伊予松山 松平(久松)家供養塔は、和歌山県高野山奥の院31町石南東にある。
芭蕉句碑と父母恩重碑の間に位置し、参道東側に約10m入ったところにある。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、玉垣に囲まれた墓所内には、大型五輪塔1基、中型五輪塔4基、小型五輪塔4基がある。
中央にある西向き大型五輪塔は、松平定頼供養塔で、地輪には次のように刻されている。
豫刕松山城主前隠刕太守
定頼公爲御菩提造立焉
乾光院殿前四品
(梵字)
心嚴道雄大居士
施主孝子松平隠岐守定長
寛文二壬寅天正月廿二日
大型五輪塔の奥にある小型五輪塔には、「定頼公追腹之衆」と刻されている。
大型五輪塔前には、南北に二本の石柱があり、次のように刻されている。
(南)松平隠岐守定頼分骨
(北)松平隠岐守定勝分骨
松平隠岐守定勝分骨の石柱前の中型五輪塔地輪は判読が難しいが、高野山金石図説によると、次の銘文が刻されている。
勢刕桒名城主松平隠岐守
殿爲御追善
前羽林四品雲巖
(梵字) 崇源院殿
大居士御菩提
施主生國尾刕智多郡
道水卿久松氏勝直造
(右)寛永元年
(左)三月十四日
崇源院は、松平定勝(1560-1624)である。徳川家康の異父弟で父は久松俊勝、母は於大の方である。
生後間もなく、異父兄の松平元康(徳川家康)から、家門に准じて松平氏の称号が与えられた。
遠江掛川藩主、山城伏見藩主を経て、伊勢桑名藩主となっている。
定勝の家督を継いだ定行が伊予松山藩主となり、定行長男の松平定頼(1607-1662)が、伊予松山藩第2代藩主となった。
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