親鸞聖人供養塔(見真大師御墓)は、和歌山県高野山奥の院にある。
中の橋駐車場から弘法大師御廟への参道を約300m北側に入った左手に登り口の階段がある。
親鸞(1173-1262)は、鎌倉時代の僧で、浄土真宗の開祖である。
下級貴族の日野有範の子として京都日野で生まれ、初め綽空(しゃっくう)と称したが、善信と改め、親鸞と併用した。
「親鸞聖人伝絵」によると、親鸞は遺骸を鴨川にいれて魚に与えよと遺言したといわれる。
明治9年(1876)、明治天皇から「見真大師」の諡号が贈られた。
諡号見真は、「大無量寿経」の「五眼讃」の「慧眼見真 能度彼岸(慧眼は真を見てよく彼岸に度す)」を出典とし、東西本願寺の御影堂正面に「見真」の額がある。
親鸞聖人の墓所は、京都の大谷本廟及び大谷祖廟、新潟県上越市の浄興寺にある。
愛甲昇寛氏の「高野山の石造美術」によると、当地の供養塔は、笠が三角形をした総高89.5cmの砂岩製で、高野山唯一の三角五輪塔だという。
この塔は、もと法然上人塔の横にあり、後玉川畔を渡った地に移され、昭和34年頃までは同地にあったが、その後現在地に移され、覆堂が建てられた。
供養塔前に、見真大師御墓 西禅院 との石柱がある。
高野山名所図会の「西禅院」の由緒の項には、次のように紹介されている。
(前略)墓碑の重なるものは即ち、見真大師の碑にして、奥の院にあり、俗に三角石塔と称するものなり、
明治十年四月廿日墓碑大破の際には本願寺より修繕せり、(後略)
西禅院には、親鸞聖人自作の木像があり、親鸞聖人が「六十有三歳」に高野山に登山した際、西禅院第三世泉勝阿闍梨を訪ね、木像を遺したという。
北側の参道入り口には、親鸞聖人歌碑(見真大師参道歌碑)が建立されている。
高野山奥の院には、親鸞聖人宝篋印塔(親鸞聖人圓證兼実覚信尼墓所)も建立されている。
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