奥の院句碑めぐり → 高野山句碑めぐり(奥の院を除く) 高野山内の歌碑、句碑、詩碑
ああ同期の桜句碑
同期の桜供養塔は、和歌山県高野山奥の院の一の橋西側にある戦没者慰霊塔である。
海軍第十四期会が昭和42年(1967)に建立したもので、塔横の石碑に次のとおり刻されている。
あゝ同期の桜
海軍第十四期飛行専修予備学生戦没者慰霊塔
第二次世界大戦の戦局不利となり国家存亡の秋を迎え、大学・
高等専門学校の文科系に在学する学生全員が徴兵され、昭和十八年、陸海軍に入隊した。
このうち海軍航空隊(操縦、偵察、要務)へ配属されたのが第十四期飛行専修予備学生である。
彼らはたがいに「貴様と俺とは同期の桜」とうたい、「散る櫻、残る櫻も散る櫻」と
厳しい訓練に鍛えられる裡に、太平洋南西諸島各地で戦死・戦病死者四百余名が数えられ、
神風特別攻撃隊も百十余名に及んでいる。
同期生・藤田光幢前官(高野山大円院住職第四十三世)は、散華した同期生の供養を生涯の責務と念じ、
密かに毎日その精進を続けていた。それを知った同期生・同家族並びにご遺族から澎湃とした感動が
慰霊碑建立の呼び声を齎したのである。やがて戦後二十三回忌に当たる昭和四十二年八月立派な威容が現出した。
この塔は千手観音の慈悲と不動明王の怒りの炎を具現している。
「あゝ同期の櫻の塔」は若くして散華した同期生の鎮魂、日本の繁栄、
世界の真の平和を祈る、散った櫻の悲願である。
海軍第十四期会
菩提所 大円院
下段には、「散る櫻 残る櫻も 散る櫻」の句が刻されている。
永田青嵐句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院18町石南東の関東大震災霊牌堂(供養塔)前にある。
高さ約1mの句碑には、次のように刻されている。
(正面)
お遍路の祖師と 青嵐
在るこゝろ
尊とけれ
(裏面)
昭和壬辰三月
法淘社有志建立
和田性海記
青嵐は、永田秀次郎の俳号である。
山内潤三氏の「高野山詩歌句碑攷」によると、永田秀次郎は、はじめ自宅に椋の木があったので、「椋舎」という俳号であったが、
同郷の淡路島出身の蕉門服部嵐雪の「嵐」にちなみ、その句「青嵐定まる時や稲の色」からとって「青嵐」と号したという。
池内たけし句碑は、和歌山県高野山奥の院の関東大震災霊牌堂の東隣にある。
石碑には、次のように刻されている。
(前面) 朝寒や我も貧女の一燈を たけし
(後面) 昭和四十七年十月八日 別格本山普賢院
貧女の一燈は、奥の院燈籠堂にあり、消えずの燈明として知られている。
孝女のお照が、養親のために自らの黒髪を切り一燈を寄進したという。
池内洸(いけのうちたけし)(1889-1974)は愛媛県出身の俳人である。
高浜虚子の次兄池内信嘉の長男として生まれた。
能楽の振興に努めた家風の影響で、拓殖大学の前身である東洋協会専門学校を中退して宝生流の能楽師をめざしたが、師の宝生九郎の死で断念した。
大正2年(1913)頃から叔父の高浜虚子門下に入り、「ホトトギス」発行所につとめて指導を受けた。
昭和7年(1932)から「欅(けやき)」を創刊、主宰し、「たけし句集」「赤のまんま」などを発行している。
昭和49年(1974)に85歳で死去した。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩5分。
道標・裏面秋双句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
一の橋西にある司馬遼太郎文学碑の横にあり、「秋双句碑(道しるべ句碑)」と書かれた資料もある。
奥の院参道分岐点に建てられた三角柱の石碑で、次のように刻されている。
左 さんけい道
右 かへ里路
(裏面) 風すずし ここ浄域の 第一歩 秋双
芦田秋双(秋窓)(1878-1966)は、正岡子規門下の俳人で、新俳画新俳諧の提唱者である。
右田百女句碑は、和歌山県高野山奥の院の関東大震災霊牌堂東側にある。
句碑表面上段には、獣医学博士右田百太郎の像が刻され、下段に次の句が刻されている。
うつくしく 物みな映れ 初鏡 百女
右田百太郎は福岡県出身の獣医学者で、妻の貞枝は高浜虚子に師事して右田百女と号した。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩5分。
かげろふ塚は、和歌山県高野山奥の院18町石と19町石の中間にある。
かげろふ塚(高さ2尺(60cm)横3尺5寸(106cm))は、作家中山義秀と澄女夫妻の逆修碑で、かつては親交のあった三宝院の草繋全弘の逆修碑と並んで建てられていた。
昭和44年に、高野山真言宗宗務総長であった草繋全弘が死去した時に、草繋全弘の逆修碑は、関東大震災霊牌堂の西側に新しく作られた墓に移されている。
