞享4年(1687)は二度目で、一度目は伊賀上野で二歳年長の藤堂主計良忠(蝉吟)に仕えたとき、
寛文六年(1666)4月、23歳の時主を失い、6月にその位牌を高野山報徳院に納めるにあたり使者をつとめたと言われる。(俳諧大辞典)

南海高野線高野山駅からバスで、奥の院前下車、徒歩15分。→ 其角句碑 高野山内の句碑



九度山萱野家句碑

九度山萱野家句碑は、和歌山県高野山奥の院31町石南西の段丘にある。
芭蕉句碑の山側奥に位置しており、越後村上 堀家供養塔、下野壬生 三浦家供養塔の前を御廟側に約30m右手に進んだところにある。

五輪塔の地輪には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(南東面)
 明治四十年八月廿日寂
藥王院良景徳翁居士
香德院員操妙正大姉
 昭和十六年八月九日
 俗名 菅野イチノ 行年八十三才
(北東面)
本郡名倉村産
俗名 萱野良景
 行年 七十一歳
(北西面)
寂寞の
 中に聲あり
  呼子鳥
    耕雨
(南西面)
九度山村産
 俗名 萱野正
   行年 八十五才

霊宝館だより第82号の「明治期の高野山と女性 萱野イチノという人」によると、
萱野イチノ(1859-1941)は、女人禁制下の高野山で初めて「居住」した女性として知られている。



父母恩重碑

父母恩重碑は、和歌山県高野山奥の院31町石北西にある。
宗教法人修養団棒誠会(ほうせいかい)の教祖 出居清太郎(いでいせいたろう)が、昭和40年(1965)に建立した。
父母は天地、恩重は、万物の恩志であり、世界人類が一丸となって平和建設の礎とならんことを目標に建てられた。

父母恩重歌碑群

山内潤三氏は、「高野山詩歌句碑攷」において、当地石碑の和歌を歌碑群として紹介している。
台石上の高さ2.8mの石碑には、次のように刻されている。

 父恋し母なつかしといしふみを
  建てて昔を偲ふ今日かな
父母恩重碑
 父母の今もこの世にましまさは
  肩なとさすりまいらさんと思う
          妻 菊の詠


聖徳公子歌碑

聖徳公子歌碑は、和歌山県高野山奥の院32町石南西にある。
法然上人(圓光大師)供養塔と参道を挟んだ反対側で、参道奥には初代哥澤之歌碑がある。
二人の子供を抱いた地蔵像の台石に、次のように刻されている。

南無阿弥陀仏
やみよりやみえ(江)
   きえはてし
有縁無縁の
みどり子をあはれみ
 給ひて地蔵尊
大悲の御匈にいだきあげ
 なむあみだぶつの
功読にて永遠の浄土に
 住みあそぶ
     聖徳公子
昭和五十七年建之

聖徳公子は、弘龍庵創始者(宗祖) 中村公子のことと思われる。
奥の院34町石西には、弘龍庵御墓所がある。


初代哥澤之歌碑

初代哥澤之歌碑は、和歌山県高野山奥の院32町石南西にある。
法然上人(圓光大師)供養塔と参道を挟んだ反対側で、参道から約10m入った所に同型の石碑が2基建立されている。
北側(御廟側)の歌碑には次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
(西面)
    浅しとてきき流さめや哥澤の
     ふかきこゝろは知る人そしる
 初代哥澤芝三太夫之碑
    建立主 哥澤芝愛
(東面)
  昭和四年八月廿一日建
    菩提所 増福院
南側(一の橋側)の石碑には次のように刻されている。
  哥澤芝幹太夫
           之碑
  哥澤芝亀

うた沢は、邦楽の種目で、うた沢節の略である。安政4年(1857)江戸に起こった三味線小歌曲で、端唄に源を発する。
芝金(しばきん)、寅右衛門(とらえもん)という二つの家元があり、芝派が哥沢、寅派が歌沢と冠名を書くことから、総括した名称を、「うた沢」と表記することが、大正初期から行われている。

水谷三郎氏編著「二世哥沢芝勢以伝」の物故師匠略歴には、石碑に記された人物について、次のように紹介されている。
初代芝愛
名古屋にて三代目の教を受け後東京にうつり、大正元年二月四代目の名取になり、師匠になる。
後に初代芝三太夫と結婚し、糸の名手として大いに活躍す。後年味の素夫妻の一方ならぬお世話になり、昭和三〇年十一月十九日86才の高齢にてガンの為歿す。
芝幹太夫
芝美祢の取立にて大正六年四月十日名取となり、大阪寿司の主人芝亀と結婚して大阪にて師匠となり、関西睦会を作り、師弟を多く送り、芝亀の死後味の素夫妻の保護を受け、味の素鈴木会長宅にて胃ガンのため歿す。
二代目芝亀
明治三十八年四月十九日二代目芝亀として名取、柳橋に哥沢芸者として活躍、後芝幹太夫と結婚し大阪に行きて師匠となり、師弟も多く送り出し、糸の名手として名を残す。


小林佐兵衛翁歌碑

小林佐兵衛翁歌碑は、和歌山県高野山奥の院小林佐兵衛紀念碑南東にある。
碑文は判読しづらいが、山内潤三氏「高野山歌碑句碑攷」によると、次のように刻されている。
  住吉神社宮司正四位男爵津守國美 印
  いつまでもくちせぬものハ世に高く
     いさをこのしてたつるいしふみ

  御世の爲國の
    ためにとつくす身の
     誠そ人のかゝみなりける
            菅原朝臣従長
   明治四十四年十二月

津守國美(つもりくによし)(1829-1901)は、摂津出身で、住吉神社74代宮司、河内枚岡神社宮司、和泉大鳥神社宮司をつとめた。
近衛忠煕(このえただひろ)門下の歌学者として知られる。



