阿波徳島蜂須賀家供養塔は、和歌山県高野山奥の院23町石南東にある。
中央の五輪塔は、蜂須賀至鎮供養塔で、地輪前面に次のように刻されている。
是歳慶安辛卯春二月
阿淡两州太守拾遺補闕忠英公
爲先考峻徳院殿
(梵字ア)前阿州太守四品
心岳義傳大居士
蜂須賀至鎮(よししげ)(1586-1620)は、蜂須賀家政の長男で阿波国徳島藩初代藩主である。
豊臣秀吉、徳川家康に仕え、元和6年に、父に先立って没した。(享年35)
法名は、峻徳院殿前阿州太守四品心嶽義傳大居士で、墓所は、徳島市興源寺にある。
忠英は、至鎮の嫡男で33回忌に当地の供養塔を建立している。
蜂須賀家は、その後14代270年にわたり阿波徳島藩主をつとめた。
向かって右後ろにある宝篋印塔は、蜂須賀正勝(小六)供養塔で、前面に次のように刻されている。
天正十四丙戌年
福聚院殿四品
良岩浄張大居士
五月廿二日
蜂須賀正勝(1526-1586)は、安土桃山時代の武将で小六と称した。
尾張国で蜂須賀正利の長男として生まれ、斎藤道三の被官となった。
桶狭間の戦いで織田信長を助け、のち羽柴秀吉の墨俣築城で功を挙げ、姉川の合戦、山崎の合戦等でも活躍している。
絵本太閤記(花月文庫)では、日吉丸と小六の出会いの場が次のように描かれている。
ここに尾州海道郡の住人蜂須賀小六正勝といへる者あり。
乱れたる世の習ひにて、近国の野武士をかたらひ、東国街道に徘徊し、落武者の武具を剥取、(中略)岡崎橋を渡りけるに、
彼(かの)日吉丸 此橋の上によく寝て前後もしらで有りけるを、小六通りさまに日吉丸が頭を蹴て行過る。
正勝は、天正9年播州竜野の大名となり、天正13年(1585)阿波一国を与えられたが、高齢を理由に嫡子家政に譲った。
天正14年(1586)正勝は大坂の玉造で死去し、福聚院殿良岩浄張大居士の法名と従四位下修理亮が追贈された。
関ヶ原の合戦では、家政は、阿波を豊臣秀頼に返上し、高野山光明院に隠棲して、嫡子蜂須賀至鎮を徳川方に参加させた。
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