かげらふ塚の石碑は、昭和39年(1964)に建立されたもので、中山義秀自筆の次の文が刻まれている。
在りし日のかたみともなれ
かげろふ塚
なかやま
義秀
すみ
中山義秀(1900-1969)は、明治33年に生まれ、早稲田大学を卒業後、学校に勤務しながら作家活動を続け、昭和13年に「厚物咲」で芥川賞を受賞した。
昭和27年(1952)、52歳の時に一人で高野山を訪れ、三宝院に滞在して「高野詣」を執筆し、住職の草繋全弘と親交を深めたという。
中山夫妻没後に、先妻の娘が高野山に来て、義秀と澄女の遺骨を塚下に埋葬したという。
平山居士句碑は、和歌山県高野山奥の院19町石東にある。
高野山の句碑歌碑巡りの資料には、「多々良平山居士句碑」と書かれている。
高野山のしおり及び高野山名所図会には、「東備の人名は穆姓は多々羅 碑面に句あり」と記されている。
石碑西面には、「明ぼのや暫(しばらく)ながら雪の峰 平山居士」とあり、右下には鼎左書と刻されている。
石碑東面には、作者の多々良清幽について書かれている。碑文字を書いた鼎左は、鼎峰のことで、東面には鼎峰と記されている。
東面の最期には、「碑陰 杜多草帝閑那 識」と刻されている。
杜多草帝閑那は、幕末紀州の俳人で、那賀町史「幕末維新期の豪農文化人」によると、「古宅家第5代当主 古宅健次郎(1804-1887)」ではないかと記されている。
塊亭碑(塊翁句碑)は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院20町石東の極楽塚歌碑西南方向にある。
紀伊國名所図会には、次のように記されている。
塊亭碑 (参道の)右にあり。碑陰に五橘亭風圭(きっていふうけい)の銘あり。
霧となる香の薫や九百坊 塊翁
山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、「塊翁句碑」として紹介されている。
(正面)
霧となる 塊翁
香の薫や
九百坊
(碑陰)
塊華始發正風南薫
塊乎不朽千歳遺墳
紀藩五橘亭風圭誌
(左)
文政十丁亥秋七月十四日爲
十三回追福門人何某等建立
五橘亭風圭は、紀州藩士 吉田半左衛門のことで、俳諧に親しみ、文化11年(1814)に風悟松尾塊亭から二代を受け、天保2年(1831)11月に没した。
松尾塊亭(1732-1815)は、紀州藩士で俳人としても知られる。
文化12年(1815)に83歳で没し、文政10年(1827)塊亭13回忌の際に、当碑が建立された。
山内氏によると、紀伊國名所図会には、次の塊亭の作品が載せられている。
あはれにも尊くもたゞ萬の霜 塊亭
東むいて居るもあはれや女人堂 塊亭
霧となる香の薫や九百坊 塊翁
寂莫(じゃくまく)と苔に木の実の音もなし 塊亭
富安風生(とみやすふうせい)句碑は、和歌山県高野山奥の院の多田満仲供養塔北側にある。
石碑には、次のように刻されている。
一山の清浄即美秋の雨 風生
富安風生(1885-1979)は、大正、昭和期の俳人である。本名謙次。
愛知県出身で、一高、東京帝大卒業後、逓信省に入った。
大正7年(1918)福岡勤務の時に、吉岡禅寺洞(ぜんじどう)らと句作し、東京帰任後、高浜虚子に師事して、水原秋桜子らと東大俳句会をおこした。
昭和3年(1928)俳誌「若葉」を創刊主宰し、昭和12年(1937)に逓信次官で退任後は句作一途で、その句業によって昭和46年(1971)芸術院賞を受賞している。
昭和50年(1975)芸術院会員となり、水原秋桜子と共に俳壇の巨匠と呼ばれた。
「草の花」「松籟」「晩涼」「古稀春風」「喜寿以後」「齢愛(よわいいと)し」などの句集がある。
昭和54年2月22日に93歳で没した。
石碑は、昭和39年に建立された。
袖彦句碑、袖彦歌碑は、和歌山県高野山奥の院22町石南東(一の橋側参道北側)にある。
数取り地藏から御廟側に約10メートル進んだ参道沿いに位置している。
山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、句碑には次のように刻されている。
萬歳樓
袖彦
聲やほとゝ
きす
嬉しさの
かさなる
歌碑は、一部の文字だけ判読可能であるが、上記山内氏の資料によると、次の歌が刻されている。
南にゝかも無遍や大師を願ふ身の
あしきとよきに遍照金剛
茶呑齊袖彦
各石碑は、文政8年(1825)に、博多の豊後屋栄蔵(萬歳楼袖彦)が建立したものである。
豊後屋栄蔵は、福岡市東長寺の六角堂を寄進している。
鶴亀淀八歌碑、鶴亀淀八句碑は、和歌山県高野山奥の院22町石東にある。
円形石碑の前面には、次のように刻されている。