筆塚歌碑

筆塚歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
法然上人(圓光大師)供養塔松平(結城)秀康及び同母霊屋との間に位置している。
筆塚碑の前に黒の石碑が建てられ、南面には、般若心経、北面には次の歌が刻されている。
宿願のわが筆塚をまほろばに
  高野の杉の青墨のいろ
            登美子  → 大林堂登美子歌碑



大林堂登美子歌碑

大林堂登美子歌碑は、和歌山県高野山奥の院32町石南西にある。
安芸浅野家供養塔(浅野長政ほか)の参道を挟んだ向かい側で、参道から約10m入ったところに位置している。
大林堂(だいりんどう)と書かれた黒板石の北面に次の歌が刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
身におよふうきことゝゝを
         かさね来て
  感謝に生くるのれん
             尊し
                登美子
  名古屋市中区南武平町一ノ八
  大林堂水野満年長女登美子建之
         日展会員 吉田桂秋書




山色天来仏山人歌碑  井村米太郎(真琴)墓歌碑

山色天来仏山人歌碑 (井村米太郎(真琴)墓歌碑) は、和歌山県高野山奥の院32町石南西にある。
奥之院参道から、法然上人(圓光大師)供養塔北を小林佐兵衛紀念碑に向かう脇参道の北側にある。
墓石(歌碑)には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(南面)
好徳院眞琴來佛居士霊
(東面)
山色連天
雪しろきひらをのこして大比叡も
 をひえも空の色に晴たり
            男 義丸記
(北面)
昭和五庚午年一月十一日入寂
 俗名 井村米太郎 行年 七十歳
    昭和六辛申年一月十一日
            男 義丸建之
(西面)
來佛山人墓銘
温其如玉古有斯語今見其人高野山霊宝館主事井村君是也而亡矣
哀哉君諱眞琴称稱米太郎號來佛寡黙彊記有操守多技能少壮通知漢
學最善和歌嘗詠宸題入選遠邇來學甚多居職山門四十餘年利害所
見筆告富塗未敢出諸口常慨名跡舊物之漸淪有著書續高野春秋之
志懸官嘱君考録人跡天物人目君以山門活歴史云所著數種行世昭
和五年一月十一日歿距生文久元年二月二十六日壽七十葬奥院塋
域嗣子義丸君持状嘱余銘  銘曰
 為可知而  不患不知  所謂哲人  措君其誰
     高野山學員 久保雅友撰  嗣子 義丸書


井村真琴氏は、高野山霊宝館主事で、「高野のしをり」を執筆している。

扇面句碑

扇面句碑は、和歌山県高野山奥の院32町石南にある。
安芸浅野家供養塔の北隣に位置している。

扇形石碑と台石には、次のように刻されている。
(参道側)
森田愛子は越前之國の人 その母よしと九頭竜河畔に住む
高濱虚子先生の小説「虹」に顕る
昭和二十二年四月一日歿す
母娘住み
 窓の外には
   浮寝鳥
    柏翆
(東側)
鎌倉の
 夢見て
  さめて
   雪篭り
    愛子
(台石)
昭和四十年五月
 越前之國
小森石材工業所調製

森田愛子(1917-1947)は、福井県坂井市三国町出身の俳人である。
高浜虚子の「虹」のヒロインとして登場する。
昭和14年(1939)鎌倉での療養時代に、高浜虚子門下の伊藤柏翆と出会い、俳句を始めた。
句集として、虹、愛子全句集、森田愛子全句集、森田愛子遺句集、森田愛子選句集がある。
森田愛子の墓所は、寿福寺(鎌倉)、月窓寺(三国)、性海寺(三国、森田家の菩提寺)にあり、
東尋坊荒磯遊歩道(虚子、愛子、柏翆句碑)、瀧谷寺、性海寺、当地奥の院に句碑が建立されている。

→ 高浜虚子 虹 小説集 師と弟子切ない交わり 三国(福井県坂井市)

其角句碑

其角句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
南向きの正面には、「鈴木里見累世(代)之霊 其角堂」と刻され、
東面と西面にはそれぞれ、
「卵塔の鳥居やげにも神無月       其角」
「灯火(ともしび)を浮世の花やおくの院 永機」
の二句が刻されている。
宝井其角(1661-1707)の「句兄弟」所収の句といわれている。
其角は江戸時代中期の俳人で、松尾芭蕉の高弟である。父は本多藩の医師で、のちに宝井氏を名のった。
14,15歳で芭蕉の門下となり、元禄7年(1694)上方の旅の際に、芭蕉他界の前日に大坂の病床に参じて、葬儀万端を済ませた。
豪放闊達な作品が多い半面、師芭蕉、父母、娘などの死に臨んでの作品も知られる。
芭蕉没後の作風は、洒落風と呼ばれ、後に江戸座の祖とされ、江戸文化に大きな影響を与えた。

毎日新聞2001年8月10日の「高野山俳句ウォーク&シンポジウム」には、次の記事がある。

高野山大学客員教授で、現代俳句協会会員の山陰石楠さん(77)=和歌山県高野町高野山766=は句作のかたわら高野山内の句碑の研究を続けている。
高野山出版社発行の信仰雑誌「聖愛」に1999年1月号から約2年間にわたり、句碑を紹介した。(中略)
2年間の「取材」で山陰さんは、芭蕉の門人の宝井其角のものとされていた句碑は別人によるものであることを「発見」した。
旧参道に建つ「卵塔の鳥居やげにも神無月」の句碑は「其角句碑」として立て札が設けられ、宝井其角とされていた。
しかし、山陰さんが句を調べてみると、其角から約180年後に江戸深川に住んだ江戸座其角堂六世の鈴木義親の作であることがわかったという。

鈴木義親(1777-1852(1849?))は、別名 穂積永機(1)、深川永機、六世其角堂鼠肝ともいわれる。
穂積永機(2)(1823-1904)は、幕末、明治時代の俳人として知られる。本名は善之。父 六世其角堂鼠肝 と、母 里見の間に生まれた。
石碑正面に刻された「鈴木里見」は、この母のことかと思われる。

