明智光秀ゆかりの地

明智光秀ゆかりの地を紹介します。


称念寺

長林山 称念寺は、福井県坂井市丸岡町長崎にある時宗の寺院である。
長禄3年(1459)の当寺縁起によると、養老5年(721)泰澄の草創で、念仏堂と号していたが、正応3年(1290)他阿真教(たあしんきょう)上人の化導によって時宗となり、当地の称念房、道性、仏眼の有徳人三兄弟によって伽藍が建立されたという。
寺号は称念房にちなんでいる。
阿弥陀三尊来迎仏(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩立像)は、もとは豊原寺(丸岡町)念仏堂の本尊であったが、永仁3年(1295)霊託によって当寺に移ったといわれ、坂井市の指定文化財となっている。
長禄2年(1458)室町幕府8代将軍 足利義政の御教書(みきょうしょ)で将軍家の祈祷所となり、寺領56箇所(約100町歩)が寄進され、寛正6年(1465)後花園天皇の綸旨により天皇家の勅願寺となり、寺運隆盛をきわめた。
明治維新以降、版籍奉還の影響で衰微したが、高尾察玄師が再興して現在に至っている。
寺宝として、鎌倉時代末期の絹本著色他阿上人真教像(国指定重要文化財)や巻子本浄土三部経などを有しており、境内の一角に新田義貞公墓所(県指定史跡)がある。
JR北陸本線春江駅下車、徒歩40分。参拝者用の駐車場がある。

明智光秀と称念寺
斎藤義龍との戦いに敗れた明智光秀は、弘治2年(1556)妻の煕子とともに美濃から当地に逃れてきた。それから十年間にわたって称念寺の近辺に住んでいたとの記録が残されている。(「遊行三十一祖京畿御修行記」)
光秀は称念寺の門前に寺子屋を開いて学問を教えつつ称念寺に往来する僧らと交流を持って各地の情報を得ていたという。
山田貴司氏の「ガラシャ つくられた戦国のヒロイン像」によると、光秀の三女 珠(玉)(細川ガラシャ)の生誕地は、当地ではないかとしている。
また、称念寺住職が光秀のために、越前の戦国大名 朝倉家の家臣と連歌会の機会を設けた際に、妻の煕子が自身の黒髪を売り、客人をもてなしたという「黒髪伝説」が伝えられている。
後世、松尾芭蕉が奥の細道の旅の途中でこの夫婦愛の物語を聞き、伊勢の又玄(ゆうげん)宅を訪れた際に、弟子の又玄に次の句を贈って励ました。
「月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ」
境内には、芭蕉句碑が建立されている。

日本古典文学全集41「松尾芭蕉集」には、次のように、紹介されている。
     七六 明智が妻
  元禄二年九月十一日、芭蕉は伊勢山田に至り、翌十二日から西河原の島崎又玄(ゆうげん)方に滞在した。
  この句文は又玄の妻女のために草したもの。次の2つの形が伝わっている。

       (イ)
   「俳諧勧進牒(かんじんちょう)」「芭蕉庵小文庫」、土芳「蕉翁句集」「一葉集」に載るもの。
   本文は「勧進牒」に拠る。
 伊勢の国 又玄が宅へとどめられ侍る比(ころ)、その妻、男の心にひとしく、もの毎にまめやかに見えければ、旅の心をやすくし侍りぬ。
 彼日向守(かのひゅうがのかみ)の妻、髪を切て席をまうけられし心ばせ、今更申出て、
   月さびよ明智が妻の咄しせん  風羅坊(芭蕉の別号)

       (ロ) 
   真蹟懐紙。写真が「続蕉影余韻」「芭蕉図録」に載る。
   これが、初稿で、(イ)が改稿であろう。
 将軍明知が貧のむかし、連歌会いとなみかねて侘侍れば、其妻ひそかに髪をきりて、会の料にそなふ。
 明知(ママ)いみじくあはれがりて、いで君、五十日のうちに輿にものせんといひて、頓(やが)て云けむやうになりぬとぞ。
   月さびよ明知が妻のはなしせむ   ばせを
    又玄妻にまいらす。

歌舞伎「時今也桔梗旗揚」二幕目本能寺の場(馬盥の場)では、小田春永(織田信長)が煕子の売った黒髪を手に入れ、白木の箱に入れて武智日向守光秀(明智光秀)に渡し、春永が光秀を召し抱えた恩義を誇示する場面がある。
歌舞伎では、その場面の直後、光秀が春永を討つ決意を固める展開となっている。




一乗谷朝倉氏遺跡

一乗谷朝倉氏遺跡は、福井市市街地から南東約10㎞の一乗谷にある特別史跡である。
朝倉氏は、もと但馬の国(兵庫県養父市八鹿町)の出身で、南北朝時代に朝倉広景が斯波高経に従って越前に入国した。
南朝方の新田義貞との戦いで功をあげ、1467年の応仁の乱での活躍を契機に一乗谷に本拠を移し、朝倉孝景(敏景)が守護斯波氏、守護代甲斐氏を追放して越前を平定し、1471年には、越前守護職となった。
それ以降、孝景、氏景、貞景、孝景、義景と朝倉氏五代103年間にわたって、一乗谷は越前の政治、経済、文化の中心として繁栄した。
北陸の小京都とも呼ばれ、足利義昭をはじめ、京や奈良の貴族や文化人が多く訪れている。
小和田哲男氏の「明智光秀、秀満」によると、15代将軍足利義昭の一乗谷滞在中に作られた直臣名簿の「足軽衆」14名の末尾に「明智」とあり、
明智光秀が、義昭臣下として、一乗谷を訪れたとしている。
しかし、天正元年(1573)刀根坂の戦いで織田信長に敗れて朝倉氏は滅び、城下町も焼討に遭い灰燼に帰した。
その後、越前の中心は北庄(きたのしょう)に移り、一乗谷は農地となって朝倉氏の城下町跡は、そっくり埋もれていた。
昭和42年(1967)から遺跡の発掘調査が進められ、昭和46年(1971)には、一乗谷城を含む278haが国の特別史跡に指定された。
また平成3年(1991)には、諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、館跡庭園、南陽寺跡庭園が特別名勝に指定された。
さらに平成19年には、出土品2,343点が重要文化財に指定されている。
特別史跡、特別名勝、重要文化財の三重指定を受けた場所は、金閣寺など全国で6例しかないという。
JR越美北線一乗谷駅下車、徒歩20分。来訪者用の駐車場がある。