春野書
ふかき恵の
露の
なさけを
碑の
くちぬかきりは
わすれめや
鶴亀淀八 印
裏面には次のように刻されている。
高垣幸次郎
カヤ
柴田清之助 正一
ふく
高垣子兵衛 まさ
ツヤ
高垣トミ 清三
豊
越田五一郎 操
笠木雄太郎
台石前面には、鶴と亀甲の文様が刻まれ、裏面には、次のように刻されている。
大正五丙辰年十一月建立
台石前の横長石碑(高さ59cm、幅76cm)には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
高野成
淀に恵
水の
養老盃
□
高橋世南句碑は、和歌山県高野山奥の院24町石西南にある。
堀尾家供養塔 松江開府の祖 堀尾吉晴墓所及び海軍整備課予備練習生記念之碑と参道の間に位置している。
山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、次のように刻されている。
世南
はやあとになる
たゝ今そ
花盛
素芯書
石碑裏面には、「世南句碑」と題して高橋世南に関する長文が刻されている。
詠久句碑は、和歌山県高野山奥の院24町石西南にある。
堀尾家供養塔 松江開府の祖 堀尾吉晴墓所及び海軍整備課予備練習生記念之碑と参道の間に位置している。
参道側に隣接して、高橋世南句碑がある。
山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、次のように刻されている。
(北面)(山側)
落光の清さや
詠久
杉の下涼
(西面)(一の橋側)
感譽順光居士 在譽単洲居士
(家紋)一族友誼以日令入入佛道
靜譽光舎信女 春譽妙雲信女
(南面)(参道側)
東都飯倉片町
吉田久四郎
(東面)(御廟側)
嘉永六年癸丑年季夏建之
宿坊 龍生院
俳句作者の詠久(吉田久四郎)について、「新撰俳諧年表:附・俳家人名録」の「ゑ え」の項に次のように記されている。
「詠久、吉田氏、稱久四郎、即事庵、龍空と號す、江戸人、嘉永年中」
おごま石句碑
弘法大師ごま石は、和歌山県高野山奥の院24町石西にある。
参道北側の壇上に「弘法大師御ごま石」と記した石柱が建てられている。
昭和12年(1937)発行の「高野山のしをり」には、次のように記されている。
●護摩石
大師護摩を修し玉ひし跡とぞ
●護摩爐(ごまはら)
同
北面と西面には次のように刻されており、山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」には「おごま石句碑」として掲載されている。
法の跡いく世
ふりにし苔の花
明治卅六癸卯夏 常喜院内吉倉良信
伊藤氏墓、一捕・完来句碑は、和歌山県高野山奥の院25町石南西にある。
石碑には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
(東面)
伊藤氏代々之墓
往昔酉の秋月もて波のあしたの露
父身まかれて既十三年の懐旧たゝ其
俤を慕ひ此御山にいさゝか恩を報ふの
しるしを残すことなり
在すかと夢に夢見て浮の秋 東都 一捕
空ミれは空まて峯の月ひとつ 雪中庵 完来
右應需添一章書之
(台石)
江戸京橋
上
善
竹河岸
(南面)
時文化九壬申歳秋
父十三回忌為供養建之
伊藤道之
(北面)
上總屋善右衛門
同 善太郎
七十六歳
東都歸春書 印
中村徳蔵句碑は、和歌山県高野山奥の院25町石の参道を挟んで向かい(北側)にある。
筑後久留米有馬家供養塔の西側(一の橋側)に位置する。
石碑には次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
(参道側)
みほとけの 徳雪
慈悲にそあらむ
かん子鳥
(山側)
東京本所区村町壹
明治三十九年仲夏吉辰
所縁坊
大乗院主慈照
大蕪庵十湖句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院中の橋の西にあり、南海電鉄創業者松本重太郎翁の墓の南東にある。
句碑には、次のように刻されている。
十湖
山の月こゝろも
高う眺めけり
碑陰には、静岡県浜松市出身の俳人である松島十湖(大蕪庵十湖)の紹介が刻されている。
市川団十郎墓所は、和歌山県高野山奥の院の中の橋西側にある。
「初代市川團十郎供養塔」と表示されている資料(「高野山奥の院の墓碑を訪ねて」)もある。
中央の板碑には、上部に梵字が刻まれ、その下に市川家の家紋「三升」と「供養先祖所」「子孫蕃育」の文字が刻まれている。
蕃育(ばんいく)とは、やしないそだてることを指す。板碑裏面の文字は判読が難しい。
市川団十郎供養句碑
半球形の台座には、供養塔建立の経過に関する次の文と句が刻まれている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