石碑北面には、明治壬午(明治15年 1882年)卯月 里見田女 山本乕(虎)子 建之 と刻されている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩15分。→ 高野山奥の院芭蕉句碑



良寛詩歌碑「高野紀行」

良寛詩歌碑「高野紀行」は、和歌山県高野山奥の院にある。
良寛さまのゆかりの中で、碑面と読み下しが記されている。
碑面 
高野道中買衣(不)直銭
一瓶一鉢不辞遠
裙子褊衫破如春
又知蔞中無一物
総為風光謝此身

さみつ坂といふところに里の童の青竹の杖を切りて売りゐたりければ
  こがねもて いざ杖かはん さみつさか

読み下し
高野道中衣をかはんとして銭に直らず
一瓶一鉢と遠きを辞せず
裙子褊衫は破ぶれて春の如し
又た知る蔞中の一物なきを
総べて風光のために此の身を誤る
<注>2句目の「春」は「舂」の誤りとする説がある。

手前の脇碑には次のように刻されている。
良寛高野紀行の碑
 平成十年秋
  全国良寛会
  高野山遍照光院
  須磨寺正覚院
   制作 速水志朗
    碑稿 加藤僖一
(原本 糸魚川市歴史民俗資料館蔵)

「さみつ坂(作水坂)」は、高野参詣道京大坂道の一部で高野町西郷の作水にある。→  高野街道六地蔵 第五


高浜年尾句碑

高浜年尾句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
石碑は、御廟橋と豊臣家墓所の間にあり、堺中室院墓所の階段南側にある。
石碑前面には、「一水の緑陰に入るところかな 年尾」と刻されている。
裏面には、「昭和五十七年六月六日 総本山金剛峯寺」とある。
山陰石楠氏の解説によると、弘法大師が、奥の院の御廟橋南側のこのあたりを好まれて、ここに納涼房を建てて四時を過ごされたという。
高浜年尾(1900-1979)は、東京神田で高浜虚子の長男として生まれた。
小樽高商卒業後、旭シルク、和歌山製糸で勤務後、昭和10年ごろから俳句生活入り、ホトトギス関西地方代表として活躍した。
昭和13年(1938)「俳諧」を発行、昭和26年(1951)高浜虚子に替わり「ホトトギス」を主宰した。昭和54年(1979)10月26日逝去。



高田慎蔵夫妻供養塔(歌碑)

高田慎蔵夫妻供養塔(歌碑)は、和歌山県高野山奥の院にある。
豊臣家墓所の北隣平原地に高田慎蔵夫妻供養塔があり、台石上の五輪塔地輪部に次のように記されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(東面)
徳壽院殿心月浄照居士
徳光院殿心蓮浄覺大姉
(西面)
明治四十三年三月廿一日建之
 東京市本郷区湯島三組町五十八番地
         高田慎蔵
高野山浮世の雲を
  よそにして心しつかに
    月をなかめむ
        相川
(北面)
 勲三等 高田慎蔵
太陰暦 嘉永五年壬子二月二日生
太陽暦 一千八百五十二年二月二十一日
太陰暦 大正十年辛酉十一月月二十八日歿
 生干佐渡國雑太郎相川町天野雪翁次男
(南面)
 慎蔵妻 高田多美
太陰暦 嘉永六年癸丑九月十日生
太陽暦 一千八百五十三年十月十二日
太陰暦 昭和六年辛未九月廿三日歿
太陽暦 一千九百三十一年十一月二日
 生干武蔵國東京市本所區清水町
 池田倉蔵長女

高田慎蔵(1852-1921)は、明治、大正時代の実業家である。
嘉永5年天野孫太郎の次男として佐渡相川で生まれ、4歳で高田六郎の養子となった。
明治3年(1870)から東京でアーレンス商会、ついでベア商会に勤め、明治13年(1880)独立し、ヨーロッパ視察後の明治21年高田商会を設立し、機械輸入販売に従事した。
高野山宝物館設立発起人にもなっている。




稲畑汀子句碑

稲畑汀子句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院其角句碑と御供所を結ぶ参道の中間地点にある。
石碑には次のように刻されている。
(前面)  萬丈の杉の深さや五月闇  
                   汀子
(裏面)  平成十一年十一月七日
        総本山 金剛峯寺

五月闇は、夏の季語で、梅雨時のころの鬱蒼とした暗さをいう。
稲畑汀子(1931-2022)は、昭和後期から平成時代の俳人である。
高浜虚子の孫、高浜年尾の次女で、稲畑順三と結婚した。
父の高浜年尾没後、昭和54年(1979)から「ホトトギス」を主宰した。
花鳥諷詠をとなえた祖父の作風を引き継ぎ、昭和62年に日本伝統俳句協会を設立し、会長となった。
平成25年「ホトトギス」の主宰を長男 稲畑広太郎(廣太郎)に引き継いで名誉主宰となった。→ 高浜虚子句碑 高浜年尾句碑



慶長十八年歌碑

慶長十八年歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院32町石と水向け不動を結ぶ東側参道から約5m東に入った位置で、筑前黒田家供養塔(江龍院他)と和歌山県海外引揚物故者供養塔の北側にある。
高さ130cm幅26cmの細長い石碑で、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
高野山たのむこころのふかければ
あさき石井もくみはつくさし
慶長十八年七月廿八日
心月無庵
普請衆各逆修
楞屋宗嚴
石井三丞立之

徳栄講歌碑

徳栄講歌碑は、和歌山県高野山奥の院33町石北東にある。
台石185cm、高さ3mの石碑(大正2年建立)には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
(西面)
名古屋徳榮講々元 鈴木幸七碑
(東面)
(前半略)
法の為たつるいくさをもたか野山
その名はくちじ末の世迄に
  従七位 大口鯛二書
   名古屋 平松仁兵衛刻

高浜虚子句碑


高浜虚子句碑は、和歌山県高野山奥の院御供所南側にある。
「炎天の空美しや高野山」の句が刻されている。
裏面には、「昭和廿六年六月十日 金剛峯寺 第一回高野山俳句大会記念」とある。
昭和2年の句で、昭和26年6月の高野山俳句大会に際して、金剛峯寺境内に建立された。

