高野山句碑めぐり(奥の院を除く) → 高野山関連の俳句等 高野山奥の院句碑めぐり 高野山内の歌碑、句碑、詩碑 和歌と俳句 高野山
田村木国句碑は、和歌山県高野山大門広場の南隅にある。
石碑には次のとおり刻されている。
(表面)
山門を出でて秋日の谷深し 木国
(裏面)
昭和三十二年七月廿一日 総本山金剛峯寺
高野山大門から西を眺めると、鳴子谷の先に葛城、和泉の山を一望することができる。
特に秋の夕刻には、太陽の沈む姿が美しく、多くの参詣客が静かに見入っている。
田村木国(もっこく)(1889-1964)は、本名を田村省三といい、全国高校春夏の野球大会(旧中等学校)創設の功労者として知られる。
明治22年1月1日に和歌山県かつらぎ町笠田中で、寺子屋を開いていた文次郎の長男として生まれた。
2歳の時、父の就職に伴い大阪に移り、北野中学から三高に進み、中途退学した。
明治43年(1910)大阪朝日新聞社に入社し、社会部で全国中等学校優勝野球大会を創案し、大正4年(1915)8月18日に豊中球場で第1回大会が開催された。
昭和8年(1933)に大阪毎日新聞社に移り、整理部長、学芸部顧問を歴任した。
中学時代から句作を始め、大正初期に行友李風らと洗堰吟社(せんえんぎんしゃ)を興し、河東碧梧桐の影響を受けた。
大正6年(1917)に高浜虚子に入門し、大正11年(1922)創刊の「山茶花(さざんか)」で活躍した。
昭和21年には同名の俳句誌 山茶花を創刊して主宰し、みずから「大阪俳壇のラッパ卒」と号して大衆句会の運営に努め、昭和39年(1964)に76歳で没した。
句集「秋郊」「大月夜」「山行」や随筆集「龍の髯(ひげ)」を刊行している。
毎年夏に開かれる高野山の俳句大会には、選者として37回参加したという。
阿波野青畝(あわのせいほ)句碑は、和歌山県高野山の増福院山門前にある。
石碑には、次のように刻されている。
(前面)牡丹百二百三百門一つ 青畝
(裏面)昭和五十八年十一月廿日 総本山金剛峯寺
かつらぎ主宰 阿波野青畝
昭和25年(1950)5月に南海電鉄の企画で、島根県大根島の牡丹千株が高野山金剛峯寺境内(現在の幡龍庭)に植樹され、第1回牡丹句会が催された。
石碑の句は、翌年6月に高浜虚子を迎えて開催された第2回牡丹句会席上の作品で、句集「紅葉の賀」に収められている。
「百」「二百」「三百」「一つ」という数字の畳み掛けが、絶妙のリズムを生んでいる。
季語は「牡丹」(夏)である。歩くにつれて牡丹の数が増えていき、振り返ると入って来た門が一つという、写生俳句の達人、青畝の名句である。
阿波野青畝本人は、「俳句のよろこび」(平成3年刊)の『Ⅰ実作の周辺』で、この俳句について次のように記している。
(前略)では私の経験を思い出してみましょう。
牡丹百二百三百門一つ
はじめに私は高野の金剛峯寺に参詣して内庭の広さが牡丹畑で埋まっている見事さに胸がおどりました。
牡丹が多いことを述べねばならんと覚悟しましたが、それをくだくだ説明しないように単純に単純にと頭を使いました。
そこで律動つまりリズムを「百二百三百」と増やしました。誠に無造作、それが嬉しかったのです。
締め括るために門一つと置きました。黒塗の門が区切られてあったからです。
牡丹の集団が実に華やかに浮き出たのもリズムが乗っているからです。(後略)
「俳句のよろこび」の「自解二十六句」には、次の記事も掲載されている。
牡丹百二百三百門一つ
今月の牡丹の句は、すべて高野の牡丹を詠んだのである。
金剛峯寺の主催で五月二十四日、牡丹の見頃を期して俳句大会をやった。ご西下の虚子先生をはじめ数百名も四方から集まってきた。
前日から高野に登ってきた私は、総本山のいかめしい玄関の式台から上り、左へ折れて狩野派の絵襖をながめて行った。