寶暦三(1753)酉歳二月十九日
父團十郎五十回忌の
菩提二代目海老蔵建之
文政十三(1830)寅二月十九日
元祖團十郎百二十七廻
忌相當同年四月十二日
母十三回忌營追善
再建七代目團十郎
雉子啼や
翁の仰せ
有る通り → 芭蕉句碑
左右には花筒があり、向かって右には「市川右團治」左には「市川團蔵」という文字が刻まれている。
市川団十郎は、歌舞伎俳優の名跡で、二代目以降の屋号は「成田屋」である。
元祖(初代)市川團十郎(1660-1704)は、元禄時代(1688-1704)の歌舞伎界を代表する俳優であった。
男伊達と呼ばれていた親分の子 堀越十郎として生まれたが、役者の道を進むことになり、本名の十郎の上に普段の段の字をつけて、段十郎としてデビューした。
その後、京都の名優 坂田藤十郎に認められ、藤十郎の助言で、段の字を團と変えた。
團十郎は、劇作も兼ねて、三升屋兵庫(みますやひょうご)の名前で狂言本を十数編書いている。
元禄17年2月19日に市村座の公演「わたまし十二段」で佐藤忠信を演じていた最中に、同僚役者の生島半六に舞台上で刺殺された。
東京都港区の青山霊園に埋葬されている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩5分。バス停西側に路側帯駐車枠がある。
大教正五左井句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
中の橋東側、姿見の井戸前に建立されている。
山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」によると、次のように刻されている。
(正面)
大教正
五左井穿雄
尊さや 蓮の
かたちの
法の山
(裏面)
大正壬子仲秋
正倫社有志建之
猪瀬恵以墓句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院中の橋の汗かき地蔵から参道を東に50m進んだ南側 西禅院墓所北西端に位置する。
墓石には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(東面)
猪瀬恵以之墓
(北面)
明治四十一年三月十一日死
(南面)
御墓に尊き山の落ち葉かな
明治四十二年十一月 男 重次
(西面)
宿坊 西禅院
市川團藏家墓所は、和歌山県高野山奥の院28町石西にある。
株式会社クボタ墓所と石倉翆葉句碑の間に位置している。
明治35年に建立された墓石正面には、次のように刻されている。
六代目市川團藏
釋尼妙冠
(市川家家紋 三升)釋了教
七代目 釋教西
市紅句碑 団猿句碑
墓所瑞垣内の花筒石には次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(市紅句碑)
なく虫を我道連や秋の山 市紅
(団猿句碑)
心にも白きは清し冬牡丹 団猿
六代目市川團藏(1800-1871)は、江戸時代の歌舞伎役者である。幼名照世、初名市川三蔵、前名初世市川茂々太郎、初世市川白蔵、二世市川久蔵。俳名三猿、団猿、市紅庵、松秀舎。
父は四代目市川團藏の門弟市川荒五郎である。嘉永5年(1852)8月五代目市川團藏亡きあと、同妻の養子となり、嘉永5年10月、六代目市川團藏を襲名した。
養子に七代目市川團藏がいる。
七代目市川團藏(1836-1911)は、江戸から明治時代の歌舞伎役者である。
天保7年、料理人の丸屋伊三郎の子として生まれ、天保10年(1839)二代目市川九蔵の養子となり市川銀蔵を名乗った。
明治時代に入り、不遇な時期もあったが、明治30年(1897)七代目市川團藏を襲名し、團十郎、菊五郎とならぶ名優と評された。
石倉翆葉句碑は、和歌山県高野山奥の院28町石西にある。
約3mの高さの石碑に、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
翆葉
杉の奥佛龕の
灯の時雨けり
石倉重継は、「高野山名所図会」を記している。
芭蕉句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
松尾芭蕉(1644-1694)が、記した俳諧紀行「笈(おい)の小文」の中で詠んだ次の俳句で、池大雅の字で刻まれている。
ばせを翁 父母のしきりにこひし雉子の声
芭蕉は、貞享4年(1687)江戸をたち、郷里伊賀上野、伊勢神宮、吉野を経て高野山に参詣した。
郷里伊賀上野では、貞享5年2月18日に亡き父の三十三回忌法要を済ませた。
父は芭蕉十三歳の時に、また母は芭蕉四十歳の時に他界している。
