与謝野晶子歌碑

与謝野晶子歌碑は、和歌山県高野山奥の院中の橋公園墓地の親鸞上人供養塔の東側にある。
前面には、みだれ髪(明治34年8月刊)所収の次の歌が刻されている。
  やは肌の あつき血潮にふれも見で 
   さびしからずや道を説く君
裏面には、「昭和二五年五月二九日建之 與謝野晶子顕彰会」と刻されている。
足立巻一氏によると、当地の歌碑は、実際は堺市と南海電鉄が建てたという。
その実務を担当したのは、堺市役所に勤務していた安西冬衛で、安西は高野山で「山上の僧窟に独鈷の如く私は孤愁の虜となっていた」に始まる詩「虎」を書いている。(「文学の旅 10」)

「道を説く君」が誰を指すかは、諸説があるという。
この歌が発表された当初は、上田敏などによって「道を説く君」は「道徳家」のことと解釈されたが、後には堺市在住の友人 河野鉄南であるとされたり、夫の与謝野鉄幹とも言われた。
さらに、「君」は高野山の修行の僧という説や、高野山大師教会初代本部長となった鉄幹の二番目の兄 和田大円と言われたこともあった。
今では、鉄幹説が有力だという。
(「紀州おもしろブック いい碑・旅だち」参照)

与謝野晶子(1878-1942)は、明治から昭和時代の歌人である。
堺市の出身で、旧姓は鳳、本名は志よう。明星に詩歌を発表し、大胆な官能の解放を歌い、奔放で情熱的な作風は浪漫主義運動に一時代を画した。
与謝野晶子は、「経は苦し春のゆふべを奥の院の二十五菩薩歌うけたまへ」、「春の雨高野の山におん児の得度の日かや鐘おほく鳴る」などの歌を作っている。
高野山壇上伽藍には、与謝野鉄幹晶子歌碑が建てられている。→ 高野山内の歌碑




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