明智神社

明智神社(あけっつぁま)は、福井県福井市東大味町にある。
通称「あけっつぁま」と呼ばれる小さな祠があり、その中には高さ約13cmの 烏帽子姿、墨で塗りつぶされた木彫りの明智光秀坐像が祀られている。
「あけっつぁま」は、「明智さま」が話しやすい言葉に転化したものである
明智光秀一家は、永禄5年(1562)から永禄10年(1567)までの間、東大味(ひがしおおみ)の土居(井)之内に住んでいたといわれる。
明智光秀が織田信長に仕えた後も、信長が越前一向一揆を掃討する際、東大味の人々が戦禍に巻き込まれないよう配慮したと伝えられ、
光秀の死後、その遺徳を偲んで坐像が作られ、光秀屋敷跡地、土居(井)之内に住家のある三軒の農家によって四百余年の間守られてきた。

祠の前には、「福井市東大味町 明智光秀公三女 細川ガラシャゆかりの里」の石碑が建てられている。→ 越中井
細川ガラシャの生誕地については、ガラシャ伝記類の多くが、越前で生まれたと記している。(田端泰子「細川ガラシャ」ほか)
その根拠の一つに挙げられるのが、享保5年(1720)に福井藩主 松平吉邦(よしくに)の指示で編まれた城跡、屋敷跡の報告書「城跡考」である。
同書には「屋敷跡三カ所 朝倉家 中村但馬 明智日向守 今井新兵衛」と記され、上記のとおり明智光秀の屋敷があったと考えられている。
しかしながら、細川ガラシャ生誕地に関する同時代史料は確認されていないことから、山田貴司氏は、「ガラシャ つくられた「戦国のヒロイン」像」で、
ガラシャの生誕地は、福井県の長崎称念寺門前ではないかとしつつも、他の場所の可能性もあるとしている。→ 細川ガラシャゆかりの地




金ヶ崎城跡 天筒城跡

金ヶ崎城跡、天筒城跡は、福井県敦賀市にある。
金ヶ崎城は敦賀湾に突き出た丘の上に築かれた中世の城である。
現在は周囲が埋め立てられたが、北、西、南の三方を海に囲まれ、東に隣接する天筒山城に続く尾根にも要害(城戸)を設けており、難攻不落の城として知られた。
築城時期、築城者は不明であるが、養和元年(1181)9月木曽義仲を討つべく越前に向かった平通盛のことを記した「玉葉」にある「津留賀城」は、当城であるといわれる。
ここでは、二度の大きな合戦が繰り広げられた。

一度目は、南北朝時代で 二年余りにわたる金ヶ崎城争奪戦である。
延元元年(建武3年)(1336) 足利尊氏が京都で光明天皇(北朝)を擁立したため、後醍醐天皇(南朝)は吉野へ移った。そして、新田義貞は、後醍醐天皇の皇子 尊良親王、恒良親王とともに金ヶ崎城に籠城した。
延元2年(1337)正月 北朝の高師泰(こうのもろやす)率いる足利軍が攻撃を開始し、新田義貞は城を脱出して杣山城(南越前城)の軍勢で戦ったが、敗れて撤退した。
同年3月には、金ヶ崎城は落城し、尊良親王と新田義顕は自害し、恒良親王も捕らえられ、京都で毒殺された。
延元3年(1338)新田義貞らの反撃で、南朝方は金ヶ崎城を奪還したが、翌年北朝方が取り戻した。
新田義貞は、延元3年7月越前国藤島の燈明寺畷で戦死している。

二度目は、戦国時代で、「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる織田信長の撤退戦である。
元亀元年(1570) 織田信長が京都から近江、若狭を経て越前に侵攻した。
信長軍の丹羽長秀らが沼地から朝倉軍に攻め込み、天筒山城を陥落させ、金ヶ崎城の朝倉景恒(かげつね)は、信長軍に城を明け渡した。
織田信長は城を修築し、朝倉攻略の拠点とする構えを見せたが、近江の浅井長政が朝倉方と図り越前国境に迫っていると知って急ぎ撤退した。織田信長は僅か十人ほどの供と、京都に帰還したという。
後世には、この戦いについて、織田信長の妹で浅井長政の妻となっていた「お市」が、両端を紐で固く結んだ小豆袋を届けて、挟み撃ちとなる危機を知らせたという逸話もうまれた。
この時の織田信長軍には、木下秀吉、徳川家康、明智光秀も加わっており、彼らも九死に一生を得たという。
後に、太閤記で「金ヶ崎退き口」と書かれてよく知られるようになったが、一色藤長書状には、「金ヶ崎城に木藤、明十、池筑その他残し置かれ」と記されており、木下藤吉郎秀吉、明智十兵衛尉光秀、池田筑後守勝正らが、殿をつとめた。

JR北陸本線敦賀駅からバスで金崎宮口下車、徒歩5分。来訪者用の駐車場がある。






坂本城跡

坂本城跡は、滋賀県大津市下阪本にある。
坂本城は、元亀2年(1571)9月、比叡山延暦寺焼討ちの後、織田信長に滋賀郡の支配を命じられた明智光秀が築城した。
琵琶湖の水を引き入れ、まわりの小川を堀に利用した水城(みずじろ)形式の城で、日本で最初の石垣と瓦葺の天守を持つ城で、大天守と小天守があったとされる。
日本最古級の天守がそびえていた坂本城について、当時布教で日本にいたポルトガル人宣教師 ルイス・フロイスは、織田信長の安土城に次いで豪壮華麗な城と称賛している。
坂本城築城の目的は、山門(比叡山延暦寺)の監視だけでなく、彦根の佐和山城とともに、信長の領国美濃と京都とのルートの確保、水運の拠点とすることであった。
その後、天正10年(1582)6月の本能寺の変が起こり、明智光秀敗死後、娘婿明智秀満が坂本城に帰り、豊臣秀吉の家臣堀秀正と戦ったが、妻女、家臣ともに討ち死にし、城は焼失した。
その後、丹羽長秀によって再建され、秀吉臣下の杉原家次、浅野長吉と城主が変遷し、1586年に城主が大津城に移ったため廃城となった。
坂本城跡とされる地の南側に、坂本城跡公園(北大津湖岸緑地)があり、石碑とともに明智光秀の像が建てられている。
京阪電鉄石山坂本線浜大津駅からバスで下阪本下車徒歩4分。北大津湖岸緑地内に無料駐車場がある。