その後、和歌の浦、奈良、明石までの旅を「笈の小文」としてまとめ、宝永6年(1709)に出版された。
旅中の54句が納められており、高野山について次の2句が載せられている。
ちゝはゝのしきりに恋し雉の声
ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊(芭蕉門人の杜国)
また、「枇杷園随筆」所載の高野登山端書では、芭蕉は次のように記している。
高野のおくにのぼれば、霊場さかんにして、法の燈きゆる時なく、坊舎地をしめ、仏閣甍をならべ、
一印頓成の春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼にも腸を破るばかりにて、
御廟を心しづかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たたずみ)て、倩(つらつら)おもふやうあり。
此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、
此内にこそおもひこめつれと、袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝ涙をとゞめて、
父母のしきりに恋し雉の声
芭蕉は、雉の声に亡き父母への思慕の情をかきたてられ、この句を詠んだ。季語は雉で春である。
俳句歳時記の解説では、雉について、次のように書かれている。
雉 雉子 きぎす
日本の国鳥として書画にも多く描かれている鳥である。雄は羽の色彩が華麗で長い横縞のある美しい尾を持つ。雑木林や原野を生息地とするが、排卵中の雌はあまり飛び立たない。
留鳥であるが、いかにも哀れ深い声で鳴くので、古くから春のものとされている。早春の野焼きのころに、雉の巣も焼かれることが多い。
野鳥に共通する本能のため、子を守ってともに命を落とすことから、「焼野のきぎす」として、親の情愛の深さに例えられている。
芭蕉句碑は、紀伊名所図会で、「芭蕉墓(づか)」と紹介され、碑の裏面には、次の碑陰銘が記されている。(高野山詩歌句碑攷)
雉子塚の銘
ほろ々と。鳴くは山田の。雉子のこゑ。父にやあらむ。母にやと。
おもひしたへる。いにしへの。良辨のかの。ふるうたに。かよふ心の。十(とお)あまり。
なゝつの文字を。石に今。きざみてこゝに。たつかゆみ(弓)。紀の高野(たかの)なる。法の月。
雪にさらして。すゑの世も。朽ちぬためしを。この國に。この道したふ。沂風(そふう/きふう)てふ。
人のまことを。かきぞとどむる。右 東武 雪中菴蓼太
安永四乙未年十月十二日
この俳句は、行基が高野山で詠んだと伝えられる次の歌を踏まえたものと言われている。
「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞおもふ 母かとぞおもふ」(玉葉和歌集)
良辨僧都は、「ほろほろと鳴は山田の雉子の聲 父にやあらん母にやあらむ」と詠んでいる。
撰文を記した雪中菴蓼太(大島蓼太)は、江戸時代中期の俳人で、天明期の俳諧中興に尽くした。
句碑の台石には、次のように刻されている。
宿坊
金剛頂院
南紀日高郡御坊邑
鹽路沂風
建之
この芭蕉句碑は安永四年(1775)に、紀州日高郡御坊村(藤井村)の塩路沂風(僧名 淋澄)によって建立された。
塩路沂風(1752-1800)は、後に滋賀県義仲寺無名庵六世になった俳人である。芭蕉の墓は義仲寺(滋賀県大津市)にある。
山内潤三氏の高野山詩歌句碑攷によると、芭蕉を崇敬してやまぬ弱冠24歳の塩路沂風が、芭蕉の八十回忌にあたり、高野山にこの芭蕉句碑を建立したという。
高野山奥の院中の橋西にある市川団十郎供養句碑には、「雉子啼や 翁の仰せ 有る通り」と詠まれている。
那賀町史の別章二「幕末・維新期の豪農文化人」によると、松尾芭蕉は二度高野山に登ったと伝えられている。
上記の貞享4年(1687)は二度目で、一度目は伊賀上野で二歳年長の藤堂主計良忠(蝉吟)に仕えたとき、
寛文六年(1666)4月、23歳の時主を失い、6月にその位牌を高野山報徳院に納めるにあたり使者をつとめたと言われる。(俳諧大辞典)
南海高野線高野山駅からバスで、奥の院前下車、徒歩15分。→ 其角句碑 高野山内の句碑
九度山萱野家句碑は、和歌山県高野山奥の院31町石南西の段丘にある。
芭蕉句碑の山側奥に位置しており、越後村上 堀家供養塔、下野壬生 三浦家供養塔の前を御廟側に約30m右手に進んだところにある。
五輪塔の地輪には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(南東面)
明治四十年八月廿日寂
藥王院良景徳翁居士
香德院員操妙正大姉