高浜虚子(1874-1959)は、明治から昭和にかけての俳人、小説家である。
本名は清で、父は旧松山藩剣術指南役の池内信夫である。
松山市に生まれて、同級生の河東碧梧桐を介して正岡子規に師事した。
松山で創刊された「ホトトギス」を東京に移して、俳句と文章の発表を続け、1905年からは夏目漱石の「吾輩は猫である」をホトトギスに連載している。
高浜虚子は高野山を訪れた際に次の句を作っている。
「こなたへと法(のり)の高野の道おしへ」
「月の坂高野の僧に逢ふばかり」
昭和29年文化勲章を受章し、昭和34年(1959)に85歳で没する時に「人の世の今日は高野の牡丹見る」と詠んだという。



山本美枝句碑

山本美枝句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院御供所の南側に建立されている。
石碑には、次のように刻されている。
(表面)
生まるるも 死ぬるも一夢 天の川
   美枝作
(裏面)
故 山本美枝を偲び 故人作の句を刻み 追善菩提を祈らんが為
金剛峯寺の許しを得て ここに句碑を建立する。
  平成二十五年四月吉日
  願主 八尾市 山本勇一


村田順子辞世歌碑

村田順子辞世歌碑は、和歌山県高野山奥の院御供所前にある。
墓石には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
(南面)
(家紋)村田順子之墓
(西面)
辭世
あちきなき
 浮世をすてゝ
  極樂の
はちすをわけて
 母をまたはや

龍山院歌碑

龍山院歌碑は、和歌山県高野山奥の院御供所前にある。
奥の院参道から見ると、播磨竜野脇坂家供養塔の北隣に位置する。
「龍山總講中」と刻された台石の上の墓石(歌碑)には、次のように刻されている。
(東面) 家紋 龍山院翁譽大仙禅定門
(北面) 安永7戊戌載七月廿九日
      諸友とこめし契もあしきなく
       うつれはかわる天野むら雲
(東面) 龍山總講中
       先祖代々霊


与謝野晶子歌碑

与謝野晶子歌碑は、和歌山県高野山奥の院中の橋公園墓地の親鸞上人供養塔の東側にある。
前面には、みだれ髪(明治34年8月刊)所収の次の歌が刻されている。
  やは肌の あつき血潮にふれも見で 
   さびしからずや道を説く君
裏面には、「昭和二五年五月二九日建之 與謝野晶子顕彰会」と刻されている。
足立巻一氏によると、当地の歌碑は、実際は堺市と南海電鉄が建てたという。
その実務を担当したのは、堺市役所に勤務していた安西冬衛で、安西は高野山で「山上の僧窟に独鈷の如く私は孤愁の虜となっていた」に始まる詩「虎」を書いている。(「文学の旅 10」)

与謝野晶子(1878-1942)は、明治から昭和時代の歌人である。
堺市の出身で、旧姓は鳳、本名は志よう。明星に詩歌を発表し、大胆な官能の解放を歌い、奔放で情熱的な作風は浪漫主義運動に一時代を画した。
与謝野晶子は、「経は苦し春のゆふべを奥の院の二十五菩薩歌うけたまへ」、「春の雨高野の山におん児の得度の日かや鐘おほく鳴る」などの歌を作っている。
高野山壇上伽藍には、与謝野鉄幹晶子歌碑が建てられている。




上野家詩歌碑

上野家詩歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
与謝野晶子歌碑の北東に位置している。
上野家墓石の手前左側に石碑があり、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
白蓮の
 花咲き燃える
     霊山の
慈悲に 煌やく
  法界の廟

弘壇霊樹幾千丈
十萬墳塋香烟芳
蓮峯華台是法界
大師慈悲周遍照

  上野秀一 □
      自筆


母情歌碑

母情歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)の南にある。
歌碑には次のように刻されている。
   母 情
幼な期に
 雪どけと共に
   母は逝き
瞼の面影
 探すむなしさ
昭和六十一年五月吉祥日建之
和歌山市元寺町
高野町富貴   峯 寅次郎

親鸞報恩歌碑 見真大師墓句碑

親鸞報恩歌碑、見真大師墓句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)の前に、2基の石碑があり、手前の低い石碑が親鸞報恩歌碑、すぐ奥の高い石碑が見真大師墓句碑である。

親鸞報恩歌碑には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(東面) 報恩 仰へく祖師の御跡をしたひ来て
         御影に逢そ今日のうれしき
                      感中
         大正七年八月七日参拝
(西面) 伊勢松坂眞宗花山寺 沙門 感中
                       六拾九歳

見真大師墓句碑には、次のように刻されている。
(東面) 見真大師御墓 六條御殿御宿坊
                  西禅院
(南面) 法の縁くちぬ      名古屋市塩町
      ちかひや石の文       伊藤萬蔵
(北面) 明治三十八年六月 建之
(西面) 見真大師御自作    石工
        尊像 西禅院    □□泰次郎


親鸞聖人歌碑(見真大師参道歌碑)

親鸞聖人歌碑(見真大師参道歌碑)は、和歌山県高野山奥の院にある。
親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)への参道入り口の石階段横に石碑が建立されており、次のように刻されている。

(東面) 見真大師墓参道
(北面) 親鸞聖人 極楽に参らむことのうれしさに 身をは佛にまかせけるかな
(南面) 施主 長崎縣肥前國南松浦郡五島福江村 (氏名 略)
(西面) 見真大師古跡坊 西禅院



山口誓子句碑

山口誓子句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
句碑には、「夕焼けて西の十萬億土透く 誓子」と刻されており、
裏面には「昭和三十六年六月建之 金剛峰寺」とある。