西教寺

西教寺は、滋賀県大津市坂本にある天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山である。
戒光山兼法勝(かいこうざんけんほっしょう)西教寺と称する。
推古天皇26年(618)聖徳太子が恩師の高麗(こま)僧 慧慈(えじ)、慧僧(えそう)のために創建したと伝えられる。
その後荒廃していたが、天暦年間(947-957)に天台座主の元三慈恵(がんさんじえ)大師良源上人が復興再建して念仏の中央道場とした。さらに恵心僧都も入寺している。
鎌倉時代の正中2年(1325)に入寺した恵鎮(円観)上人は、最澄が畢生の大事業として提唱した大乗円頓戒を復興した。
文明18年(1486)に比叡山で修行した真盛(しんせい)上人が入寺し、堂塔と教法を再興して不断念仏を始め、現在もその伝統が受け継がれている。
元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちで焼失したが、坂本城主となった明智光秀が檀徒となって、天正2年(1574)に再建された。
天正18年(1590)には、山城粟田口にあった法勝寺(ほっしょうじ)と合併した。
明治11年(1878)、明治政府によって別派独立が公許され、「天台宗真盛派」の本山となった。
昭和16年(1961)に天台三派合同となったが、昭和21年(1946)に天台宗三派、延暦寺(山門)、三井寺(寺門)、西教寺(盛門)が分離、天台宗真盛派を「天台真盛宗」と公称して独立し、全国に400余りの末寺を有している。
総門(高さ6.4m幅5.6m)は、天正年間に明智光秀が坂本城門を移築したと伝えられている。
本堂は、桁行七間、梁間六間入母屋造りで、江戸時代の元文4年(1939)に落成したもので、重要文化財に指定されている。
本尊の木造阿弥陀如来坐像は、信楽の浄福寺から移したものである。
本堂西側の客殿は、豊臣秀吉の伏見城にあった旧殿で、慶長3年(1598)に大谷刑部吉隆の母と山中山城守長俊内室が寄進したもので、内部には狩野派の絵が描かれている。
境内には、宗祖である円戒国師慈摂(じしょう)大師真盛上人の御廟があり、墓地には明智光秀一族の墓、加賀前田公息女菊姫の墓などがある。
京阪電鉄石山坂本線又はJR湖西線比叡山坂本駅からバスで西教寺下車すぐ。参拝者用の無料駐車場がある。



萬日大法会

墓地手前には、萬日供養塔が並んで建てられている。
真盛上人が44歳で西教寺に入寺した時、弥勒菩薩が下生する五十億年後まで不断に念仏を相続しようとの大誓願を立てた。
そして、上人の滅後一萬日(27年4カ月)に、萬日法会が行われており、その記念に建立されたものである。
令和3年(2021)11月2日から8日まで 不断念仏相続 十九萬日大法会が行われた。





今井町

今井町は、奈良県橿原市にあり、重要伝統建造物群保存地区に指定されている。
今井という地名は、北朝至徳年間、元中3年(1386)の興福寺一乗院の文書に残されている。
実際の町としての成立は、天文年間(1532-55)に石山本願寺の今井兵部卿豊寿が、称念寺の前身である道場を建てたのが始まりといわれる。
濠を巡らし、一向宗宗徒が集住して、城塞都市の今井寺内町が形成された。
永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を擁して上洛して以降、本願寺は信長と対峙し、今井町も呼応し抵抗した。
しかしながら、天正3年(1575)に明智光秀を通じて降伏したため、信長の赦免の朱印状が下され、今井郷に自治特権を許された。
江戸時代には、商業都市となり今井札という銀札も発行され、「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した。
現在の今井町は、大半の民家が江戸時代以来の伝統様式を保っており、数多くの重要文化財の住宅を有している。
毎年第3日曜日とその前日の土曜日に、「今井町並み散歩」と題したイベントが行われ、多くの観光客が訪れる。
近鉄橿原線八木西口駅下車、徒歩5分。今井まちなみ交流センター「華甍」駐車場と今井西環濠駐車場がある。





勝龍寺城

勝龍寺城は、京都府長岡京市勝竜寺、東神足2丁目にあった城で、現在は勝竜寺城公園となっている。
勝龍寺城は、京都盆地の南西部に位置し、京都から西宮を経て中国、九州へと続く「西国街道」と、桂川右岸の低地を直進する「久我畷」の結節点を抑え、淀川水系にもほど近い交通の要衝に立地する。
応仁、文明の乱の際にも、西軍畠山義就が陣を置くなど、寺院としての「勝龍寺」が、臨時の砦として利用されるなど、次第に恒常的な城郭として整備された。
元亀2年(1571)には、織田信長の命をうけ、細川藤孝が大改修した。
土を切り盛りして造った、それまでの中世城館とは一線を画し、「瓦葺」「石垣」「天主」といったその後の城郭の標準となる諸要素が取り入れられている。織田信長の安土城築城より5年早く、近世城郭の先駆けとして注目されている。
天正2年(1574)細川藤孝は、三条西実澄(のちの実枝)から古今伝授の切紙を受けるなど文化的な交流の場ともなっている。
天正10年(1582)、本能寺の変の後、明智光秀と羽柴秀吉が戦った天下分け目の山崎の合戦では、一帯が戦場となり、敗れた光秀は勝龍寺城に逃げ、最後の夜を過ごしている。
園内には、細川忠興・玉(ガラシャ)像が建てられており、「明智光秀公三女玉お輿入れの城」との石碑もある。
天正6年(1578)に、藤孝の子息忠興と明智光秀の娘 玉(細川ガラシャ)の婚礼が執り行われた場所とされ、毎年11月第2日曜日には、玉(ガラシャ)が細川忠興のもとに輿入れした状況を再現する「長岡京ガラシャ祭」が開催されている。
この婚礼地の伝承は、熊本藩の歴史書「綿考輯録」に収められた書状を根拠としているが、馬部隆弘氏の研究では、書状は書式や内容から見て偽文書で、明智家との関係を示して家格を高めようとした人物が偽造したのではないかとしている。
JR京都線長岡京駅下車徒歩10分。来訪者用の駐車場がある。→ 高桐院





