高野山奥の院 玉川歌碑

玉川歌碑は、和歌山県高野山奥の院二十町石の北側にある。
「舊玉川碑」、「慶長16年玉川板碑歌碑」とも呼ばれる。

現地の石碑(高さ193cm)の文字は一部しか判読できないが、
紀伊国金石文集成によると、次のように刻されている。
     慶長十六年八月十五日
  忘れてもくミや志ツらん旅人の高能ゝ於くの玉川能水  「能」は変体仮名
    紀州名草郡和可山住重郷為逆修

紀伊国名所図絵には、次のように記されている。
〇玉川  左にあり。所謂六の玉川の一にして、毒水なりとぞ。纔(わづか)なる溝川なり。寛文(ママ)一六年碑を建てゝ、左の歌を刻す。
 風雅集
       高野の奥院へまゐる道に、玉川という川の水上に、毒蟲の多かりければ、
       此ながれをのむまじきよしをしめしおきてのちよみ侍る
   忘れてもくみやしつらむ旅人の高野(たかの)のおくの玉川の水  弘法大師
 十八景
                                           雲石堂寂本
   寒玉幽渓傍路邊、雲根繞出夕陽前。 聞名不汲旅人手。百世尚傳一首篇。

紀伊続風土記の記述によると、
玉川について弘法大師の歌があるけれども、なお人が誤って飲むことを恐れて、
慶長16年(1611)8月16日に和歌山の住人 重卿が逆修の石碑を建てて、弘法大師の歌を刻した。
高野山の宥快法印が、高野山十二景の題に「玉川秘水」としていたが、近世雲石堂寂本が高野山十八景を選ぶに際して、「玉川流水」としたという。

上記の「所謂六の玉川」とは、全国に玉川が六つあるとされているもので、山城国井出の玉川、近江国野路の玉川、摂津国三島の玉川、
武蔵国調布の玉川、陸奥国の野田の玉川、紀伊国高野の玉川を指す。

毒蟲あるいは「どく水」については、後世様々な解説がされている。

上田秋成は雨月物語巻之三「仏法僧」で、次のように記している。(現代語訳出典:日本古典文学全集)
 一人の武士が、更に法師に問いかけた。
「このお山は高徳の僧が開かれて、土石草木も霊の宿らぬものはないと聞いている。
しかるに、この地の玉川の流れには毒があって、水を飲む人が命を落とすゆえに、
弘法大師のお詠みになった歌として、
  わすれても---- (旅人はたとえ忘れてもこの水を汲んでよいであろうか、いやいけない。高野の奥山の水は)
というのがあると聞いている。
高僧であったにもかかわらず、なぜこの毒ある流れを涸らしてしまわれなかったのか。不審なことだが足下はどう考えておられるか。」
法師が微笑を浮べて答えるには、
「この歌は風雅集に収められています。その詞書に、
『高野山の奥の院へ参る道にある、玉川という川は、川上に毒虫が多いので、
この流れの水は飲んではならぬということを、諭し戒めて後に詠みました』
と説明してありますので、貴方のお考えになるとおりです。
けれども、今の貴方のお疑いが間違っていないことは、弘法大師は神通自在であって目に見えぬ精霊を使役して、
道なき所に道を開き、堅固な巌(いわお)を穿つのでも土を掘るよりたやすく、世に害を流す大蛇はこれを封じ込め、
怪鳥はこれを帰服させられたことは、天下の人々が仰ぎ尊ぶご功績であることを思い合わせると、この歌の詞書のほうこそ、どうも本当とは思えません。
もともとこの玉川という川は、諸方の国々にあって、いずれの玉川を詠んだ歌も、その流れの清らかさを讃えていることを思えば、
この地の玉川も毒のある流れではなく、歌の心意も、これほど名高い川のこの山にあるのを、参詣の人々はまるで忘れてしまって、
ただ流れの清らかさにうたれて、思わず手にすくって飲むであろうとお詠みになったものを、後の世の人の『毒がある』という誤った説によって、この詞書がこしらえられたと思われます。
更にまた深く疑いますと、この歌の調べは弘法大師の在世された平安朝初めの歌風ではありません。
おおよそわが国の古語で玉鬘、玉簾、珠衣の類は、すべて形の美しさ清らかさを賞める言葉ですから、清らかな水をいうのに、玉水、玉の井、玉川と美称(ほめ)るのであります。
毒のある流れにどうして『玉』という語を冠(かぶ)らせましょう。
仏法の狂信者で、和歌の意味などよくわからぬ人などが、こんな誤りをいくらでもしでかすものです。
貴方は歌人でもいらっしゃらないのに、この歌の意味を不審がられるとは深いたしなみがおありです。」
と、あつく賞め讃えた。

「高野のしほり」では、舊玉川碑として、次のような記述がある。
慶長十六年八月十五日和歌山住人重卿逆修善根の爲め建つるところなり、
わすれてもの歌を刻せり、もと此邊の左方より流れ出で路に沿うて行く小流を玉川といひて、毒水なりと傳へしを、
山口志道翁古来の謬傳を破砕して、御廟橋下の清流に確定せり。

「高野文学夜話」(下西忠、浜畑圭吾著)では、次のように記されている。
弘法大師は、その川の源には毒虫が多いので、飲まないようにと言っています。
玉川の美しい流れ(現在もきれいな川です)についつい気を許して一口、ということがあったのでしょう。
本当に毒虫が多かったのかどうかはわかりませんが、生水で体を壊さないよう配慮したのかもしれません。
はるばる高野山までお参りしてきた人々を気遣う、弘法大師の歌です。

奥の院御廟橋南西には、嘉永元年玉川碑歌碑がある。


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