「晩刻」に収録された句で、平田永朝氏の解説に次のように記されている。
 山口誓子は、「芭蕉の精神に復帰して、真の伝統の道を俳句に貫ぬく」ことを自らに課し、水原秋桜子と共に現代俳句の出発点を築いた。
俳句は、美しく荘厳な夕焼けに立てば、あたかも十万億土の彼方にあるという西方弥陀の浄土が透き通って望まれるかの様であるーと忘我の心境を詠ったものである。
 誓子は昭和十六年から同二十八年までの十二年間、三重県鈴鹿市富田の海岸で療養生活を送ったが、眼前に炎え拡がる大夕焼をわが身に引き較べてこの句を得た。

当初は、西側がひらけている奥の院英霊殿参道入口に建てられていたが、その後東側の中の橋駐車場御廟間の参道沿いに移設された。

「私の旅日記」の説明では、次のように記されている。
 西の天、真紅に夕焼け、一切空。遥かに遥かに十万億土が見える。透いてありありと見える。
 自分の句だが、高野山にはもってこいの句だ。
 建てるとすれば、(西側の展望が望める高野山)大門の前が最も然る可きであるが、
 そこにはすでに木国の句碑が立っているから、ずっと退いて(奥の院の)脇参道に西を向いて立つことになったのである。
 そこも西に展けている。
 はじめ白象師が建碑のことを云われ、句を求められたとき、私は
  高野より雲加わりて鰯雲
 という句を提出した。
 その句は、採用されなかった。「鰯雲」は「雲」ではあるが、「鰯」は魚扁の生臭い字であるという理由で。
 結局、私が昭和二十一年、伊勢で作った十万億土の句が採用された。
 私のこの句は、ゆかりの地のゆかりの句とは云えぬが、知らぬひとは欺かれる。

山口誓子(1901-1994)は、京都生まれの俳人で、本名は新比古(ちかひこ)といった。
京大三校俳句会に加入し、ついで東大俳句会で、水原秋桜子に兄事、高浜虚子に師事した。
水原秋桜子、阿波野青畝、高野素十とともに、「ホトトギスの4S」と称された。
戦後の俳句復興にも尽くし、昭和45年(1970)紫綬褒章を受章している。



楽書塚   花菱アチャコ句碑

楽書塚、花菱アチャコ句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
楽書塚と書かれた石碑が建てられており、その南の石碑に次のように刻されている。
     らくがきは即ち良久加幾で好いこと
     長く更に活力を増すものまた落我鬼で
     あるから自分の胸より怪しからぬ思いを
     去ってしまうもの   清川虹子
お願い 楽しく落がきの出来る場所を作りました
     大切な場所にむやみに落がきをしないで下さい
     昭和四十三年十月 柳家金吾楼    

花菱アチャコ句碑上部の扇形の石碑に次の句が刻まれている。
  笑われて浮世をおくる顔にで来
花菱アチャコ(1897-1974)は、大正、昭和時代の漫才師、俳優である。
明治30年2月14日、福井県に生まれた。本名は藤木徳郎。
喜劇の鬼笑会から漫才に転向し、のちに吉本興業に入った。
昭和5年横山エンタツとコンビを組み「早慶戦」などのしゃべくり漫才を得意とした。
その後、コンビを解消し、昭和10年にアチャコ劇団を結成し、戦後は喜劇俳優として活躍した。



大石順教尼腕塚歌碑

大石順教尼腕塚歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
大石順教尼之墓(腕塚)の慈手観世音菩薩像の西側に建立されている。
昭和27年(1952)に建立されたもので、北面には、次の歌が刻されている。
  尚ちからせむ
   すべも
  なきみには
      ただ
  南無佛と
    とう人の
    みこそ
       順教

南面には、大石順教尼について紹介する金山穆韶大僧正の漢文が刻されている。



森白象(寛紹)句碑

森白象(寛紹)句碑は、和歌山県高野山奥の院英霊殿前平和橋東詰めにある。
石碑には、次のように刻されている。
(前面) 涼しさや奥の院まで坂もなく
(裏面) 高野山真言宗管長 第四百六世金剛峯寺座主
      大僧正 森寛紹 和尚 白象と号す
      弘法大師御入定壱千百五十御遠忌奉修記念建之
         昭和五十九年五月二十日

森白象(もりはくしょう)は、明治32年(1899)愛媛県に生まれ、明治43年に高野山普賢院に入寺している。
昭和47年(1972)高野山第473世寺務検校法印、昭和55年(1980)高野山真言宗管長・第406世金剛峯寺座主となった。
昭和2年(1927)に高浜虚子と出会い、ホトトギス同人となり生涯虚子を俳句の師とした。



土生川正道書 本居宣長歌碑

土生川正道書 本居宣長歌碑は、和歌山県高野山奥の院英霊殿前にある。
石碑には、次のように刻されている。
敷島の大和心を人とはゞ 朝日ににほふ山桜花
     土生川 正道 書

この和歌は、江戸時代の国学者 本居宣長(1730-1801)が61歳の時に自画像の簪として書いたものである。
土生川正道(はぶかわしょうどう)は、高野山無量光院住職で平成19年に高野山第五百八世寺務検校執行法印を務めた。→ 高野山の歌碑

上記和歌は、新宮を舞台にした辻原登氏の小説「許されざる者(上)」第六篇でも、次のようにとりあげられている。
  夫人が、水量を湛えたダムの中から、さわやかな風のそよぐような声を汲み上げた。
  「しきしまの やまとごころを人とはば、朝日にひほふ山櫻ばな」
  と口にして、恥ずかしげに付け加えた。
  「亡くなった父は、この歌が好きでした。」
  「本居宣長ですね。朝日ににほふ、としたところがいい。この場合、にほふというのは、輝き映じる、という意味なんでしょうな。」
  了円がいって、別の歌を引いた。
  「明日ありと 思ふこころのあだ櫻 夜半に嵐のふかぬものかは」
  それは? という表情を槇と夫人が了円に向けると、
  「親鸞聖人の御作と伝えられております」 → 和歌出典資料


昭和殉難者法務死慰霊碑

昭和殉難者法務死慰霊碑は、和歌山県高野山奥の院英霊殿の南にある。
第二次世界大戦終結後の戦争裁判によって刑死した1068柱を昭和殉難者として慰霊するため建立された。
2基の遺詠の碑が建てられている。