昭和十六年八月九日
俗名 菅野イチノ 行年八十三才
(北東面)
本郡名倉村産
俗名 萱野良景
行年 七十一歳
(北西面)
寂寞の
中に聲あり
呼子鳥
耕雨
(南西面)
九度山村産
俗名 萱野正
行年 八十五才
霊宝館だより第82号の「明治期の高野山と女性 萱野イチノという人」によると、
萱野イチノ(1859-1941)は、女人禁制下の高野山で初めて「居住」した女性として知られている。
扇面句碑は、和歌山県高野山奥の院32町石南にある。
安芸浅野家供養塔の北隣に位置している。
扇形石碑と台石には、次のように刻されている。
(参道側)
森田愛子は越前之國の人 その母よしと九頭竜河畔に住む
高濱虚子先生の小説「虹」に顕る
昭和二十二年四月一日歿す
母娘住み
窓の外には
浮寝鳥
桐翆
(東側)
鎌倉の
夢見て
さめて
雪篭り
愛子
(台石)
昭和四十年五月
越前之國
小森石材工業所調製
森田愛子(1917-1947)は、福井県坂井市三国町出身の俳人である。→ 坂井市龍翔博物館
高浜虚子の「虹」のヒロインとして登場する。
昭和14年(1939)鎌倉での療養時代に、高浜虚子門下の伊藤柏翆と出会い、俳句を始めた。
句集として、虹、愛子全句集、森田愛子全句集、森田愛子遺句集、森田愛子選句集がある。
森田愛子の墓所は、寿福寺(鎌倉)、月窓寺(三国)、性海寺(三国、森田家の菩提寺)にあり、
東尋坊荒磯遊歩道(虚子、愛子、柏翆句碑)、瀧谷寺、性海寺、当地奥の院に句碑が建立されている。
→ 高浜虚子 虹 小説集 師と弟子切ない交わり 三国(福井県坂井市)
其角句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
南向きの正面には、「鈴木里見累世(代)之霊 其角堂」と刻され、
東面と西面にはそれぞれ、
「卵塔の鳥居やげにも神無月 其角」
「灯火(ともしび)を浮世の花やおくの院 永機」
の二句が刻されている。
宝井其角(1661-1707)の「句兄弟」所収の句といわれている。
其角は江戸時代中期の俳人で、松尾芭蕉の高弟である。父は本多藩の医師で、のちに宝井氏を名のった。
14,15歳で芭蕉の門下となり、元禄7年(1694)上方の旅の際に、芭蕉他界の前日に大坂の病床に参じて、葬儀万端を済ませた。
豪放闊達な作品が多い半面、師芭蕉、父母、娘などの死に臨んでの作品も知られる。
芭蕉没後の作風は、洒落風と呼ばれ、後に江戸座の祖とされ、江戸文化に大きな影響を与えた。
毎日新聞2001年8月10日の「高野山俳句ウォーク&シンポジウム」には、次の記事がある。
高野山大学客員教授で、現代俳句協会会員の山陰石楠さん(77)=和歌山県高野町高野山766=は句作のかたわら高野山内の句碑の研究を続けている。
高野山出版社発行の信仰雑誌「聖愛」に1999年1月号から約2年間にわたり、句碑を紹介した。(中略)
2年間の「取材」で山陰さんは、芭蕉の門人の宝井其角のものとされていた句碑は別人によるものであることを「発見」した。
旧参道に建つ「卵塔の鳥居やげにも神無月」の句碑は「其角句碑」として立て札が設けられ、宝井其角とされていた。
しかし、山陰さんが句を調べてみると、其角から約180年後に江戸深川に住んだ江戸座其角堂六世の鈴木義親の作であることがわかったという。
鈴木義親(1777-1852(1849?))は、別名 穂積永機(1)、深川永機、六世其角堂鼠肝ともいわれる。
穂積永機(2)(1823-1904)は、幕末、明治時代の俳人として知られる。本名は善之。父 六世其角堂鼠肝 と、母 里見の間に生まれた。
石碑正面に刻された「鈴木里見」は、この母のことかと思われる。
石碑北面には、明治壬午(明治15年 1882年)卯月 里見田女 山本乕(虎)子 建之 と刻されている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩15分。→ 高野山奥の院芭蕉句碑
高浜年尾句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
石碑は、御廟橋と豊臣家墓所の間にあり、堺中室院墓所の階段南側にある。
石碑前面には、「一水の緑陰に入るところかな 年尾」と刻されている。
裏面には、「昭和五十七年六月六日 総本山金剛峯寺」とある。
山陰石楠氏の解説によると、弘法大師が、奥の院の御廟橋南側のこのあたりを好まれて、ここに納涼房を建てて四時を過ごされたという。
高浜年尾(1900-1979)は、東京神田で高浜虚子の長男として生まれた。
小樽高商卒業後、旭シルク、和歌山製糸で勤務後、昭和10年ごろから俳句生活入り、ホトトギス関西地方代表として活躍した。
