金ヶ崎城跡 天筒城跡

金ヶ崎城跡、天筒城跡は、福井県敦賀市にある。
金ヶ崎城は敦賀湾に突き出た丘の上に築かれた中世の城である。
現在は周囲が埋め立てられたが、北、西、南の三方を海に囲まれ、東に隣接する天筒山城に続く尾根にも要害(城戸)を設けており、難攻不落の城として知られた。
築城時期、築城者は不明であるが、養和元年(1181)9月木曽義仲を討つべく越前に向かった平通盛のことを記した「玉葉」にある「津留賀城」は、当城であるといわれる。
ここでは、二度の大きな合戦が繰り広げられた。

一度目は、南北朝時代で 二年余りにわたる金ヶ崎城争奪戦である。
延元元年(建武3年)(1336) 足利尊氏が京都で光明天皇(北朝)を擁立したため、後醍醐天皇(南朝)は吉野へ移った。そして、新田義貞は、後醍醐天皇の皇子 尊良親王、恒良親王とともに金ヶ崎城に籠城した。
延元2年(1337)正月 北朝の高師泰(こうのもろやす)率いる足利軍が攻撃を開始し、新田義貞は城を脱出して杣山城(南越前城)の軍勢で戦ったが、敗れて撤退した。
同年3月には、金ヶ崎城は落城し、尊良親王と新田義顕は自害し、恒良親王も捕らえられ、京都で毒殺された。
延元3年(1338)新田義貞らの反撃で、南朝方は金ヶ崎城を奪還したが、翌年北朝方が取り戻した。
新田義貞は、延元3年7月越前国藤島の灯明寺畷で戦死している。

二度目は、戦国時代で、「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる織田信長の撤退戦である。
元亀元年(1570) 織田信長が京都から近江、若狭を経て越前に侵攻した。
信長軍の丹羽長秀らが沼地から朝倉軍に攻め込み、天筒山城を陥落させ、金ヶ崎城の朝倉景恒(かげつね)は、信長軍に城を明け渡した。
織田信長は城を修築し、朝倉攻略の拠点とする構えを見せたが、近江の浅井長政が朝倉方と図り越前国境に迫っていると知って急ぎ撤退した。織田信長は僅か十人ほどの供と、京都に帰還したという。
後世には、この戦いについて、織田信長の妹で浅井長政の妻となっていた「お市」が、両端を紐で固く結んだ小豆袋を届けて、挟み撃ちとなる危機を知らせたという逸話もうまれた。
この時の織田信長軍には、木下秀吉、徳川家康、明智光秀も加わっており、彼らも九死に一生を得たという。
後に、太閤記で「金ヶ崎退き口」と書かれてよく知られるようになったが、一色藤長書状には、「金ヶ崎城に木藤、明十、池筑その他残し置かれ」と記されており、木下藤吉郎秀吉、明智十兵衛尉光秀、池田筑後守勝正らが、殿をつとめた。

JR北陸本線敦賀駅からバスで金崎宮口下車、徒歩5分。来訪者用の駐車場がある。





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