池内たけし句碑は、和歌山県高野山奥の院の関東大震災霊牌堂の東隣にある。
石碑には、次のように刻されている。
(前面) 朝寒や我も貧女の一燈を たけし
(後面) 昭和四十七年十月八日 別格本山普賢院
貧女の一燈は、奥の院燈籠堂にあり、消えずの燈明として知られている。
孝女のお照が、養親のために自らの黒髪を切り一燈を寄進したという。opera 「お照の一灯」 紀州かつらぎふるさとオペラ「お照の一灯」 貧女の一燈 孝女お照 ゆかりの地
半田美永氏は、「俳句の径 高野山」で、この句について、次のように記している。
「貧女の一燈」は奥の院の燈籠堂にある。
南北朝時代の作とされる『曽我物語』に「朝夕のいとなみだにもなきひんじょなれば、一燈の力もなし」とある。
これを踏まえた作か。
池内洸(いけのうちたけし)(1889-1974)は愛媛県出身の俳人である。
高浜虚子の次兄池内信嘉の長男として生まれた。
能楽の振興に努めた家風の影響で、拓殖大学の前身である東洋協会専門学校を中退して宝生流の能楽師をめざしたが、師の宝生九郎の死で断念した。
大正2年(1913)頃から叔父の高浜虚子門下に入り、「ホトトギス」発行所につとめて指導を受けた。
昭和7年(1932)から「欅(けやき)」を創刊、主宰し、「たけし句集」「赤のまんま」「その後」「散紅葉」などを発行している。
昭和49年(1974)に85歳で死去した。句碑は、普賢院の森寛照(白象)によって建てられた。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩5分。→ 高野山内の句碑