八木城跡 内藤ジョアン顕彰碑

八木城跡は、京都府南丹市八木町にある。
八木城は、南丹市八木町の城山(標高330m)に築かれていた山城である。
確認されている遺構の規模(東西約700m×南北約900m)からは、戦国時代丹波でも有数の山城であったことがうかがえる。
氷上の黒井城(兵庫県丹波市)、多紀の八上城(兵庫県篠山市)と並ぶ丹波三大山城の一つと伝えられている。
八木城の築城年代は明らかではないが、内藤氏が戦功により足利尊氏から八木の地を賜り、築城したといわれている。
室町時代に細川氏が丹波を領国として守護するようになると、永享3年(1431)頃、八木城の内藤氏が丹波守護代として任命され、八木城を拠点として丹波地方での勢力を拡大していった。
天正元年(1573)足利幕府が消滅すると、織田信長の命で、明智光秀の丹波攻略が開始され、天正3年(1575)八木城は落城した。
その後、明智方により城の改修が行われたが、本能寺の変後、廃城となった。

キリシタン武将 内藤ジョアン(如安)顕彰碑は、八木城跡城山登山口にある。
ジョアンの父、内藤宗勝は、もとは松永長頼(甚介、蓬雲軒)といい、三好長慶の有力家臣の松永久秀の弟で、一時は八木城を拠点として丹波に君臨したが、荻野直正との戦いで、天田郡和城付近で討死した。
跡を継いだ内藤貞弘は、都の南蛮寺で宣教師ルイスフロイスから洗礼を受け、ジョアンと呼ばれた。
織田信長、足利義昭に従っていたが、母の死を契機にジョアンは八木城を出て、盟友小西行長に合流し、朝鮮出兵にも参加した。文禄の役では、小西行長の客将として講和使節の大任を命じられ、明国北京に赴き休戦交渉を行った。
関ヶ原の合戦後、小西行長が改易されると、加藤清正に仕え、さらに同じキリシタン武将だった高山右近の尽力で前田利家の客将となった。
慶長19年(1614)徳川幕府のキリシタン禁教令により、高山右近らとともに、マニラに流刑となり、寛永3年(1626)73歳で亡くなった。




黒井城跡(保月城趾)

黒井城跡(保月城趾)は、兵庫県丹波市春日町黒井にある国指定史跡である。
春日盆地のほぼ中央にある城山(356.8m)(別名 猪ノ口山)山頂に位置しており、八木城、八上城とともに丹波三大山城の一つといわれる。
建武2年(1335)足利尊氏に従い新田義貞とたたかった赤松貞範(さだのり)が、その戦功により丹波春日部荘をあたえられ、山頂に砦を築いたがはじまりといわれる。
応仁・文明の乱(1467-1477)前後には、荻野氏の所領となり、黒井城も荻野氏の居城となった。
天文23年(1554)、赤井氏から荻野氏の猶子となった直正は、荻野秋清を殺害して黒井城主となり、荻野悪右衛門直正と名乗った。
直正は、丹波北部各地の戦いで勝利を得て勢力を広げ、黒井城の大改修を行い、堅固な要塞とした。
天正年間(1573-92)初期には、黒井城は反織田勢力の拠点となり、直正は甲斐の武田勝頼、石山本願寺の下間頼兼らとも気脈を通じている。
天正3年(1575)、越前の一向一揆を平定した織田信長は、明智光秀に丹波攻めを命じた。
明智軍は丹波の国人衆の大半を服従させて黒井城を「相陣」で包囲し、来春には落城するとの風聞が広がった。
しかし、天正4年正月15日、八上城主 波多野秀治が寝返って明智光秀の陣を急襲し、総崩れとなった明智軍は壊滅的打撃を受け、栗栖峠方面に退却した。これは、後に「赤井の呼び込み戦法」と呼ばれている。
天正6年3月に直正は病死し、天正7年(1579)明智光秀が再び攻撃して、6月に八上城が落城、8月に黒井城も陥落した。赤井直正墓所は、和歌山県高野山奥の院にある。
明智光秀は、黒井城南麓の興禅寺に陣屋を設け、家臣斎藤利三に代官を命じて氷上郡を統治させた。
落城以降は城跡が放置されたが、本城部分、曲輪跡、砦跡などの遺構が残されており、戦国時代の山城の様子を残している城跡として、平成元年(1989)に国の史跡に指定された。
JR福知山線黒井駅下車、山頂まで徒歩1時間。山麓の興禅寺の南と北に来訪者用の駐車場がある。




丹波亀山城跡

丹波亀山城跡は、京都府亀岡市荒塚町にある。
丹波亀山城は、天正5年(1577)から天正7年にかけて、織田信長の命を受けた明智光秀が、丹波攻略の拠点として築城した。
大堰川右岸の河岸段丘上の小丘(亀山)を利用した平城で、亀宝(きほう)城とも呼ばれた。
「丹陽軍記」によると、明智光秀は、近藤秀政の居館を拡張した普請を溝尾庄兵衛らに命じ、近在の神社仏閣の格子、敷石などを借用し築城したという。
天正10年(1582)の本能寺の変で、光秀は亀山から出陣し織田信長を討ったが、羽柴秀吉との山崎合戦で敗れ、丹波亀山は秀吉の支配下に置かれた。
そして、堀尾吉春、羽柴秀勝(信長四男 於次(おつぎ)丸)、豊臣秀勝(関白秀次の弟)、豊臣秀俊(後の小早川秀秋)、前田玄以などが城主や代官となった。
江戸時代に入り、慶長14年(1609)岡部長盛が藩主となると、天下普請として西国大名を動員しての整備が行われ、藤堂高虎が伊予今治から5層の層塔型天守を移築した。
明治11年(1878)には、廃城令を受けて亀山城も解体され、荒廃した。
大正8年(1919)亀岡出身の宗教法人「大本」教祖、出口王仁三郎(わにさぶろう)が、本丸、二ノ丸址13,500坪を入手して石垣等を整備したが、昭和10年(1935)の政府弾圧で施設が破却された。
戦後、大本の信者によって再整備され、「亀岡天恩郷」となっている。

大本神苑の一部であるため、見学の際には、みろく会館1階総合受付で申し込みが必要である。
石垣上には、高さ20メートルの大イチョウがある。明智光秀の手植えと伝えられ、江戸時代中期に台風で倒れ、若木を植え替えたもので、「亀岡音頭」にも歌われている。
城跡北側の南郷公園には、明智光秀公像がある。
JR山陰本線亀岡駅下車徒歩10分。来訪者用の駐車場がある。