殺生関白とあだ名をつけられた豊臣秀次が福島正則(注 木食応其)にすすめられて自害したという柳の間の前を通って、それから長い渡廊をつたうて足をすすめると奥殿があった。
また廊づたいに別殿があった。
奥殿の縁側から広い牡丹園が展(ひら)けた。そして別殿はさながら牡丹園のまん中に坐したようだった。虚子先生のおやすみどころであった。
長谷や当麻より二十日ほど遅れた高野の牡丹は、ここに妍をきそうて咲き、清澄な環境にあるためか、遠方にある花も際立って浮き出していた。
「千株の金剛峯寺の牡丹かな」「千株の牡丹に百の巌かな」と虚子先生も詠まれたごとく、見はらしのひろいお庭を錦にして紅白入りみだれた盛観であった。
唐獅子の乱舞を古人は想念したことも、宜なるかなと思われる。→ ぶつだんやさんコラム
夕ぐれになって、めずらしく荒い霧を見た。花の形を崩しはせぬかと気をもんだ。
あるときは大海の怒涛がしぶいてきたようでもあったし、あるときは優しく風塵を立ててあそんでいるようでもあった。
人々は思い思いの牡丹の前に立ったりかがんだり、夢中に句を案じていた。
画学生ならスケッチブックをとり出して、一生懸命に観察し、克明に線描しているにちがいない。
私は私の心をスケッチブックとして写すのだと思ったのであった。
私も往々視覚を変える必要があった。唐門の扉を排して私をいったん寺外に抛り出した。
ということはつまり牡丹園にいて牡丹を見ることに倦怠をおぼえてきたから、こんどは寺の外側からおそるおそる牡丹園をのぞきこんでみたいと考えて唐門をぬけて出たのであった。
長い塀は牡丹園を隠している、開いた唐門がわずかに牡丹園の一部を見せる。
私は門の敷居へ一足ずつ移動して、牡丹の花の群落が一目にとびこんで数をふやしてくるのを知って、感興を湧かしたのだった。
(「かつらぎ」昭和27年9月号)
その後、1985年に幡龍庭が整備されたため、現在は牡丹の庭は残っていない。
阿波野青畝(1899-1992)は、大正、昭和、平成時代の俳人である。
明治32年2月10日奈良県高取町に生まれた。本名は橋本敏雄で、後に阿波野家を継いだ。→ 俳人 阿波野青畝生家
畝傍中学在学中から原田浜人(ひんじん)に俳句を学んだ。
その後、高浜虚子に師事して、昭和初頭、水原秋桜子、山口誓子、高野素十とともに、ホトトギスの四Sと称された。
昭和4年(1929)俳誌「かつらぎ」を創刊して平成元年(1989)12月に森田峠に譲るまで主宰するなど、関西俳壇の重鎮として活躍した。
昭和48年(1973)第7回飯田蛇笏賞、平成4年(1992)日本詩歌文学賞を受賞している。
句集として、万両(1931),、国原(1942)、春の鳶(1952)、紅葉の賀(1962)、甲子園(1972)、不勝簪(ふしょうしん)(1980)などがある。
大阪市にある大阪カテドラル聖マリア大聖堂、滋賀県にある浮御堂に、阿波野青畝句碑がある。
平成4年(1992)12月22日に93歳で亡くなった。
鷹羽狩行句碑は、和歌山県高野山釈迦文院にある。
石碑には、次のように刻されている。
人界へ流れて高野山の星 狩行
鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)(1930-2024)は、昭和時代後期から平成時代の俳人である。本名は高橋行雄。
山形県出身で、山口誓子に師事した。
「天狼」「氷海」同人を経て、昭和53年(1978)に「狩」を創刊し、主宰した。
平成14年(2002)俳人協会会長となり、平成27年に長年にわたる俳人としての業績で芸術院賞を受賞した。
南海高野線高野山駅からバスで霊宝館前下車、徒歩5分。
志太野坡句碑は、和歌山県高野山大師教会にある。
大師教会境内の趙樸初作漢俳碑北側に建立された石碑には、次の句が刻されている。
鶯や木末(こぬれ)は鴉(からす) 置きながら
