高桐院(こうとういん)は、京都市北区紫野大徳寺町にある。
大徳寺の塔頭の一つで、江戸時代初期の武将で茶人としても有名な細川忠興(三斎)が、慶長年間(1596-1615)に、父 細川幽斎の弟 玉甫紹琮(ぎょくほしょうそう)を開祖として建立した細川家の菩提寺である。
三斎は、千利休の七人の高弟(利休七哲)の一人で、書院は利休の邸宅を移築したものといわれる。
書院入り口には、南禅寺管長であった柴山全慶師の次の詩額がある。
花語らず
花は黙って咲き、黙って散って行く
そうして再び枝に帰らない
けれども、その一時一処に
この世のすべてを 托している
一輪の花の声であり
一枝の花の真である
永遠に ほろびぬ命の よろこびが
悔いなく そこに 輝いている (全慶老師)
書院に続く茶室「松向軒(しょうこうけん)」は、三斎好みの二畳台目で、三畳の水屋が付き、壁や天井にも趣向が凝らされている。
書院の庭は江戸初期の作庭で、また、本堂の前庭は楓の樹を巧みに配置しているのが特色である。
寺宝として、中国の南宋時代の画家 李唐の山水画二幅が有名で、現存する墨絵山水画の圧巻と賞賛されている。
境内には、三斎と夫人ガラシャ夫妻のほか、細川幽斎(藤孝)、歌舞伎の創始者とされる出雲阿国、名古屋山三郎らの墓がある。
細川忠興(三斎)は、熊本八代で83歳で示寂した。高桐院3代清嚴が熊本で葬儀をして遺歯を持ち帰り、遺言により利休灯籠を以って墓標とした。
この春日型灯籠は、高桐院型灯籠と呼ばれ、もと千利休が聚楽第の屋敷に置いていた「天下一」と称する灯籠である。
当時、天下人の豊臣秀吉から、譲ってほしいと所望されたが、裏三分の一をわざと欠いて疵物と言って、秀吉の請いを退け三斎に贈ったといわれる。
三斎は、さらに蕨手(わらびて)、灯口等をきれいに欠いて「無双」と名付け、寂後は夫妻の墓とするよう命じたという。→ 勝龍寺城
京都市バス建勲神社前下車、徒歩3分。
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