上小倉神社は、和歌山市下三毛にある神社である。
和銅年間(708~)の創立で、金銀銅を以って社殿を装飾し華麗なこと界隅無比といわれたが、天正の乱(1585)の兵火に罹り社殿と社寺を焼失した。その後、慶長年間に再建された。
明治6年村社となり、九頭神社と称されたが、明治43年神社合祀の際、上小倉神社と改称された。
主祭神は、手置帆負命(たおきはへのみこと)、彦狭知命(ひこさしりのみこと)で、誉田別命ほか三柱が配祀されている。
大和橿原の宮建立に際し、手置帆負命、彦狭知命の二神の孫が当地に移り来て、材木の調達や正殿の建築に大いに活躍し、
その功績によって地領を与えられ、当地で住み暮らすことになり、その祖神を祀ったといわれており、大工の神様と称されている。
鳥居から拝殿に至る参道横には、天然記念物一葉松跡がある。
松葉は、一般的には二本であるが、この木の松葉は一本の丸い葉で、学問上も非常に珍しく、後鳥羽上皇が熊野参詣の際に、吐前王子社宿泊中、歯の痛みに悩まされて、
その夜の夢で当社に立ち寄るようお告げがあり、この松の葉で歯痛を直したとの故事がある。
そのことから、「歯治しの宮」と言い伝えられ、後世 「はなしの宮」、或は、「はだしの宮」となまって伝えられている。
この一葉松は、和歌山県の文化財に指定されていたが、昭和45年(1970)に老枯し、現在は根と写真が展示されている。
拝殿西には、夜泣き石がある。
この一組の石は、昔、新庄山の中腹に、蔵王権現の社があり、その境内山の入口に置かれて、袂石(たもといし)と呼ばれていた。
天正年間に光恩寺を開山した信譽上人(しんよしょうにん)が、その一つの男石を光恩寺に持ち帰り据え置いたところ、残されたもう一つの女石が、「夜な夜なすすり泣きをする」とのうわさが広まったという。
信譽上人はそのうわさを伝え聞き、心を痛めて早速元の所に石を戻したところ、夜ごとのすすり泣きが止んだという。
そのような話もあり、土地の人々から、「結縁石(けちえんいし)」、なまって「けっちん石」と呼ばれ、子授けに霊験ありとのことで、「子授け石」などとも呼ばれた。
その後、明治時代末の神社合祀の際に、この一組の石が当社に移され、夫婦石として安置されることとなった。
JR和歌山線紀伊小倉駅下車、徒歩15分。
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