志太野坡(しだやば)(1662-1740)は、江戸時代前期、中期の俳人である。
姓は志田、志多とも書き、別性は竹田。
越前(福井県)に生まれ、江戸の越後屋両替商につとめる。宝井其角、松尾芭蕉に学び、元禄7年(1694)小泉孤屋らと「炭俵」を編集した。
芭蕉の遺書を代筆した俳人で、蕉門十哲の一人に数えられる。
宝永元年(1704)大坂に移り、中国、九州地方に行脚して、西国に多くの門弟を擁した。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「金剛峯寺前」下車、徒歩3分。東北側と南側に、「金剛峯寺前」と「金剛峯寺第2」の無料駐車場がある。
山陰石楠句碑は、和歌山県高野山大師教会境内にある。
石碑には、次の句が刻されている。
敦盛は いまも十六 盆供養
山陰石楠(やまかげせきなん)(本名 智也)は、大正12年11月13日に生まれた。
元高野山金剛峯寺座主 関栄覚和上門下で、還俗して古美術商 山陰玉石堂を営んだ。
昭和15年(1940)ホトトギス同人 森白象に就き俳句を学び、
山茶花(田村木国)、青玄(日野草城)、天狼(山口誓子)、若葉(富安風生)等に参加した。
俳人雑誌「金剛」を主宰している。著書には、句集晩鐘、大咲心、山姫、魔尼、沙羅、大咲心Ⅱ、金剛、円月、太虚、石楠善句集がある。
他に、句文集俳句曼陀羅、空華、山史高野山、絵本高野山、玉石堂夜話などがある。
川上玉園句碑(金剛峯寺前道しるべ句碑)は、和歌山県高野山金剛峯寺南東の南都銀行高野山支店前歩道上にある。
高さ約170cmの石碑に、次のように刻されている。
(南) 高野山のぼりて
うれし花の笑み
川上 玉園
(東) 右 ふだう阪 京大坂
すぐがらん 大門ぐち
(北) 明治十七年三月吉日周旋方西京 神谷助右衛門 四條大宮
菩提所 自性院 神谷重治郎 西院村信
山崎伊兵衛 上山田村
他力成就 大阪 川上作治郎 大東弥
(西) すぐをくのいん
森白象句碑(普賢院)は、和歌山県高野山にある。
石碑には、次のように刻されている。
いく度(たび)も時雨し月の庭に立つ
白象
季語は、「時雨(しぐれ)」で、歳時記には次のような解説がある。
晴れたり、降ったり、断続して定めなく降る冬の雨をいう。冬の始めごろに多い。
秋も晩秋になると、夏の夕立のように強くなく、さっと降ってさっとあがる通り雨がある。
これが時雨の先ぶれであり秋時雨として区別している。
その冬はじめての時雨を初時雨(はつしぐれ)という。四季それぞれ違った降り方をする日本の雨のうちでも、時雨は特に詩歌になじみの深い雨である。
森白象(もりはくしょう)(寛紹)は、明治32年(1899)愛媛県に生まれ、明治43年に高野山普賢院に入寺している。
昭和47年(1972)高野山第473世寺務検校法印、昭和55年(1980)高野山真言宗管長・第406世金剛峯寺座主となった。
昭和2年(1927)に高浜虚子と出会い、ホトトギス同人となり生涯虚子を俳句の師とした。
森白象句碑(普賢院芭蕉堂前)は、和歌山県高野山にある。
四国吉野川産青石の石碑には、次のように刻されている。
(表面)
平凡を倖せとして去年今年
白象(はくしょう)
(裏面)
識
高野山真言宗管長 総本山金剛峯寺 第四百六世座主 森寛紹猊下は 愛媛県重信町ご出身である
幼名 健三 幼くして 高野山普賢院に入山 克己精進 遂に最高峰を極められる 猊下はまた 白象の名をもち ホトトギス派の俳人として名がある
『平凡の中の非凡 非凡の中の平凡』
句は日々生々のお心 高邁なお人柄にあふれ いつまでも清々しく 私たちに呼びかけ 感銘を誘ってやまない
数あるご事蹟の中 管長 座主ご在任中 半世紀に一度の 高祖弘法大師御入定千百五十年御遠忌大法会奉修 の大任を成功裡に果たされた功績はとくに光芒を放つ
第一回愛媛放送賞受賞をはじめ わが社の放送事業を通して かずかずのご高徳に預った縁の深さは有難い
