市川団十郎墓所

市川団十郎墓所は、和歌山県高野山奥の院中の橋西側にある。
「初代市川團十郎供養塔」と表示されている資料(「高野山奥の院の墓碑を訪ねて」)もある。
中央の板碑には、上部に梵字が刻まれ、その下に市川家の家紋「三升」と「供養先祖所」「子孫蕃育」の文字が刻まれている。
蕃育(ばんいく)とは、やしないそだてることを指す。板碑裏面の文字は判読が難しい。

市川団十郎供養句碑
半球形の台座には、供養塔建立の経過に関する次の文と句が刻まれている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」)
  寶暦三(1753)酉歳二月十九日
  父團十郎五十回忌の
  菩提二代目海老蔵建之
  文政十三(1830)寅二月十九日
  元祖團十郎百二十七廻
  忌相當同年四月十二日
  母十三回忌營追善
   再建七代目團十郎

   雉子啼や
     翁の仰せ
   有る通り        → 芭蕉句碑 高野山内の句碑

左右には花筒があり、向かって右には「市川右團治」左には「市川團蔵」という文字が刻まれている。
市川団十郎は、歌舞伎俳優の名跡で、二代目以降の屋号は「成田屋」である。
元祖(初代)市川團十郎(1660-1704)は、元禄時代(1688-1704)の歌舞伎界を代表する俳優であった。
男伊達と呼ばれていた親分の子 堀越十郎として生まれたが、役者の道を進むことになり、本名の十郎の上に普段の段の字をつけて、段十郎としてデビューした。
その後、京都の名優 坂田藤十郎に認められ、藤十郎の助言で、段の字を團と変えた。
團十郎は、劇作も兼ねて、三升屋兵庫(みますやひょうご)の名前で狂言本を十数編書いている。
元禄17年2月19日に市村座の公演「わたまし十二段」で佐藤忠信を演じていた最中に、同僚役者の生島半六に舞台上で刺殺された。
東京都港区の青山霊園に埋葬されている。

当地墓所のすぐ前には芝居長久歌碑があり、中の橋を渡った約30m先には、七代目市川団十郎の歌碑(成田屋眼玉白猿歌碑)と、市川団十郎 成田屋 関係墓石群がある。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩5分。バス停西側に路側帯駐車枠がある。




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