  山下奏文大将遺詠
待てしばしいさを残して散りし友あとな慕いて我も逝きなん
野山わけ集むる兵士十余万かへりてなれよ國の柱と
               築野 政次 書

上峠幸之助主計中尉遺詠
 軽き身に重き罪を負はされて吾は散り逝く紀伊の防人
               添田 隆昭 書

 


白猫句碑

白猫句碑は、和歌山県高野山奥の院英霊殿前平和橋西北の玉川沿いにある。
石碑には、次のように刻されている。
 消えてくる程
遠からず
  春の鐘
     白猫
     □□葉筆


一福句碑

一福句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
阪神淡路大震災物故者慰霊碑東側の吉田家之墓 墓石前燈籠石塔軸石に次の句が刻されている。
(南側、向かって左)
焼け失せし 過去帳の魂 まつりけり 一福
(北側、向かって右)
祖師の邊に 集い在して あたたかく 一福

山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」には、「一福」は、当地墓碑の吉田卯之吉氏の俳号ではないかと記されている。


アンボン島戦士之詩碑

アンボン島戦士之詩碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
阪神淡路大震災物故者慰霊碑前の参道を玉川橋に向かって北へ約50m進んだ所に位置する。

石碑には、次のように刻されている。
アンボン島海軍特別陸戦隊戦士之碑
昭和四十年八月 終戦二十周年記念 戦友有志建之

台石前に次の詩板がある。
呉海軍特別陸戦隊
共に征き、共に戦い
遠く南十字星輝く
アンボンの島に
懐しき故郷を恋いつつ
歓びと哀しみを分ち
幾歳月、忘れ得ぬ、
その過去、この人達
帰らぬ人、帰りし者
今、幽明を隔つとも
若き日の面影を思えば
懐旧の情、日々に新た
なり
幸いに志を寄せ善意を
集め、この聖浄の地に
碑を建て戦友再び名を
連ね、肩を抱き合って
生命の限りに燃えし
友情を温む、
心の憩いの地として我等
遥に歩み来し、悲しき
長き戦の沈黙の歴史と
その追憶を此処に埋め
自然の慈うけて
翠巒と共に土に還る
戦友よ、異国の友よ
永遠に平和の、祈りの
中に安らかにあれ

 題字 大野久夫


中野広三郎歌碑

中野広三郎歌碑は、和歌山県高野山奥の院公園墓地にある。
東日本大震災供養塔前を直進して、100mほど進んだ東側で大阪瓦斯供養塔の奥にある。
歌碑には次のように刻されている。
(西面)
昭和三十七年四月七日
中野廣三郎霊にさゝぐ
   修養団捧誠会総裁 出居清太郎
 みおしえの徳をかしこみ
       常日頃
    迷いもせずに
  徳を積みしか
中野廣三郎碑
   別れ行く
  君の姿ハ
    見えねとも
  徳の光は
   いつの
    世まても
            清堂亀井安之助書
(東面)
墓所は
大阪市東住吉区瓜破霊園にあり
 昭和四十一年八月十日
   廣三郎 妻 小光
        孫 正廣  建之
 堺市(以下略)

生駒家歌碑

生駒家歌碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院御廟橋西の坂を登り、自然社 金田徳光供養塔の南に位置する。
墓域中央には生駒家宝篋印塔があり、右側の横長石碑に下記のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
生駒明文先生のお歌
思ひたつ心のまゝに
  はつことは
神の扶けの
  あるものと
     知れ
   沙門公雄書

杉苗五千本歌碑

杉苗五千本歌碑は、和歌山県高野山奥の院御廟橋の南にある。
石碑(総高197cm)には、次のように刻されている。
(東面)爲子孫     下總國相馬郡小文間村
     杉苗五千本   施主 井上 濱吉
              法壽院殿信海明雲居士 宿施 金藏院
(北面) 子をおもふ親ほとおやを思ふ子は人の道行人と云へし
(南面) 明治四十一年五月廿一日 自建之
      


蕪村玉川句碑

蕪村玉川句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
高野山奥の院の蕪村句碑は、玉川に架かる御廟橋南詰西約10mのところに建立されている。
嘉永元年玉川碑歌碑の手前にあり、紀州有田川産の砂岩製石碑には、次のように刻されている。

 蕪村翁
  玉川に高野の花や流れ去る
 (台石) 金剛峯寺 平成十五年十一月建立

蕪村(1716-1783)は、江戸時代中期の俳人、文人、画家である。
姓は谷口、のち与謝(よさ)と改めた。俳号は宰町、落日庵、紫狐庵、夜半亭など、画号も四明、朝滄(ちょうそう)、長庚、春星など数多い。
享保元年(1716)摂津国東成郡(ひがしなりごおり)毛馬村(現大阪市都島区)で生まれた。→ 蕪村生誕地・句碑
17、8歳の時に毛馬を出て江戸に下り、夜半亭宋阿(早野巴人(はじん))に俳諧を学んだ後、俳諧と絵画の両面で才能を発揮した。
松尾芭蕉、小林一茶とともに江戸の三大俳人として知られ、「なの花や月は東に日は西に」「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」などの俳句がある。→ 蕪村公園
天明2年(1782)3月、蕪村は吉野の花を見てのち高野山に登り、上記の「玉川に」の句を詠んだ。
そのあと九度山の真田庵を訪ね、「かくれ住んで花に真田が謡かな」の句を残している。
天明3年(1783)に「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」の辞世を残し、京都で没した。(享年68歳)
墓所は、芭蕉庵のある京都市左京区の金福寺(こんぷくじ)にある。→ 与謝蕪村の墓


嘉永元年玉川碑歌碑

嘉永元年玉川碑歌碑は、和歌山県高野山奥の院御廟橋南西側にある。
弘法大師の 玉川の歌に関する石碑で、奥の院には「玉川歌碑」(舊玉川碑)と呼ばれるものが、二十町石北側にもある。
現地の石碑(高さ180cm)文字の判読は困難であるが、明治37年(1904)刊行の「高野山名所圖會」には、次のように記されている。