昭和13年(1938)「俳諧」を発行、昭和26年(1951)高浜虚子に替わり「ホトトギス」を主宰した。昭和54年(1979)10月26日逝去。
稲畑汀子句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院其角句碑と御供所を結ぶ参道の中間地点にある。
石碑には次のように刻されている。
(前面) 萬丈の杉の深さや五月闇
汀子
(裏面) 平成十一年十一月七日
総本山 金剛峯寺
五月闇は、夏の季語で、梅雨時のころの鬱蒼とした暗さをいう。
稲畑汀子(1931-2022)は、昭和後期から平成時代の俳人である。
高浜虚子の孫、高浜年尾の次女で、稲畑順三と結婚した。
父の高浜年尾没後、昭和54年(1979)から「ホトトギス」を主宰した。
花鳥諷詠をとなえた祖父の作風を引き継ぎ、昭和62年に日本伝統俳句協会を設立し、会長となった。
平成25年「ホトトギス」の主宰を長男 稲畑広太郎(廣太郎)に引き継いで名誉主宰となった。→ 高浜虚子句碑 高浜年尾句碑
高浜虚子句碑は、和歌山県高野山奥の院の御供所南側にある。
「炎天の空美しや高野山」の句が刻されている。
裏面には、「昭和廿六年六月十日 金剛峯寺 第一回高野山俳句大会記念」とある。
昭和2年の句で、昭和26年6月の高野山俳句大会に際して、金剛峯寺境内に建立された。
高浜虚子(1874-1959)は、明治から昭和にかけての俳人、小説家である。
本名は清で、父は旧松山藩剣術指南役の池内信夫である。
松山市に生まれて、同級生の河東碧梧桐を介して正岡子規に師事した。
松山で創刊された「ホトトギス」を東京に移して、俳句と文章の発表を続け、1905年からは夏目漱石の「吾輩は猫である」をホトトギスに連載している。
高浜虚子は高野山を訪れた際に次の句を作っている。
「こなたへと法(のり)の高野の道おしへ」
「月の坂高野の僧に逢ふばかり」
昭和29年文化勲章を受章し、昭和34年(1959)に85歳で没する時に「人の世の今日は高野の牡丹見る」と詠んだという。
親鸞報恩歌碑、見真大師墓句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)の前に、2基の石碑があり、手前の低い石碑が親鸞報恩歌碑、すぐ奥の高い石碑が見真大師墓句碑である。
親鸞報恩歌碑には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
(東面) 報恩 仰へく祖師の御跡をしたひ来て
御影に逢そ今日のうれしき
感中
大正七年八月七日参拝
(西面) 伊勢松坂眞宗花山寺 沙門 感中
六拾九歳
見真大師墓句碑には、次のように刻されている。
(東面) 見真大師御墓 六條御殿御宿坊
西禅院
(南面) 法の縁くちぬ 名古屋市塩町
ちかひや石の文 伊藤萬蔵
(北面) 明治三十八年六月 建之
(西面) 見真大師御自作 石工
尊像 西禅院 □□泰次郎
山口誓子句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
句碑には、「夕焼けて西の十萬億土透く 誓子」と刻されており、
裏面には「昭和三十六年六月建之 金剛峰寺」とある。
「晩刻」に収録された句で、平田永朝氏の解説に次のように記されている。
山口誓子は、「芭蕉の精神に復帰して、真の伝統の道を俳句に貫ぬく」ことを自らに課し、水原秋桜子と共に現代俳句の出発点を築いた。
俳句は、美しく荘厳な夕焼けに立てば、あたかも十万億土の彼方にあるという西方弥陀の浄土が透き通って望まれるかの様であるーと忘我の心境を詠ったものである。
誓子は昭和十六年から同二十八年までの十二年間、三重県鈴鹿市富田の海岸で療養生活を送ったが、眼前に炎え拡がる大夕焼をわが身に引き較べてこの句を得た。
当初は、西側がひらけている奥の院英霊殿参道入口に建てられていたが、その後東側の中の橋駐車場御廟間の参道沿いに移設された。
「私の旅日記」の説明では、次のように記されている。
西の天、真紅に夕焼け、一切空。遥かに遥かに十万億土が見える。透いてありありと見える。
自分の句だが、高野山にはもってこいの句だ。
建てるとすれば、(西側の展望が望める高野山)大門の前が最も然る可きであるが、
そこにはすでに木国の句碑が立っているから、ずっと退いて(奥の院の)脇参道に西を向いて立つことになったのである。
そこも西に展けている。
はじめ白象師が建碑のことを云われ、句を求められたとき、私は
高野より雲加わりて鰯雲
という句を提出した。
その句は、採用されなかった。「鰯雲」は「雲」ではあるが、「鰯」は魚扁の生臭い字であるという理由で。
結局、私が昭和二十一年、伊勢で作った十万億土の句が採用された。