管長 座主ご成満にあたり 長くその徳を讃えんと ここに記念の句碑一基を建立する
昭和六十年十一月十四日
愛媛放送株式会社
代表取締役社長 佐々木弘吉
森白象(もりはくしょう)(寛紹)は、明治32年(1899)愛媛県に生まれ、明治43年に高野山普賢院に入寺している。
昭和47年(1972)高野山第473世寺務検校法印、昭和55年(1980)高野山真言宗管長・第406世金剛峯寺座主となった。
昭和2年(1927)に高浜虚子と出会い、ホトトギス同人となり生涯虚子を俳句の師とした。
高野山奥の院英霊殿前には、森白象(寛紹)句碑がある。
森郁子句碑は、和歌山県高野山普賢院にある。
石碑には次のように刻されている。
朴咲くと聞けば高野に帰りたく 郁子
山陰石楠氏「高野山の句碑・歌碑 第17回 森郁子」では、次のように紹介されている。
高野山を中心に周辺の集落には朴の木が多い。むかし木地師がろくろを使って、朴の木で椀や木皿を刳り、寺院の用に供していたらしい。
初夏の頃、山中にしらじらと咲く大輪の白華はこよなく美しい。
昭和四十九年、森郁子さんはかりそめの病を得、住み馴れた高野山を下って入院療養の日々を送るようになった。
ある日、高野山から見舞いに訪れた人が、
「もう朴の花が咲いています。お寺の裏山の朴も、女人堂の谷の方朴も、馥郁と香りながら白い花を天に向って捧げています。」
と問わず語りに話してくれた。
あゝ一日も早く高野に帰りたい、山中に楚々と咲く朴の花が見たい。あの香り高い朴の木の木陰に立ってみたい-そんな願いも空しく、郁子さんは再び高野に帰ることはなかった。
森 郁子、普賢院先住森寛紹(俳号 白象)前官夫人。句碑は同院裏山中腹に建つ。
解説 山陰石楠
朴の木(ホオノキ)は、モクレン科の落葉高木で、5月~7月に径20cmに達する大きな淡黄白色花を開き、強い芳香を放つ。
日本の固有種で山野に普通に生え、南千島、北海道から九州の温帯~暖帯上部に分布している。
朴は、高級有用材で、柔らかく狂いが少ないため、家具調度品などに用いられるほか、漢方では鎮痛などの治療に使われる。
(出典 平凡社 世界大百科事典)
黒田杏子句碑は、和歌山県高野山無量光院にある。
石碑には次のように刻されている。
(句碑)
涅槃図をあふるる月のひかりかな 杏子
(台石)
藍生俳句会
黒田杏子(ももこ)(1938-2023)は、俳人・エッセイストで、昭和13年医師の父斎藤光と俳人の母節の間に生まれた。
東京女子大に入学し、母の勧めにより俳句研究会「白塔社」で山口青邨の指導を受けた。
心理学科を卒業し博報堂に入社した。テレビ、ラジオ局プランナー、雑誌「広告」編集長などを経て、調査役として定年まで勤務した。
昭和45年(1970)山口青邨の「夏草」に再入門した。
青邨の卓越した選句力と「夏草」の古館曹人を盟主とする「木曜会」で句会や吟行を重ね、「季語の現場へ」身を運び、桜の名木を訪ねる「日本列島桜花巡礼」を57歳で満行している。
師の青邨没後、平成2年(1990)俳誌「藍生(あおい)」を創刊、主宰した。
当地の句碑は、平成19年(2007)6月に建立された。
山陰石楠句碑は、和歌山県高野山無量光院前にある。
令和6年(2024)に、境内南側に移設された。
石碑には、次の句が刻されている。
紅梅や一山統ぶる緋の位
石楠
山陰石楠(やまかげせきなん)(本名 智也)は、大正12年11月13日に生まれた。
元高野山金剛峯寺座主 関栄覚和上門下で、還俗して古美術商 山陰玉石堂を営んだ。
昭和15年(1940)ホトトギス同人 森白象に就き俳句を学び、
山茶花(田村木国)、青玄(日野草城)、天狼(山口誓子)、若葉(富安風生)等に参加した。
俳人雑誌「金剛」を主宰している。著書には、句集晩鐘、大咲心、山姫、魔尼、沙羅、大咲心Ⅱ、金剛、円月、太虚、石楠善句集がある。
