長林山 称念寺は、福井県坂井市丸岡町長崎にある時宗の寺院である。
長禄3年(1459)の当寺縁起によると、養老5年(721)泰澄の草創で、念仏堂と号していたが、
正応3年(1290)他阿真教(たあしんきょう)上人の化導によって時宗となり、当地の称念房、道性、仏眼の有徳人三兄弟によって伽藍が建立されたという。
寺号は称念房にちなんでいる。
阿弥陀三尊来迎仏(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩立像)は、もとは豊原寺(丸岡町)念仏堂の本尊であったが、永仁3年(1295)霊託によって当寺に移ったといわれ、坂井市の指定文化財となっている。
長禄2年(1458)室町幕府8代将軍 足利義政の御教書(みきょうしょ)で将軍家の祈祷所となり、寺領56箇所(約100町歩)が寄進され、
寛正6年(1465)後花園天皇の綸旨により天皇家の勅願寺となり、寺運隆盛をきわめた。
明治維新以降、版籍奉還の影響で衰微したが、高尾察玄師が再興して現在に至っている。
寺宝として、鎌倉時代末期の絹本著色他阿上人真教像(国指定重要文化財)や巻子本浄土三部経などを有しており、境内の一角に新田義貞公墓所(県指定史跡)がある。
JR北陸本線春江駅下車、徒歩40分。参拝者用の駐車場がある。
明智光秀と称念寺 → 明智光秀ゆかりの地
斎藤義龍との戦いに敗れた明智光秀は、弘治2年(1556)妻の煕子とともに美濃から当地に逃れてきた。
それから十年間にわたって称念寺の近辺に住んでいたとの記録が残されている。(「遊行三十一祖京畿御修行記」)
光秀は称念寺の門前に寺子屋を開いて学問を教えつつ称念寺に往来する僧らと交流を持って各地の情報を得ていたという。
山田貴司氏の「ガラシャ つくられた戦国のヒロイン像」によると、光秀の三女 珠(玉)(細川ガラシャ)の生誕地は、当地ではないかとしている。
また、称念寺住職が光秀のために、越前の戦国大名 朝倉家の家臣と連歌会の機会を設けた際に、妻の煕子が自身の黒髪を売り、客人をもてなしたという「黒髪伝説」が伝えられている。
後世、松尾芭蕉が奥の細道の旅の途中でこの夫婦愛の物語を聞き、伊勢の又玄(ゆうげん)宅を訪れた際に、弟子の又玄に次の句を贈って励ました。
「月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ」
境内には、芭蕉句碑が建立されている。
日本古典文学全集41「松尾芭蕉集」には、次のように、紹介されている。
七六 明智が妻
元禄二年九月十一日、芭蕉は伊勢山田に至り、翌十二日から西河原の島崎又玄(ゆうげん)方に滞在した。
この句文は又玄の妻女のために草したもの。次の2つの形が伝わっている。
(イ)
「俳諧勧進牒(かんじんちょう)」「芭蕉庵小文庫」、土芳「蕉翁句集」「一葉集」に載るもの。
本文は「勧進牒」に拠る。
伊勢の国 又玄が宅へとどめられ侍る比(ころ)、その妻、男の心にひとしく、もの毎にまめやかに見えければ、旅の心をやすくし侍りぬ。
彼日向守(かのひゅうがのかみ)の妻、髪を切て席をまうけられし心ばせ、今更申出て、
月さびよ明智が妻の咄しせん 風羅坊(芭蕉の別号)
(ロ)
真蹟懐紙。写真が「続蕉影余韻」「芭蕉図録」に載る。
これが、初稿で、(イ)が改稿であろう。
将軍明知が貧のむかし、連歌会いとなみかねて侘侍れば、其妻ひそかに髪をきりて、会の料にそなふ。
明知(ママ)いみじくあはれがりて、いで君、五十日のうちに輿にものせんといひて、頓(やが)て云けむやうになりぬとぞ。
月さびよ明知が妻のはなしせむ ばせを
又玄妻にまいらす。
歌舞伎「時今也桔梗旗揚」二幕目本能寺の場(馬盥の場)では、小田春永(織田信長)が煕子の売った黒髪を手に入れ、白木の箱に入れて武智日向守光秀(明智光秀)に渡し、春永が光秀を召し抱えた恩義を誇示する場面がある。
歌舞伎では、その場面の直後、光秀が春永を討つ決意を固める展開となっている。
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