福知山城

福知山城は、兵庫県福知山市の朝暉ケ丘丘陵(旧名 横山)にある。別名臥竜(がりゅう)城とも呼ばれた。
この地は、中世後期に豪族塩見氏が横山城と称する城館を築いたといわれる。
天正7年(1579)8月、丹波の諸城を攻略していた明智光秀に攻められ落城した。
光秀は、この城を奥丹波の要衝として重視し、堤防を築いて由良川の流れを変え、縄張りをして城下町を造ったといわれ、近世福知山城の原型は、明智光秀の時に築かれた。
その後、光秀は娘婿の明智秀満を城代として入れ、この地の統治を任せた。
本能寺の変後の山崎合戦で、光秀と秀満は滅ぼされ、羽柴秀長をはじめとした城主を迎え、改修と増築が進められた。
本格的な城郭は、慶長5年(1600)徳川家康によって6万石を与えられた有馬豊氏の時代に完成した。→ 高野山奥の院 筑後久留米有馬家供養塔
江戸時代に入り城主は頻繁に変わったが、寛文9年(1669)朽木稙昌(たねまさ)が、常陸国土浦から入部して以降は、明治維新に至るまで約270年間、朽木氏が藩主を務めた。
明治6年(1873)の廃城令で、天守周辺の石垣や銅門を残して城の大半は失われた。
昭和に入り、市民の「瓦一枚運動」等もあり、昭和61年(1986)に3層4階の望楼型の天守などが再建された。
天主閣内は、福知山市郷土資料館として、考古資料や歴史文書が展示されている。

天守台から本丸にかけての石垣は、野面積(のづらづみ)という積み方で、多くの五輪塔や宝篋印塔などの石造物が転用石として利用されている。
天主閣の東側にある豊磐の井(とよいわいのい)は、深さ50mで地下の水脈まで岩盤を掘り下げており、日本有数の深さを誇っている。
豊磐の井の北側には、藩祖 朽木稙綱公を祭神とする朝暉神社がある。
天守北東には福知山市佐藤太清(たいせい)記念美術館がある。
平成2年(1990)に開館したもので、文化勲章受章者の日本画家 佐藤太清(1913-2004)の作品が展示されている。
JR山陰本線及び福知山線で福知山駅下車、徒歩15分。東側に福知山城公園観光駐車場がある。




本能寺跡

本能寺跡は、京都市中京区にある。
織田信長が上洛時に京宿としていた寺院で、家臣明智光秀に不意打ちをかけられ最期を遂げた場所である。
現在の本能寺は、寺町御池下ルに移転されている。
跡地には、記念碑が建てられている。
京都市バス四条堀川下車,、徒歩5分。




山崎合戦古戦場

山崎合戦古戦場は、京都府大山崎町にある。
山崎は、天王山の南麓で、山が淀川に向かって南に突出する「山のさき」を意味する語が地名となったといわれ、天正10年(1582)6月に明智光秀と豊臣秀吉の山崎合戦が行われた。
天王山夢ほたる公園には、「天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場」の石碑が建てられている。
公園の東側を流れる円明寺川(小泉川)を挟んで、両軍が激突した。
太閤記によると、合戦前夜、明智光秀は松田太郎左衛門に山崎の地理をよく知っているとして大山崎の背後にある天王山占拠を指令した。
これに対し、豊臣秀吉も堀尾吉春に天王山占拠を命じた。両者は競合したが結果的に堀尾吉春が先んじて天王山を奪取し、優位に戦いを進めた。
このことから、勝負の分かれ目のことを「天王山」と呼ばれるようになった。
阪急電鉄京都線西山天王山駅下車、徒歩15分。




境野一号墳 明智光秀本陣跡

境野一号墳、明智光秀本陣跡は、京都府乙訓郡大山崎町にある。
境野一号墳は、古墳時代前期後半の前方後円墳で、4世紀後半に築造された。
発掘調査の結果、全長58m、後円部径32mの規模となっている。
斜面は、後円部が二段か三段、前方部は二段に築かれている。
斜面には葺石を施し、平坦部には円筒埴輪が樹立され、後円部から車輪石、石釧(いしくしろ)などが出土している。

境野一号墳の場所は、本能寺の変の後、天正10年(1582)6月13日の山崎の合戦の時、明智光秀方の本陣が置かれた場所ではないかと考えられている。
「太閤記」の記述に御坊塚に光秀本陣が置かれ、兵力は五千有余とあり、周辺の地形を考慮すると、境野一号墳が本陣に利用されたという。
古墳のある場所は標高25.2メートルで、周辺と比べると高くて視界が開けるのがわかる。
発掘調査では、空堀り跡とみられる遺構が複数発見され、火縄銃の鉄砲玉も出土している。
合戦は、羽柴秀吉軍の勝利に終わった。敗れた明智光秀は、勝龍寺城から坂本城に向かう途中、山科小栗栖で落ち武者狩りの村人の手にかかり、無念の最期を遂げた。
阪急電鉄京都線西山天王山駅下車、徒歩約20分。




明智藪

明智藪は、京都市伏見区小栗栖小阪町にある。
明智光秀(1528?-1582)は、天正10年(1582)6月2日に織田信長を襲撃して自刃させた。(本能寺の変)
その後、光秀は6月13日の山崎の合戦で羽柴秀吉軍に敗れ、勝龍寺城から坂本城に逃げる途中、小栗栖の藪で、落ち武者狩りをしていたと思われる土地の者に竹やりで突かれて深手を負い、最期を遂げたといわれる。
以降、明智光秀が討たれた場所は「明智藪」と呼ばれるようになり、昭和50年(1975)には石碑が建てられた。
現在は、西側にある本経寺(日蓮本宗)の寺領となっている。
当地から約1.6㎞北側には、明智光秀の胴塚がある。

江戸時代に書かれた「都名所図会」には、次のように記されている。
「小栗栖の里は石田の西にあり。このところより木幡山(こはたやま)を越えて伏見城山に出づる道あり。これを明智越といふ。
天正十一年、明智光秀山崎の合戦に敗し、江州坂本の城におもむくときにこの道を逃ぐる。小栗栖の土民出でて竹の槍をもつて害す。このゆゑに名とせり。」
「光秀が竹槍にて亡ぼされし藪は、南小栗栖法華檀林の側らにあり。この薮を伝領しける土民、災ひありとていまはこの寺へ寄附しけるとなん。」

