新田塚
燈明寺畷新田義貞戦没伝説地

新田塚 (国史跡 燈明寺畷新田義貞戦没伝説地)は、福井市新田塚町にある。
新田義貞(1301-1338)は、鎌倉末、南北朝時代の南朝方の武将である。
元弘3年(正慶2年)(1333)鎌倉幕府を滅ぼし、建武政権から重用されたが、のち足利尊氏と対立した。
兵庫で楠木正成とともに九州から東上する足利尊氏と戦ったが敗れて、恒良(つねよし)、尊良(たかよし)両親王を奉じて越前金ヶ崎城で再起を図ったが敗れて、嫡男義顕(よしあき)が自刃した。
延元3年(1338)越前 燈明寺畷(とうみょうじなわて)(福井市)で守護 斯波高経(しばたかつね)、平泉(へいせん)寺衆徒の軍と合戦中、伏兵に遭遇して戦死した。
その遺骸は、往生院(称念寺)に運ばれて埋葬された。→ 史跡 新田義貞公墓所

江戸時代の明暦2年(1656)に、藤島郷福万村の百姓 嘉兵衛(かへい)が、当地で古兜を水田の中から掘り出し、福井藩4代藩主 松平光通(みつみち)に献上した。
藩の軍学者 井原番右衛門は、元応元年(1319)の年号が記されていたこともあり、この兜を新田義貞のものと鑑定して、当地を義貞戦士の地と推定して藩主に報告した。
その後、藩主松平光通が万治3年(1660)に「暦応元年閏七月二日新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑(下記写真)を建立し、「新田塚」と言われるようになった。
当地は、大正13年(1924)に国の史跡に指定され、掘り出された兜は重要文化財として、藤島神社に保管されている。

JR北陸本線福井駅からバスで新田塚下車すぐ。



TOP PAGE  観光カレンダー
TOP PAGE  观光最佳时期(旅游日历)