  玉川並に其碑
御廟橋下を流るゝ清泉にして、その源(みなもと)三山より出て御廟の後方より西邊(せいへん)を繞(めぐ)りて此處に来る、
是より南姑射(こや)の麓を過ぎ、東流と相合して遂に大瀧に落つ、此河上に「流灌頂」とて先亡追資の功徳を爲すことあり(口絵参照)
此の川即ち本朝六玉川の一にして南岸に玉川の碑あり、左の如し。

  わすれても汲みやしつらん旅人の高野(たかの)のおくの玉川のみづ (弘法大師の御歌也)

      長歌幷短歌         安房國 七六歳 山口志道

  雲霧のはれにし時ゆ高野山 はちすの嶺の白露のしたゞりつたふ玉川の其ふる歌をいつの頃
  誰が衣手のぬれそめて なき名ながるる世となりぬ そこし思はゞ高しるや 天の御蔭天知や
  日の御蔭よはひの末に旅人も いく代ぞ汲ぬその水を くみて我しる白眞弓 今より後はわすれても
  なき名ながすなこの玉川に

    もろ共にくみてこそしれ高野山 蓮のみねのつゆたまみづ

   天保十一庚子歳(1840)八月十五日      前權大納言藤原公説篆額 (歌の上に玉川碑三字の篆書あり)
 
 碑陰 (略)

 蓮の峰露(みねつゆ)のたまがはみなかみは世にありがたきこけのほら哉
   維嘉永元丙申(1848)仲夏念八日                               清堂觀尊誌
 たかの山わかのぼりつるもろ人の むすぶもきよき玉がはの水            皇都 上野志廣

而して此玉川の水を古昔毒水と言ひ傳へたりしを、かの山口志道翁 後人のひがことなりと舊説を駁撃せしの美事、
井村真琴氏編の「高野のしをり」に懇切に傳へたり、左の如し。

  抑々玉川はもと一の橋より二町計り奥なる路傍の小流を玉川とし 千手院谷の秘井をその水源として
  毒水なりと言ひ傳へり 其説全く風雅集のかの歌の前書に基づきし也
  然るを山口志道翁 かの前書を後人の偽作なりとして毒水の舊説を駁撃し此清流を眞の玉川なりと断定せり
  其卓見千載の迷夢を覺破せしは壮快といふべし 
  今其論旨を摘みていへばかの前書の高野の奥の院へ参る道に玉川と云河の水上に毒虫の多かりければ
  此流のむまじき由をしめしおきてとある詞と歌の意味と大に相違せり
  讀人は参詣する人に高野へ登られしならば山は宇内無双の霊山にして其の山の谷々より湧く泉の清浄なるを
  汲玉へ是則眞言秘奥の灌頂等に用うる閼伽などの餘流なり
  此浄流をば玉川とは云なりなど物語りし別れに臨みて讀てつかはせしならん一首の意味は此物語しぬる言葉を
  忘れても正しく山へ登りて仙界浄地の淸淸を見られたぞならば語り聞かせし言ばを忘れても汲みやしつらん
  汲みでこそあらう高野の奥の玉川の水と云意なり 惣じて山内の湧泉清浄なるが中に三山の下より湧出るは
  殊に玉の如き泉にして御廟橋下を通り姑射山の裾を繞りて行 然るを何の比よりか毒流とし千手院谷奥なる
  秘井てふものは玉川の源水なとゝいふ濛説笑止千万なり
  元来かの秘井のある地と奥院とは其間山谷を隔てゝ地脈大に異なり水氣通ふ様なし是亦一證とするに足れり
  諸書に皆毒水の説を傳ふるは全く風雅集の詞書を本據とすればなり 所謂其本亂れて末治らず 信用するに足らず
  因て秘記幷建長年中の御神託 貞觀寺僧正の圖記 眞然大德の奏聞 其外契沖阿闍梨 
  上田秋成の膽大小心録等の毒水にあらずといふ諸精説に基づきて長歌を詠ず云々
  九度山不動院觀尊師翁の志を繼ぎて此碑を建て 尚捃玉集を著はして其説を述べたり
  爾来復た毒説を含みし詩歌を詠ずるものなし
  

南海高野線高野山駅からバスで「奥の院前」下車、徒歩約20分。バス停横に参拝者用の中の橋駐車場(無料)がある。


弘龍庵歌碑

弘龍庵歌碑は、和歌山県高野山奥の院34町石西にある。
御廟橋南西にある嘉永元年玉川碑歌碑横の小道を約10m登った平地に弘龍庵御墓所の標石が建てられている。
中央の墓石(歌碑)には、次のように刻されている。
(南面)南無阿彌陀佛
(東面)ありがたや南無阿弥陀仏の喜の
     供養の塔に身を納めなん
(西面)弘龍庵供養塔
     昭和二十七年九月二十一日
     和歌山県日高郡切目村 修道会

大中臣弘泰歌碑(日本最古の歌碑)

大中臣弘泰歌碑(日本最古の歌碑)は、和歌山県高野山奥の院にある。
「正和元年板碑」とも呼ばれ、奥の院御廟橋の北側、参道から約20m東側にある。

「紀伊國金石文集成」によると、総高250cm、幅35cmで、正面には次のように記されている。
  (梵字)出天地間五十七年
      清風迊空十音一聲
      南無阿弥陀佛
  いにしへハ はなさくはるに むかひしに
   にしにくまなき 月於ミるかな
  右頌歌者正和元(年)四廿七午尅
  大中臣弘泰法師沙弥心浄
  臨終之刻誦之率畢
    正和元年壬子六月 日
    大施主比丘尼心恵 敬白

木下浩良氏によると、大中臣弘泰が正和元年(1312)に亡くなる前に、
「古へは 花咲く春に 向かいしに 西に隈なき 月をみるかな」 と辞世を詠み、
妻と思われる大施主比丘尼心恵が造立したという。
板碑左側面には、沙弥道恵の筆になる梵字光明真言と無量寿経の四十八誓願の十八願が刻まれている。