京都市営地下鉄石田駅下車、徒歩15分。



明智光秀の胴塚

明智光秀の胴塚は、京都市山科区勧修寺御所内町にある。
明智光秀(1528?-1582)は、天正10年(1582)6月2日、本能寺に宿泊していた織田信長を急襲し自害させた。(本能寺の変)
その後、光秀は6月13日の山崎の合戦で羽柴秀吉軍に敗れ、勝龍寺城から坂本城に逃げる途中、
小栗栖の竹藪(通称「明智藪」)で、落ち武者狩りをしていたと思われる土地の者に竹やりで突かれて深手を負い、自害して家臣に首を打たせたと伝わっている。
光秀の首は、家臣によって隠されたともいわれるが、吉田兼見(よしだかねみ)という公家が記した日記「兼見卿記」によると、光秀の首は6月15日までに発見された。
6月18日からは、粟田口(左京区)で重臣斎藤利三(としみつ)の首とともに数日間晒され、6月22日、23日には近くに埋め、塚を築いたことが記されている。
また、「明智藪」近くのこのあたりに、光秀の遺体(胴体)が埋葬された「胴塚」があったと伝えられている。
「明智光秀之塚」の石碑は、こうした伝承を伝えるため、昭和45年(1970)10月に、地元山科の有志によって建立された。
京都市営地下鉄東西線小野駅下車、徒歩10分。





明智光秀の塚

明智光秀の塚(明智光秀首塚)は、京都市東山区梅宮町にある。
天正10年(1582)6月2日、明智光秀は本能寺に宿泊していた織田信長を急襲し自害させた。(本能寺の変)
しかし光秀は、備中高松城(岡山市)から引きあげてきたきた豊臣秀吉と山崎で合戦し敗れた後、勝龍寺城からわずかな家臣とともに近江の坂本城をめざした。
そして、その途中、小栗栖(おぐるす)(京都市伏見区小栗栖小阪町)の竹藪で地元の農民に襲われて重傷を負い、自害して家臣に首を打たせたと言われている。

光秀の首は、家臣によって隠されたともいわれるが、吉田兼見(よしだかねみ)という公家が記した日記「兼見卿記」によると、光秀の首は6月15日までに発見された。
6月18日からは、粟田口(左京区)で重臣斎藤利三(としみつ)の首とともに数日間晒され、6月22日、23日には近くに埋め、塚を築いたことが記されている。
「都名所図会」など、江戸時代の京都について記した地誌類には、塚が蹴上付近にあり、三条通北側の人家の裏側にあると記されている。
多くの書物に記されていることから、当時よく知られた名所であったことがうかがえる。
その後、江戸時代中期の安永年間から天明初年頃(1770-1780頃)に、蹴上の塚にあった石塔婆が当地に移された。
天明7年(1787)刊行の「拾遺都名所図会」には、明智光秀塚が明田(あけた)氏という人物によって白川橋三条の南に移されたとの記載がある。

小栗栖の明智藪、胴塚、西教寺、谷性寺、盛林寺とともに、明智光秀を弔う場所となっている。
京都市営地下鉄東西線東山駅下車、徒歩3分。




盛林寺

大円山 盛林寺は、京都府宮津市字喜多にある曹洞宗の寺院である。
本尊は、釈迦如来。
寺伝によると、天正5年(1577)6月に上宮津城主小倉播磨守の菩提寺として宮津大久保谷に創建という。その寺地は明らかでない。
開山の趙室宗栢和尚は、越前瑞洞院(福井県武生市)四世、盛林寺に住して20年、慶長元年(1596)12月に示寂した。生前85歳当時の頂相が寺蔵されている。
小倉氏は、丹後守護一色氏の「国の奉行」の一人で、戦国時代において現在の市街地域も含む宮津谷一円の支配者であった。
織田信長の天下平定の戦の過程で、小倉、一色両氏は細川藤孝らによって滅ぼされたが、盛林寺は細川氏とも良好な関係を保っていた。
そのため、これら諸家の過去帳や位牌、細川藤孝の子で夭逝した菊童(即安梅心童子)の肖像画などの資料が残されている。
本堂背後の墓地にある明智光秀の首塚は、天正10年(1582)の山崎の合戦のあと、豊臣秀吉により本能寺に晒された光秀の首が、娘の玉(細川忠興の正室 のちの細川ガラシャ)のもとに届けられ、宝篋印塔が建立されたと伝えられている。
境内の「三界唯心塔婆(さんがいゆいしんとうば)」の大板碑は、趙室宗栢和尚が建立したものである。
碑面は、上部に蓮華座上の円相を刻み、その下面は中央に大きく三界唯一心と縦に書き、横に五本の界線を引いてその最上段に十三名の僧名を刻んでいる。
三界唯一心の語は、華厳経から出た語とされ、世界一切のものを心のあらわれとするところから、凡夫の汚れにみちた世界と仏の浄らかな世界を一つにみる教えといわれている。
KTR宮福線喜多駅下車、徒歩8分。参拝者用の駐車場がある。





明智光秀一族の墓

明智光秀一族の墓は、滋賀県大津市の西教寺境内にある。
山門前には、「明智光秀公の一族の菩提寺」の石碑があり、
境内墓の案内板には、「坂本城主明智日向守光秀とその一族の墓」と記されている。
元亀2年(1571)9月、織田信長の比叡山焼討ちにより、西教寺も全山類焼となった。
その後、再興に尽力したのは、信長の家臣 明智光秀で、坂本城主として一帯の復興に当たり、西教寺の大本坊(庫裡)を造築した。
西教寺には、明智光秀の刻銘入りの棟木が残されている。
天正2年(1574)仮本堂を完成し、現在の本尊(阿弥陀如来)を迎えている。
明智光秀は、天正10年(1582)の本能寺の変のあと、山崎の合戦で敗死し、一族とともに西教寺に葬られたといわれる。
西教寺塔頭實成坊の過去帳には、下記のとおり記されている。
   天正十年六月十四日 秀岳宗光大禅定門(明智十兵衛尉殿日向守光秀)
供養塔には、次のとおり刻されている。
   秀岳宗光大禅定門
   南無阿弥陀佛
   天正十壬午年六月十三日
供養塔前には、元禄六年(1693)に記された「明智軍記」をもとにした、明智光秀公辞世句の石碑が建立されている。
西教寺では、毎年6月14日に光秀忌を営んでいる。
一族の墓の西側には、二十五菩薩の像が建てられ、さらにその西には、明智光秀の妻 凞子(ひろこ)の墓がある。



