嘉永元年玉川碑歌碑は、和歌山県高野山奥の院御廟橋南西側にある。
弘法大師の 玉川の歌に関する石碑で、奥の院には「玉川歌碑」(舊玉川碑)と呼ばれるものが、二十町石北側にもある。
現地の石碑(高さ180cm)文字の判読は困難であるが、明治37年(1904)刊行の「高野山名所圖會」には、次のように記されている。
玉川並に其碑
御廟橋下を流るゝ清泉にして、その源(みなもと)三山より出て御廟の後方より西邊(せいへん)を繞(めぐ)りて此處に来る、
是より南姑射(こや)の麓を過ぎ、東流と相合して遂に大瀧に落つ、此河上に「流灌頂」とて先亡追資の功徳を爲すことあり(口絵参照)
此の川即ち本朝六玉川の一にして南岸に玉川の碑あり、左の如し。
わすれても汲みやしつらん旅人の高野(たかの)のおくの玉川のみづ (弘法大師の御歌也)
長歌幷短歌 安房國 七六歳 山口志道
雲霧のはれにし時ゆ高野山 はちすの嶺の白露のしたゞりつたふ玉川の其ふる歌をいつの頃
誰が衣手のぬれそめて なき名ながるる世となりぬ そこし思はゞ高しるや 天の御蔭天知や
日の御蔭よはひの末に旅人も いく代ぞ汲ぬその水を くみて我しる白眞弓 今より後はわすれても
なき名ながすなこの玉川に
もろ共にくみてこそしれ高野山 蓮のみねのつゆたまみづ
天保十一庚子歳(1840)八月十五日 前權大納言藤原公説篆額 (歌の上に玉川碑三字の篆書あり)
碑陰 (略)
蓮の峰露(みねつゆ)のたまがはみなかみは世にありがたきこけのほら哉
維嘉永元丙申(1848)仲夏念八日 清堂觀尊誌
たかの山わかのぼりつるもろ人の むすぶもきよき玉がはの水 皇都 上野志廣
而して此玉川の水を古昔毒水と言ひ傳へたりしを、かの山口志道翁 後人のひがことなりと舊説を駁撃せしの美事、
井村真琴氏編の「高野のしをり」に懇切に傳へたり、左の如し。
抑々玉川はもと一の橋より二町計り奥なる路傍の小流を玉川とし 千手院谷の秘井をその水源として
毒水なりと言ひ傳へり 其説全く風雅集のかの歌の前書に基づきし也
然るを山口志道翁 かの前書を後人の偽作なりとして毒水の舊説を駁撃し此清流を眞の玉川なりと断定せり
其卓見千載の迷夢を覺破せしは壮快といふべし
今其論旨を摘みていへばかの前書の高野の奥の院へ参る道に玉川と云河の水上に毒虫の多かりければ
此流のむまじき由をしめしおきてとある詞と歌の意味と大に相違せり
讀人は参詣する人に高野へ登られしならば山は宇内無双の霊山にして其の山の谷々より湧く泉の清浄なるを
汲玉へ是則眞言秘奥の灌頂等に用うる閼伽などの餘流なり
此浄流をば玉川とは云なりなど物語りし別れに臨みて讀てつかはせしならん一首の意味は此物語しぬる言葉を
忘れても正しく山へ登りて仙界浄地の淸淸を見られたぞならば語り聞かせし言ばを忘れても汲みやしつらん
汲みでこそあらう高野の奥の玉川の水と云意なり 惣じて山内の湧泉清浄なるが中に三山の下より湧出るは
殊に玉の如き泉にして御廟橋下を通り姑射山の裾を繞りて行 然るを何の比よりか毒流とし千手院谷奥なる
秘井てふものは玉川の源水なとゝいふ濛説笑止千万なり
元来かの秘井のある地と奥院とは其間山谷を隔てゝ地脈大に異なり水氣通ふ様なし是亦一證とするに足れり
諸書に皆毒水の説を傳ふるは全く風雅集の詞書を本據とすればなり 所謂其本亂れて末治らず 信用するに足らず
因て秘記幷建長年中の御神託 貞觀寺僧正の圖記 眞然大德の奏聞 其外契沖阿闍梨
上田秋成の膽大小心録等の毒水にあらずといふ諸精説に基づきて長歌を詠ず云々
九度山不動院觀尊師翁の志を繼ぎて此碑を建て 尚捃玉集を著はして其説を述べたり
爾来復た毒説を含みし詩歌を詠ずるものなし
南海高野線高野山駅からバスで「奥の院前」下車、徒歩約20分。バス停横に参拝者用の中の橋駐車場(無料)がある。→ 蕪村玉川句碑 高野山内の歌碑、句碑、詩碑