他に、句文集俳句曼陀羅、空華、山史高野山、絵本高野山、玉石堂夜話などがある。
池田兎余子句碑は、和歌山県高野山龍泉院にある。
石碑には、次のように刻されている。
来なれては
高野も近し
沙羅の花
山陰石楠氏の「高野山の句碑・歌碑 第23回 池田兎余子」には、次のように紹介されている。
雪が降ったと聞けば高野に登り、石楠花が咲いたと聞けば高野を訪ね、今年も沙羅双樹の花に会いたくてお山に来た。
「祇園精舎の鐘の声、沙羅双樹の花の色」と、平家物語にうたわれた無常の花・沙羅双樹。
この花は旦(あした)に咲いて夕(ゆうべ)に散るーといわれている。人の世のはかなさを象徴するような花のいのちである。
今日も小早く大阪を発ってお昼前にお山に着いた。いつの間にかかよい馴れた高野への道である。
池田兎余子(いけだとよし)。昭和二十七年大阪で緑野(りょくや)俳句会を興し俳句と俳画の指導に努めた。
昭和五十五年八月、緑野俳句会によって高野山龍泉院境内に句碑建立。同会松本淳斧(二代目主宰)筆。
解説 山陰石楠(やまかげせきなん)
沙羅は、釈迦の生涯に深く関わった三つの木(ムユウジュ、インドボダイジュ、サラノキ)である仏教三霊木の一つで、この木の下で釈迦は入滅したと言われる。
平家物語で「沙羅双樹の花の色」と記されるように、涅槃に入ろうとする釈迦の頭と脚の両方向に一本ずつあったとか、背中側と腹側に二本ずつあったとか様々な説から「沙羅双樹」といわれる。
ヒマラヤの山麓、渓谷に自生するが、日本では野外植栽はできない。
そのため、我が国では「和の沙羅双樹」として、ツバキ科の夏に白い花をつける落葉高木のナツツバキ(別名 シヤラノキ)が寺院の庭などに植えられており、6~7月に白い花を咲かせる。
また、高野山では、ナツツバキの仲間で、幹に茶褐色の光沢があって、すべすべしているので、「さるすべり」という方言名をもつヒメシヤラ、ヒコサンヒメシヤラも自生している。
(亀岡弘昭氏「はじめての霊場高野山の植物・動物入門」参照)
光臺院御所桜句碑は、和歌山県高野山にある。
光臺院正門を入ってすぐの御所桜柵横にあり、高さ143cmの石碑には、次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」参照)
古への由緒とはすも御所桜
本堂前には、五十嵐播水句碑がある。
五十嵐播水句碑は、和歌山県高野山光臺院にある。
石碑には、次のように刻されている。
籠り僧ことりともせず蟻地獄
播水
籠り僧とは、①寺の本堂または籠堂にひきこもって、一定期間、水垢離、念仏、読経などの修行をする僧、②人の死後、中陰(四十九日)の間、葬屋にこもって読経など仏事を行う僧である。
五十嵐播水(いがらしばんすい)(1988-2000)は、兵庫県姫路市出身の俳人、内科医である。本名は久雄。
京都帝国大学医学部を卒業、神戸中央市民病院に勤務、内科医長、副院長を経て院長となった。
俳句は、大正9年(1920)高浜虚子に師事、ホトトギス同人。
昭和5年12月以降、俳誌「九年母(くねんぼ)」を主宰。
「播水句集」「石蕗の花」「老鶯」「一頁の俳話」「句作雑話」「句作春秋」などの著書がある。
人柄に根ざした温雅清澄の句風で知られる。→ 全国の歌碑・句碑めぐり
大野林火句碑は、和歌山県高野山南院(浪切不動)の境内にある。
石碑には、次のとおり刻されている。
(前面) この山の真如の月とひきがへる 林火
(後面) 大野林火先生古稀記念 1974.9.29 門下生
石碑前には、濱俳句会一同と記した石燈籠がある。
大野林火(1904-1982)(本名 大野正(まさし))は、横浜出身の俳人である。
大正10年(1921)に臼田亜浪(うすだあろう)の「石楠(しゃくなげ)」に参加した。