明智塚

明智塚は、滋賀県大津市下坂本の旧国道161号線沿いにある。
当地は、明智光秀の坂本城の敷地内であったと推定されている。
現地の説明板によると、塚の由来について、坂本城落城の際に、光秀の脇差名刀の郷義弘並宝器物を埋めた跡であり明智一族の墓所であると傳えられている。
明智一族の悲運もあり、毎年6月15日に鎮魂祭が行われる。
京阪電車石山坂本線下坂本駅下車徒歩5分。





谷性寺

清瀧山谷性寺(せいりょうざんこくしょうじ)は、京都府亀岡市宮前町にある。
平安時代創建になる真言宗大覚寺派の古刹で、不動明王を本尊としている。
天正年間 明智光秀は、本尊不動明王を深く崇敬し、本能寺の変を決意すると、この不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願したという。
天正10年(1582)山崎の合戦で明智光秀が破れたのち、当山に従者の記しのある小型石碑が建立された。
その後、安政2年(1855)明智光秀を慕う志士が、「光秀公首塚」を残した。
昭和56年(1981)の明智光秀400回忌に光秀公木像を安置して開眼供養が営まれた。
境内には、輪法紋、桔梗紋の刻まれた明智山門、七重石塔がある。
毎年初夏に明智家の家紋であるキキョウが咲くことから、「桔梗寺」と呼ばれる。
JR山陰本線亀岡駅からバスで猪倉下車、徒歩5分。



 ききょうの里

1972年に日本最初の明智光秀顕彰会が結成され、6月13日の命日を中心に遠忌法要が営まれている。
平成15年(2003)から、谷性寺周辺の農地で桔梗が植えられ、毎年6月下旬から8月まで「ききょうの里」として公開されている。




御霊神社

御霊神社は、京都府福知山市中ノ町にある。
祭神は、宇賀御霊大神(うがのみたまのおおかみ)で、配神として日向守光秀公(明智光秀)を祀っている。
「丹波志」に御霊神として「祭神明智光秀霊 参詣八月十八日 社地凡十四五間横八間」と記されている。
由緒として、明智光秀の時に地子免除の特典を与えられた恩恵を謝し、光秀の霊を祀り火災水難のないことを祈ったという。
神社蔵の「明智日向守光秀祠堂記」によると、その年は宝永2年(1705)で、それ以前城下は度々の災害に見舞われ、その原因を光秀の祟りとする気持ちが福知山城下の町民に浸透していたという。
初めに祠が祀られたのは、光秀の位牌のあった常照寺境内で、その後、上紺屋町(かみこまやまち)にあった稲荷神社の境内に祠が移された。
大正6年に広小路を西方へ拡張するため、大正7年(1918)に現在地に遷座された。
神社には、光秀の軍法である家中軍法や、光秀自筆書状があり、福知山市の文化財になっている。
由良川の治水事業にちなみ、昭和59年(1984)に「堤防神社」が建立された。
境内には、叶石(かなえいし)、俗称「子持ち石」と呼ばれる霊石(礫岩)がある。
JR山陰本線及び福知山線福知山駅下車、徒歩15分。参拝者用の無料駐車場がある。




妙心寺 

妙心寺は、京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の総本山である。
山号は正法山(しょうぽうざん)、本尊は釈迦如来で、日本最大の禅寺として知られている。
宗峰妙超(大燈国師)に深く帰依した花園法皇が、建武4年(1337年)に、自らの離宮萩原殿を禅寺とし、宗峰が推した関山慧玄(かんざんえげん)を開山として迎えたのが、当寺の始まりである。
室町時代には小規模で、五山十刹にも加えられず、足利義満の圧迫や応仁の乱などで一時中絶した。
その後、寛正3年(1462年)に住持となった雪江宗深が細川勝元らの援助を受けて再建した。
従来、妙心寺への入寺は、まず大徳寺への入寺を必要としたが、永正年間にこの慣例を破り、大徳寺の末寺的存在から独立し、江戸期には白隠慧鶴(はくいんえかく)ら多数の禅傑を輩出し、隆盛した。
徹底した組織運営を図り、臨済宗の主流として教団を形成したことから、俗に妙心寺の算盤面(そろばんづら)といわれた。
妙心寺の七堂伽藍配置は、禅宗としては全国随一といわれ、勅使門、放生池、三門、仏殿、法堂、寝堂、大方丈、小方丈、大庫裏が直線状に並んでいる。
法堂と浴室は、通年で拝観できる。
法堂では、かつて鐘楼にあった妙心寺鐘(国宝)を見ることが出来る。
徒然草第220段に「凡そ鐘の声は、黄鐘調なるべし。---浄金剛院の鐘の声、又黄鐘調なり。」と記され、もと浄金剛院(廃寺)にあったものである。
「戊戌年」(698年)の銘があり、在銘鐘としては、日本最古のもので、録音で黄鐘調鐘(おうじきちょうのかね)の音色を聴くことが出来る。
法堂天井には、狩野探幽法眼守信の描いた雲龍図がある。
浴室は、通称「明智風呂」と呼ばれ、明智光秀(1528-82)の叔父で塔頭大嶺院(廃寺)の密宗(みつそう)和尚が、光秀の菩提を弔うために創建したものである。
塔頭は40以上あり、一部は通年あるいは限定で公開されている。
JR山陰本線花園駅下車徒歩5分。南総門東側に、参拝者用の駐車場がある。




明智光秀供養塔

明智光秀供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある五輪塔である。
奥の院内24町石から約30m東に参道を進むと、右側に「右光秀公之墓」の石碑があり、約20m先に「明智光秀墓所」「菩提寺恵光院」の表示がある。

江戸時代の紀伊名所図会には、次のように記されている。
  〇明智碑(あけちのひ)
   同上(かみにおなじ) 世俗(せぞく)日向守光秀(ひうがのかみみつひで)の墓といふ。
   梵字のゆがめるを以てその名を負(おふ)せたるならむ。
   是全(これまったく)光秀の碑にはあらざれども、不忠を誡(いまし)むるに足るべし。
明治30年刊の高野山独案内名霊集には、次のように記されている。
  明智光秀墓
   中の橋に程近き。道邊に割れし五輪あり。童子(わらべ)までも云ひ傳ふ。
   主人を殺せし天罰に。その身は土民の手に罹り。最後を遂げしのみならず。
   菩提の為と建てられし。石塔さへも粉な微塵。割れて悪名残すとぞ。