私のこの句は、ゆかりの地のゆかりの句とは云えぬが、知らぬひとは欺かれる。
山口誓子(1901-1994)は、京都生まれの俳人で、本名は新比古(ちかひこ)といった。
京大三校俳句会に加入し、ついで東大俳句会で、水原秋桜子に兄事、高浜虚子に師事した。
水原秋桜子、阿波野青畝、高野素十とともに、「ホトトギスの4S」と称された。
戦後の俳句復興にも尽くし、昭和45年(1970)紫綬褒章を受章している。
楽書塚、花菱アチャコ句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
楽書塚と書かれた石碑が建てられており、その南の石碑に次のように刻されている。
らくがきは即ち良久加幾で好いこと
長く更に活力を増すものまた落我鬼で
あるから自分の胸より怪しからぬ思いを
去ってしまうもの 清川虹子
お願い 楽しく落がきの出来る場所を作りました
大切な場所にむやみに落がきをしないで下さい
昭和四十三年十月 柳家金吾楼
花菱アチャコ句碑上部の扇形の石碑に次の句が刻まれている。
笑われて浮世をおくる顔にで来
花菱アチャコ(1897-1974)は、大正、昭和時代の漫才師、俳優である。
明治30年2月14日、福井県に生まれた。本名は藤木徳郎。
喜劇の鬼笑会から漫才に転向し、のちに吉本興業に入った。
昭和5年横山エンタツとコンビを組み「早慶戦」などのしゃべくり漫才を得意とした。
その後、コンビを解消し、昭和10年にアチャコ劇団を結成し、戦後は喜劇俳優として活躍した。
森白象(寛紹)句碑は、和歌山県高野山奥の院英霊殿前平和橋東詰めにある。
石碑には、次のように刻されている。
(前面) 涼しさや奥の院まで坂もなく
(裏面) 高野山真言宗管長 第四百六世金剛峯寺座主
大僧正 森寛紹 和尚 白象と号す
弘法大師御入定壱千百五十御遠忌奉修記念建之
昭和五十九年五月二十日
森白象(もりはくしょう)は、明治32年(1899)愛媛県に生まれ、明治43年に高野山普賢院に入寺している。
昭和47年(1972)高野山第473世寺務検校法印、昭和55年(1980)高野山真言宗管長・第406世金剛峯寺座主となった。
昭和2年(1927)に高浜虚子と出会い、ホトトギス同人となり生涯虚子を俳句の師とした。
一福句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
阪神淡路大震災物故者慰霊碑東側の吉田家之墓 墓石前燈籠石塔軸石に次の句が刻されている。
(南側、向かって左)
焼け失せし 過去帳の魂 まつりけり 一福
(北側、向かって右)
祖師の邊に 集い在して あたたかく 一福
山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」には、「一福」は、当地墓碑の吉田卯之吉氏の俳号ではないかと記されている。
蕪村玉川句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
高野山奥の院の蕪村句碑は、玉川に架かる御廟橋南詰西約10mのところに建立されている。
嘉永元年玉川碑歌碑の手前にあり、紀州有田川産の砂岩製石碑には、次のように刻されている。
蕪村翁
玉川に高野の花や流れ去る
(台石) 金剛峯寺 平成十五年十一月建立
蕪村(1716-1783)は、江戸時代中期の俳人、文人、画家である。
姓は谷口、のち与謝(よさ)と改めた。俳号は宰町、落日庵、紫狐庵、夜半亭など、画号も四明、朝滄(ちょうそう)、長庚、春星など数多い。
享保元年(1716)摂津国東成郡(ひがしなりごおり)毛馬村(現大阪市都島区)で生まれた。→ 蕪村生誕地・句碑
17、8歳の時に毛馬を出て江戸に下り、夜半亭宋阿(早野巴人(はじん))に俳諧を学んだ後、俳諧と絵画の両面で才能を発揮した。
松尾芭蕉、小林一茶とともに江戸の三大俳人として知られ、「なの花や月は東に日は西に」「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」などの俳句がある。→ 蕪村公園
天明2年(1782)3月、蕪村は吉野の花を見てのち高野山に登り、上記の「玉川に」の句を詠んだ。
そのあと九度山の真田庵を訪ね、「かくれ住んで花に真田が謡かな」の句を残している。
天明3年(1783)に「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」の辞世を残し、京都で没した。(享年68歳)
墓所は、芭蕉庵のある京都市左京区の金福寺(こんぷくじ)にある。→ 与謝蕪村の墓
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