昭和21年(1946)には、「濱」を創刊し、主宰し、俳人協会会長も務めた。
「濱」同人で南院住職の内海有昭とその夫人が中心となり、年一度の句会が開かれた。
上記の句は、裏山を散策中に詠んだものという。
昭和49年(1974)に句碑が建立された後、昭和58年(1983)に林火の分骨が碑の下に納められた。
南海高野線高野山駅からバスで波切不動前下車、徒歩すぐ。
北尾鏡之助句碑は、和歌山県高野山高室院にある。
高室院の境内にある石碑には次のように刻されている。
夜桜の門あけてある御寺かな
□山
昭和四拾八年三月二十一日建之
北尾鏡之助
七拾七歳
豊長みのる句碑は、和歌山県高野山金剛三昧院にある。
国宝に指定されている多宝塔の西側に、高さ167cmの石碑が建てられており、次のように刻されている。
(表面)
千年の
杉のこゑ棲む
青高野
みのる
(裏面)
平成五年十月二十九日
風樹俳句会 建之
豊長(とよなが)みのる(1931- )は、神戸生まれの俳人である。
山口草堂に師事し、昭和41年(1966)「南風」新人賞受賞、昭和61年(1986)「風樹(ふうじゅ)」を創刊、主宰し、日本詩歌句協会会長などを歴任。
句集「幻舟」、「方里」、「一会」、「即今」、「南濤抄」、「阿蘇大吟」、「北垂のうた」、「天籟」、「天啓」、「精華」などを刊行している。
高野六木(マツ、スギ、ヒノキ、モミ、ツガ、コウヤマキ)の一つとして杉が挙げられ、奥の院の大杉林が良く知られている。→ 奥の院大杉林と特別母樹林
また、金剛三昧院には、六本杉(別名毘張杉)と呼ばれる樹齢400年といわれる杉の大木がある。
当地の句碑は、風樹創刊15周年を記念して、風樹俳句会が建立した。
句碑除幕式祝辞で、高野山真言宗管長 竹内崇峰大僧正は、次のように述べている。
「御承知の如く、お大師さまによって開かれた高野山は、世界に誇り得る聖地であり、
人々の心の故郷であり、古より多くの文人に愛されたお山でもあります。(中略)
思うに、山河自然を愛する心こそ、文学に親しむ基であり、祈りの世界に生きることでもあります。
国宝の多宝塔、天然記念物の大石楠花でも名高い当院に、豊長みのる先生の句碑が完成しましたことは、
先生と風樹の皆さまばかりではなく、高野山を愛する者の悦びであり、
延いては高野山の俳句文学を後世に永く顕彰するものと確信いたします。(後略)」
宮下歌梯句碑は、和歌山県高野山清浄心院前にある。
碑面には、次のように刻されている。
紀の国の山は佛に明易き 歌梯
三星山彦句碑(高野町神谷)は、和歌山県高野町細川にある。
高野街道京大坂道の一里石の西にある「むすびの地蔵堂」横に、石碑が建立されている。
句碑には次のように刻されている。
(表面)
吹雪ゐる山河少年の日の山河 山彦
(裏面)
先生の句は
ふるさとの山がかえしたこだま
ふるさとのこころを満□る
わたしたちは神谷を愛し
神谷が生んだ
俳人山彦先生を称える
一九七〇年(以下判読困難)
三星山彦(1901-1988) 本名は三星義二(よしじ)。
明治34年和歌山県伊都郡高野村神谷の里に生まれた。
高野村役場、総本山金剛峯寺で勤めた。
俳句は大正5年(1916)頃に高野村長 清水喜三郎(号 颯々庵孤松)に勧められてはじめる。
昭和2年ホトトギスに投句し、高浜虚子の指導を受ける。
昭和6年ホトトギス巻頭の高野山大火の句によって一躍有名となった。
ホトトギス同人、天狼同人。紀伊山脈刊行会選者。
句集に「三星山彦句集」がある。
平成3年没(91歳)。
当地の句碑は、昭和45年(1970)、神谷出身の俳句連衆(三星清、石田貞雄、大家信次、福井健三氏)によって建立された。
南海高野線紀伊神谷駅下車、徒歩15分。極楽橋駅から京大坂道を歩いて約30分。
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