明智光秀(1528?-1582)は、安土桃山時代の武将で、通称十兵衛といわれた。
明智氏は美濃土岐の一族であったが、光秀は越前の朝倉義景(よしかげ)に仕え、のち織田信長の家臣となった。
将軍足利義昭と信長の間を取り持ち、公家との交渉にも手腕を発揮した。
元亀2年(1571)近江坂本城主となり、天正3年(1575)惟任(これとう)日向守と称して丹波攻略に着手した。
丹後平定の後、大和、摂津等の諸武将を束ね、近畿を統率する地位となった。
天正10年(1582)、中国地方征伐を命ぜられ、6月1日夜、亀山から出陣したが、「敵は本能寺にあり」として京都に向かい、翌2日に織田信長を襲い自刃させ、織田信忠を二条城で囲んで敗死させた。(本能寺の変)
しかし、予想外の速さで羽柴秀吉が毛利氏と和して東上したため、山崎の戦で敗れ、敗走の途中、小栗栖(おぐるす)で農民に竹槍で刺され、最期を遂げた。
法名は明窓玄智。(西教寺墓、過去帳は秀岳宗光大禅定門。)

明智光秀供養塔(総高178cm)は、光秀家臣の津田重久(しげひさ)が、山崎から高野山に逃れ、主君光秀の追善供養を依頼して建立されたといわれる。
菩提寺恵光院の過去帳には、「天正十年七月十四日 大瀧寺殿惟任義盛明鑑光秀大禅定門」という明智光秀と思われる戒名が残されている。

また「寛永三年(1626)六月七日 寶亀院賢室艶顔良英大姉」という女性の戒名の横に「俗名 ヲモン 光秀の子」と添え書きされている。
この ヲモンの過去帳は昭和4年(1929)に縁者の長野県須坂市の久田家が、一族の永代供養に恵光院を訪れた時の記録として記されたものである。
「久田家の口伝として、ヲモンは光秀の娘として四歳の時、高野山より鎧櫃の中に入れ、根来の膳椀百人前を添えて信州墨坂の郷へ落とすものなりと云う添え書きを附して久田家へ来たりしものなり」
昭和4年の記録によると、明智光秀が山崎の戦いで敗れた時、娘のおもんは高野山に逃れたが、豊臣秀吉の力が高野山にも及びだしたため、4歳のおもんが須坂の久田家に落ち延びたことがわかる。
久田家に伝えられた膳椀も、昭和初期に恵光院に納められ、現在も保管されている。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩15分。奥の院前バス停西側の路側帯駐車スペースを利用できる。





桔梗塚(明智光秀公の墓)  光秀公ゆかりのうぶ湯の井戸跡

桔梗塚(明智光秀公の墓)、光秀公ゆかりのうぶ湯の井戸跡は、岐阜県山県市中洞地区にある。
現地の案内板と、山県市の資料には、次のような説明がある。

明智光秀ゆかりの地 桔梗塚 (明智光秀の墓)
生誕の地と伝わる中洞地区
 ここ中洞地区は、明智光秀が生まれた土地だと言い伝えられています。
 その伝承によると、光秀は土岐元頼(基頼)と、中洞の豪族である中洞源左衛門の娘との間に、長男として生まれたといいいます。
7歳の時に父が亡くなったことから、美濃国可児郡(現在の岐阜県可児市)の明智城主・明智光綱のもとで軍学兵法を学び、やがて養子となったと伝えられています。
 当地の白山神社境内には、光秀の母がうぶ湯の水を汲んだという井戸跡が、また近くの武儀川には、光秀を身ごもった際に母が「たとえ3日でも天下を取る男子を」と祈ったという行徳岩があります。

「本能寺の変」後も光秀は生きていた?
 光秀は山崎の合戦で命を落としたというのが通説ですが、中洞地区では「合戦で死んだのは影武者で、光秀本人は生きていた」という言い伝えがあります。
光秀は郷里の中洞に落ち延びた後、身代わりとなった影武者・荒木行信の忠誠に深く感銘して「荒」と「深」を取って自ら荒深小五郎と名乗り、中洞の地で暮らしました。
その後慶長5年(1600)、徳川家康の要請で、関ヶ原の合戦に向かう途中、増水した薮川(根尾川)で馬と共に押し流されて亡くなったと伝えられています。
 当地の林の中に、桔梗塚とよばれる光秀の墓があります。塚の名称は明智家の家紋が桔梗であることに由来しており、荒深家の人々によって毎年2回、供養祭が行われるなど大切に守られています。
 光秀は自らの領地で善政を行い、家臣や領民に慕われたと語り継がれており、中洞地区に限らず全国各地で祭事や供養祭などが続けられています。光秀は、土岐・明智家の再興や領民の幸せを叶えたいという思いを胸に秘めていたのかもしれません。

岐阜バス板取線樫瀬バス停下車徒歩15分。関広見インターから車で15分。





明智孫十郎直経の墓

明智(恩田)孫十郎直経の墓は、岐阜県山県市富永にある。
神明神社南に恩田家墓所があり、墓碑には父母と孫十郎及び妻の戒名が刻まれている。
孫十郎の戒名は、心源院殿涼月常居士で、右には没年月日の天正十年六月二日が書かれている。

明智(恩田)孫十郎(1541-1582)は、恩田与惣左衛門直實の子として生まれ、美濃国守護の土岐頼芸に仕えた。
18歳の時、大桑城攻めがあり、孫十郎が決死隊を組んで四国山城(道三が大桑城への兵糧入れ防ぐためにつくらせた城)を奇襲し、兵糧道を確保したといわれる。
その時の武功で、頼芸から山県郡内に領地2か所と、「土岐の鷹」と呼ばれる絵(頼芸が好んで描いた鷹の絵)を拝領した。
土岐頼芸が近江国に逃亡した後は、諸国を渡り歩き、その頃に明智光秀と巡りあった。
恩田孫十郎は明智光秀の側室の妹を正室に持っていたことから、光秀から「明智」の姓を賜り、それ以降「義弟 明智孫十郎」と名乗って、光秀に仕え、亀山1万2千石の扶持を得た。
天正10年6月2日の本能寺の変では、織田信長自害後に、信長嫡男の信忠を討つべく二条城に攻め入ったが、乱戦の中、明智孫十郎は二条城で討死した。






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