紀州の文学碑・一二〇選には、次の解説がある。
「むかしは 花の咲く春に心が向いていたけれども 今は西の方にむかい、満月を仰ぎ見ていることだ」
(私は若い頃は華やかなもの、権勢のあるものにあこがれ、それを手に入れることが生甲斐だと思っていたが、
高野山にのぼった今は、西方浄土の仏陀をおがみ、満月のように澄み切った心をひたすら求めていることだ)といった意味。

板碑右側面には、建立に至る経緯が記載されている。
川勝政太郎氏によると、鎌倉幕府に属した大中臣弘泰という武家が、生前から高野山を慕っており、
同僚武家の藤原朝広沙弥西蓮と僧教圓が、尼心恵の依頼で建立したという。

愛甲昇寛氏によると、この塔婆は、辞世の和歌を刻んだ本邦最古の金石文として、
また真言道場である高野山に密教の梵字と浄土教の偈文を並べて表した卒塔婆として貴重であるとしている。



研暢、観広、本雄、友情の歌碑

研暢、観広、本雄、友情の歌碑は、和歌山県高野山奥の院35町石南にある。
御廟橋と燈籠堂の間にあり、みろく石の北西約10mに位置している。
高さ104cmの歌碑には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(南面)
(花紋) 研暢
      観広
      本雄
(西面)
嘉永七年 甲寅五月下旬建焉
(北面)
おもてにしるせるハ友のましはりを萬代まてもとむすひ
をきけるしるしにとて  高祖のつきせぬ苔の洞のほとりにかくして
たてをけるものなり

                    降魔場 研暢
ちきりおく御法の花の種なれハ匂ひもふかくこゝに咲らむ
                    降龍臺 觀廣
誓ひあるその暁はとをくとも花のにほへる春にあはまし
                    龍華閣 本雄
世々經とも猶友としてあかつきの法の教を我もきかなむ


(写真撮影禁止地域のため、現地の写真はありません。)

鶴澤清六歌碑


鶴澤清六歌碑は、和歌山県高野山奥の院35町石南にある。
御廟橋と燈籠堂の間にあり、みろく石の北側、陸奥宗光供養塔の北西にある。
四代目鶴澤清六の墓所内南側に次の歌碑(高さ49cm)がある。
(表面)
うつし身は
 ここにねむれど
  絃のわざ
妙なる音色
  永久に残らん
(裏面)
大野伴睦 松村謙三 (他)

同墓所内北側には、別の歌碑がある。
すめらぎと
ともに聴けるは
清六の
ちからこめたる
撥おともよし
     □□

日本の文学碑サイトでは、吉井勇 作と紹介されている。

(写真撮影禁止区域のため、現地の写真はありません)

昭和天皇御製歌碑

昭和天皇御製歌碑は、和歌山県高野山奥の院燈籠堂前庭にある。
昭和天皇皇后両陛下は、昭和52年(1977)4月18日19日に高野山を訪問した。
高さ2.76mの石碑には、次のように刻されている。
(前面)  御 製        侍従長 入江相政 謹書
 史(ふみ)爾(に)見る おくつきところを 越(を)可(か)みつつ
  杉大樹(おおき)並(な)むやま のほりゆく
(裏面)
  天皇 皇后両陛下には昭和五十二年四月十八日の両日高野山へ行幸遊ばされました
  その御砌特に御心を奥の院におとどめ遊ばされこの御製を賜りました
  文字は侍従長入江相政氏の謹書によるものであります
                  総本山 金剛峯寺

御製とは、天皇、皇族が作った詩文や和歌を指し、現在では特に天皇のものに限って用いられる。
「おくつきどころ」(奥津城所、奥都城所)とは、墓場、墓所をいう。
南海高野線高野山駅からバスで「奥の院前」下車、徒歩約20分。バス停横に参拝者用の中の橋駐車場(無料)がある。


(出典:天皇陛下皇后陛下高野山行幸啓記念 総本山金剛峯寺)

渡辺浩歌碑

渡辺浩歌碑は、和歌山県高野山大霊園にある。
石碑には、次の歌が刻されている。
  とむらへば 亡き子の墓も 雪積みて
   高野しづけき 季となりけり 
                     浩




(歌碑はありません)

谷崎潤一郎の歌

龍泉院

龍泉院は和歌山県高野山五の室谷にある真言宗の別格本山である。
本尊は藤原時代末期作の薬師如来(国指定重要文化財)で、西国薬師霊場第十番札所となっている。
開基は真慶律師で、承平年間(931-938)に開創されたと伝わる。
寺名は、かつて弘法大師空海が雨乞いの祈祷を行った「善女竜王の池」が側にあったことに由来している。
寺伝では、安和年間(968-970)に奈良興福寺の学僧仲算上人が再興し、寛喜年間(1229-1232)に小野流の頼賢によって興隆したといわれる。
毛利元就、佐々木高綱、楠正成といった武将が当院に帰依し、源氏や織田家との檀縁もあった。
以前隣接していた宝蔵院、西蓮院、泰雲院などを合併しており、泰雲院蔵の弘法大師作と伝わる木造竜猛菩薩立像は、「弘仁仏」と呼ばれ、国指定の重要文化財となっている。
宿坊として、檀信徒のみを受け入れている。

小滝圭三氏「高野ゆかりの文人たち」によると、谷崎潤一郎は37歳と46歳の時に高野山に滞在した。
昭和6年には、龍泉院の泰雲院で「盲目物語」を執筆したほか、次の歌を残している。
 南無大師遍照金
 剛おそろしや 
 高野の山のはる
 のいかつち
   潤一郎

 朝な夕なひゞきて
 六時の鐘のお
 とに添へてすゝ
 しき槙の下風
   於高野山
    潤一郎
 
南海高野線高野山駅からバスで高野警察前下車、徒歩3分。





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